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NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の旅・前橋編 その二 ☆クリスマススペシャル☆

2015年12月22日 | 旅行記

大河ドラマ「花燃ゆ」の最終ステージとなった明治編は、ヒロイン美和と楫取夫妻の向かった新天地、「群馬」が舞台の中心となる物語でした。
明治編放送前までは、大河ドラマでどのように明治維新後の「群馬」が描かれるのか? 群馬県民としては興味津々ずっと気になってました・・・。
ここで、またまた「上毛かるた」ですが、「ま」の読み札と言えば「(群馬県は)繭と生糸は日本一。」です! ついでに今回も前橋編なので「県都、前橋糸の町。」というのもありました。
そのように幕末から明治、近代に至っての群馬県は「シルクカントリー」と言われるように、どこへ行っても蚕の餌となる桑の葉を作る桑畑と養蚕農家。蚕の作った繭から生糸を紡ぐ製糸場が造られ、そしてその生糸は欧米に輸出されたり、或いは綺麗な織物になってゆきました。

「花燃ゆ」明治編に中で描かれた明治の群馬も、まさに「シルクカントリー群馬」の世界だった言っていいほど、予想以上に養蚕業や製糸にかかわる内容になっていたのが素晴らしいです!!
2014年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」が晴れて世界遺産に登録されたという経緯もあり、さすがNHK、群馬県の誇る世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」を、かなり意識したシナリオになっていたというのも嬉しかったですね~。

「富岡製糸場と絹産業遺産群」につきましては、当ブログでも2014年6月~7月にかけて記事に取り上げてますので、バックナンバーをぜひご覧ください。
富岡製糸場と言えば、明治14年前後に明治政府は財政軽減のため民営化を計画し、もし民営化がうまくいかない場合は廃場する方針を打ち出しました。それを受けた群馬県令・楫取素彦は反対意見書を政府に提出して、製糸場の存続が守られたというエピソードも「花燃ゆ」のドラマになってました。
また富岡製糸場の三代目、五代目の所長を務めた器械製糸の先駆者・速水堅曹も、楫取とともに富岡製糸場を廃場の危機から救っています。


藩営・前橋製糸所跡の碑
写真は明治5年開業の富岡製糸場にさきがけて、明治3年には開業していた日本で最初の機械製糸場、前橋藩営・前橋製糸所跡の碑です。
前橋製糸所は激増する生糸需要とそれに伴い発生した粗製乱造をただすため、前橋藩主の命を受けた速水堅曹と深沢雄象が創設しました。


晩年の速水堅曹(はやみ けんそう 1839年~1913年)


キリスト者でもあった 深沢雄象(ふかさわ ゆうぞう 1833年~1903年)
(速水堅曹と深沢雄象の写真は「上毛新聞社 シルクカントリー群馬」さん http://www.jomo-news.co.jp/silk/ より引用させて頂きました。) 

 
この二人の藩士は天保年間に川越藩士の家に生まれ、藩主の松平家が前橋藩に移封とともに前橋に移り前橋藩士となっています。
速水堅曹はスイス人技師C・ミューラーから器械製糸技術を学び、日本最高の製糸技術者の地位を築いています。全国への器械製糸の普及にも貢献し、製糸業の技術スペシャリストとして大活躍だったそうです。
前橋製糸所跡の碑は前橋市街地内の国道17号線を北に向かい、広瀬川の橋を渡ってすぐの住吉町一丁目の交差点にあります。

「花燃ゆ」のドラマの中で楫取素彦が富岡製糸場を訪れた際に出会った青年実業家・星野長太郎は、水沼製糸場の設立準備のために、前橋製糸所で自ら伝習を受け速水堅曹から器械製糸のスキルを習得しています。(星野長太郎と水沼製糸場につきましては、当ブログ「花燃ゆ」の旅・桐生黒保根編で詳しく紹介させて頂きました。)


前橋機械製糸場跡近くに残る「旧安田銀行担保倉庫」
大正2年に建築され、主に生糸を保管したという大規模な倉庫。「県都、前橋糸の町」の歴史を伝える貴重な近代化遺産で、「ぐんま絹遺産」にも登録されています。


前橋機械製糸場付近を流れる広瀬川。
前橋は今も「水と緑と詩の街」とも言われるように、古くから水が豊富で繭の調達が容易であったことから多くの製糸場が造られました。「MAEBASHI」と記された生糸がヨーロッパを中心に輸出され町は繁栄しました。
藩営・前橋製糸所も広瀬川の水を、水車による動力源としていたそうです。



広瀬川美術館
前橋は詩人・萩原朔太郎の故郷でもあり、広瀬川畔の緑豊かな遊歩道には多くの詩碑や文学館、美術館があり、市民の憩いの場となってます。


日本聖公会・前橋聖マッテア教会
広瀬川から群馬県庁方面に向かって散策すると、こんな素敵な教会堂と出会うことができます。こちらの前橋聖マッテア教会では、「ALWAYS 三丁目の夕日’64」で、六ちゃん(堀北真希さん)の結婚式シーンの撮影が行われたそうです。

聖マッテア教会の界隈には、プロテスタントの教会、正教会(せいきょうかい)、通りを南に下るとカトリック教会といった昔から四つのキリスト教会があります。この通りは前橋のチャーチストリートでしょうか。
群馬県の近代史の二大象徴は、「養蚕・製糸」と「キリスト教」にあると言われるほど、キリスト教は多くの群馬県人によって信仰され心の拠り所となっていました。
特にアメリカから宣教師として帰国した新島襄と、内村鑑三のキリスト教思想は、封建制度が残されていた社会の近代化と民衆の心に決定的な影響を与えたようです。
当時の群馬県内のキリスト教会は、新島襄系の組合教会派の教会が、安中教会を皮切りに県内各地に次々と創立され、一方、ロシア正教修道司祭ニコライの布教活動により、星野長太郎、深沢雄象らの製糸所で働く工女をはじめ多くの人々が受洗に導かれ、水沼村、前橋、高崎に日本ハリストス正教会の説教所や教会ができました。
現在、伊勢崎市の一部となっている島村地区でも、明治初期に蚕種輸出のために横浜の外国人商館に出入りしていた蚕種業者たちが、キリスト教と出会いメソジスト系の島村教会を創立してます。
(島村から蚕種の直輸出のためヨーロッパに旅立つ田島弥平(たじま やへい)たちに、楫取素彦は渡欧費などを協力し送別会も開きました。)
上記の他に明治になって県内に誕生したキリスト教会は、様々な教派母体で成り立ち、いずれも前橋は群馬伝道の活動拠点だったそうです。

明治新政府にとっては治めづらい「難治」の県と言われた群馬の荒々しい県民性、人心を、やすらかならしめたいと願い、楫取夫人の寿(ひさ)さんが、前橋に浄土真宗の説教所を開き念仏の教えを広めようとしました。しかし当時の群馬県人は、浄土真宗よりもキリスト教に関心を示し積極的に受容しました。
群馬でのキリスト教の広がりを目の前にした寿さんは、「外国の教になびく人の出来候も、この御法の有りがたき事を知らぬ故なれば」と語ったそうです。

また楫取県令により明治15年に開校した群馬県女学校は、楫取が県令を辞して群馬を去った後は財政難を理由に廃校になってました。
明治21年に女子教育の重要性を思うキリスト教会有志たち、深沢利重(深沢雄象の娘婿)、安中教会の湯浅治郎、同志社熊本バンド出身の不破唯次郎(ふわ ただじろう)らの協力によって、前橋英和女学校が開校し現在の共愛学園の前身となっています。


前橋ハリストス正教会・聖ニコライ聖堂
聖マッテア教会のある通りから少し東に入った所に、エメラルドグリーンの屋根の綺麗な真新しい前橋ハリストス正教会・聖ニコライ聖堂が建ってます。
ハリストス正教会の教会堂はお茶ノ水駅界隈にあるニコライ堂、函館ハリストス正教会の「主の復活聖堂」が建築物としても観光地としても有名ですが、いずれもこのような色の屋根をしていたように思います。ハリストスとはキリストという意味です。
ここ前橋ハリストス正教会は明治11年に旧前橋藩の士族たちによって設立され、翌年にはニコライ大主教により、深沢雄象をはじめとした士族と製糸工場で働く工女たちに洗礼が施されました。製糸工場だけでも、40~50名の工女が信者だったというから驚きです!

幕末に遡り、慶応3年(1867年)、深沢雄象は川越藩から前橋藩に移封となった藩主・松平直克に従い前橋に移り、町奉行となり、速水堅曹とともに藩財政の安定化のため輸出生糸の品質向上に取り組みました。
明治になって前橋製糸所を創設すると、雄象は参事として前橋藩の責任者。堅曹は生糸取締役として実務・運営責任者にそれぞれ任命されました。
廃藩置県の影響で、前橋製糸所は操業わずか2年で他人の手に渡ってしまいましたが、雄象は再び堅曹、星野長太郎らとともに新しい製糸会社を立ち上げています。
雄象は清廉潔白な武士道精神で製糸業に取り組み、生糸の品質向上による国益増進を目指しました。しかし生糸の品質向上よりも、目先の利潤ばかりを追求しそれを快く思わなかった生糸商人たちによる圧力がかかってきます。
そんな商人たちとの競争に苦しみ心が傷ついていた時、雄象は前橋に布教にやってきたニコライと出会うことになりました。
かつては藩の大目付としてキリスト教を厳しく取り締まっていた雄象は、ニコライの出方によっては一刀両断にする考えでしたが、ニコライはそんな雄象の心をやさしく包み込み、真理の教えに導いてゆきました。

「前略 今般ハイヨイヨ ニコライ神父御出張ニテ、今朝洗礼無事相済ミ、大イニ安心仕マツリ候。」といった手紙が、現在も前橋ハリストス正教会に飾られているそうです。これはニコライから洗礼を受けた日に深沢雄象が、その喜びを星野長太郎に伝えた手紙です。
その後の雄象は、キリスト者、宗教家としても伝道に努めました。それは新約聖書でクリスチャンを迫害していたパウロが、復活したイエス・キリストと出会い改宗し使徒となっていったかのようです。
また製糸会社でも「良心的な経営に努め、工女に土曜の夜と日曜の朝に説教を行った。雄象らの精力的な布教で、正教は製糸法とともに各地に広まった。」(ウィキペディアより)ということでした。
雄象が受洗してから、2年後には群馬県内のキリスト教信者は540人(前橋278人)に達したそうです。

深沢雄象については「絹先人考」というサイトの「ぐんまルネサンス」第2部のページを参考にさせて頂きました。
最後に、「絹先人考」から引用させて頂きます。
〈一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ〉
(深沢雄象の)長女の孝(こう)は聖書の言葉を引用して、雄象の功績を「一粒の麦」に例えた。器械製糸の種は伝習生によって運ばれ、水沼製糸や福島県の二本松製糸、九州の熊本製糸などに結実した。キリスト教も同じように伝習生らに運ばれ、各地に根を下ろした。
ひ孫の深沢忍さん(83)=前橋市関根町=の手元には、ボロボロになった雄象の聖書が残っている。



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2 コメント

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Re:読後感(長谷川勤様) (鳩ぽっぽ)
2018-04-15 01:20:11
ブログをお読み頂いてありがとうございます。(吉田松陰の記事内で一君万民思想、草莽崛起論の所は、ブログ「いり豆歴史談義」さんから引用させて頂いてます。)
この度は長谷川先生から貴重なコメントを頂きまして大変光栄に思います!! 高校生の頃から松陰ファンでしたが、松陰とは何だったのか?をずっと疑問に思い、現代のインターネットの時代になってようやくその輪郭が見えてきた次第です。「親思う心にまさる親心」はまさに涙なしには読めませんね。
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読後感 (長谷川勤)
2018-04-13 23:54:46
この記事を拝読して、感心しました。よくぞ、調べました。群馬県人なのかなと思うほどです。広瀬川の写真も懐かしいですね。一君万民思想や、草莽崛起論がきちんと書いてあります。松陰のうわっつらだけ理解して、テロリスト呼ばわりし、それを朝日新聞は数回記載した。東大教授(中国思想史研究の高崎市出身)、と元文藝春秋社の専務をされた近代史研究家(名前は伏せます)ですが、松陰全集を精読して、吉田松陰の人となりを、真剣に研究した成果とはとうてい思えない記述内容。彼らは【永訣の書】をどんな思いで読んだろうか。【親思ふ こころにまさる親ごころ けふの音づれ 何とときくらん】。
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