だいたい皆さんそうだと思うのだが、「なりたい」と思った職業に就ける人はほとんどいないのではないか?僕もそうだ。映像にはまったく興味はなかったし、映画もテレビもあまり見なかった。だからまさか自分が映像を作るとはまるで想像できなかった。僕の場合、映像業界にもぐりこんだきっかけはイラン人に雇われたことだった。
業界に入ってから初めて知ったのだが、この国には映像関係の専門学校がいっぱいある。僕の周囲にはそういう学校を卒業した人が多い。もしくは大学で自主制作やってたとか、とにかく高校くらいから映像業界を目指していた人がほとんどだ。ほんとにうらやましいと思う。スタートが早いと成長も早いし、その分いっぱい経験が積めるからだ。僕はぜんぜん違った。
1年間ここが僕の仕事場だった。
僕が映像業界に入ったのは28歳のとき。その前は旅行代理店で働いていた。バックパッカーで東南アジアをぶらぶらしてたとき、ふとバンコクの病院で見つけた求人広告にふらふらと応募し現地採用されたツアーガイドだ。2社面接に行って選択肢はミャンマーとカンボジアがあったのだが、なぜか直感的にカンボジアは今しかないという衝動があり、カンボジアに決めた。1996年のこと。1993年にUNTAC(※)の活動が終わってまだそんなに時間が経っておらず、ようやく観光は復活してきたが、まだまだポルポトが生きていた頃のカンボジアだ。
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当時あまりに危険すぎていけなかったバンテアイ・スレイ。ツアーを組むと警察に囲まれていくことになた。
今と違ってアンコールワットには観光客もあまりおらず静かだった。これはこれで楽しかったのだが現地採用だから給料も安いし特に目的もなかったので、1年ほどで退職し帰国した。帰国後、めちゃめちゃ面白いイラン人とたまたま知り合った。
彼はゾノビという名のバイタリティ溢れる最高におもしろい人物だった。
ゾノビは「日本にCNNを作る!」と会社を立ち上げようとしていた。その名も「WORLD TV TODAY」!!現にペルシャ語のビデオ制作ではそこそこ成功していた。「なんかよく分からんがオモロイぞ!」と僕は魅了されてしまい、彼が作ろうとしている会社に入社した。彼と、出資者のペルシャ絨毯を販売する会社の社長さん(この人もイランの方)と、僕だけしかいない3人の会社だった。一月くらいしたらアメリカ人1人と日本人3人が入社したが。
ところがこの事業は4ヶ月で頓挫してしまった。アイデアは素晴らしかったのだが、いかんせん放送局を立ち上げるなんて、生半可な資本では不可能ということが当時の僕には分からなかった。っていうかそもそも誰もコンテンツを作る能力がなかったのだ!!ノンリニア編集なんてないし、DVDもなかった時代。僕はパソコンに触ったことすらなかった。でも怒涛のような4ヶ月でホントおもしろかった。
会社はつぶれたのだが、僕はそのおかげ(?)で映像業界の端っこの端っこにつながることになり、ゾノビの知り合いの映像制作会社の人に拾われてAP兼ADとして雇われることになった。
まあこんな感じで今はフリーのディレクターをやっている。人生ってどうなるかわからないですよ。
※初めて自衛隊が海外にPKOに行ったことで賛否を呼び、文民警察官の高田さんとボランティアの中田さんが亡くなったことで日本に衝撃を与えた、あの活動です。
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あることは知られていたけど、全く行くことができなかったベンメリア。トゥームレイダーのロケ地。今なお撮影時の足場が残る。
ラピュタのモデルといわれるがラピュタ制作時に見に行けるわけがない。