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『三矢重松先生伝』及「記念絵葉書」 三矢重松先生記念会 (1935.5.11)

2018年10月03日 | 清国・民国留日学生 1 教育、松本亀次郎
   

 三矢重松先生伝  三矢重松先生記念会

 〔写真〕

 ・三矢重松先生(大正十一年二月)、教壇に於ける先生

 三矢重松君伝  〔下は、その一部抜粋〕

 三矢家は羽前鶴岡藩酒井侯の世臣にして、重松君は其の第十代に当れり。祖父を静と云ひ、藩の典学たり。父を維顯といひ、母を町子といふ。君は実に其の次子として、明治四年十一月二十九日日を以て鶴岡町大字二百人町の家に生れぬ。七歳にして鶴岡朝陽学校に入り、卒業後西田川中学校に入り、更に山形県尋常中学校に転じぬ。此の間又中臺直矢、角田俊次ニ氏に従ひて漢学を修め、庄内英学会に於て英学を修め、明治二十二年七月中学全科を卒業せり。

 明治二十六年七月、君は第一回の卒業生として國學院を出て、同十一月十日始めて文部省大臣官房図書課に官し、明治二十八年十月、時の大臣西園寺侯爵の所謂「世界主義」なるものを罵倒せる一文を公にせる筆禍に罹りて、官を辞するに至れり。是れ君が最初の一蹉跌なりきと雖も、君は其の所信に殉せるもとして、聊か悔ゆる事なかりき。

 明治三十一年四月大阪府立第五尋常中学校教諭に転任し、翌年九月嘉納治五郎氏の招致を受け、職を辞して東上せり則ち氏の囑に依り、神田区猿楽町に亦楽書院を設けて支那留学生の教育に従事し、三十四年七月に及べり。此の間又三十三年九月には外国語学校講師と為り、三十四年一月には国学院講師となり、其の七月よりは東京高等師範学校講師も囑託せられたり。かくて三十五年一月嘉納氏が支那留学生の為に弘文学院を創まらるゝや、君亦講師と為り、三十六年四月に及べり。斯の如くにして君は支那留学生を教育する事前後五年、その功績の極めて著大なるものありしは、知る人ぞ知るならむ。

   大正十三年七月 島野幸次 

  追記 〔下は、その一部〕

 本稿は十余年の昔、故博士の一周忌辰に当たりて草せしもの、今にして之を見れば意に満たざる所多く、訂正すべき点も亦少しとせず。然るを今回同博士の記念会にて其の再版を企画せられたり。

  (昭和十一年六月)

 会務報告   三矢重松先生記念会

 〔写真七葉〕 (下は、その一部)
  ・記念歌碑(鶴岡市春日神社境内)
  ・記念講演会に於ける折口博士の講演(昭和十年五月十一日全国神職会館に於て)

  追悼会
  記念講演会 〔鶴岡高等女学校に於て〕
      神道と国学    折口信夫氏
      古事記の文章に就て 武田祐吉氏
  招待晩餐会
  記念歌碑
  歌碑除幕式
  除幕式祝詞 折口信夫氏筆
  除幕式式辞
  記念講演会

 歌碑の建設と石材に就いて  秋保親孝

  歌碑歌解

 三矢重松先生著作目録  
 
 なお、この小冊子と絵葉書は、文中の記述から、昭和十年五月十一日に渋谷の全国神職会館大講堂で開かれた追悼会で、記念品として頒布されたものと思われる。


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