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「支那各省別名表」「各省別名起源略解」 鶴峯生 (1912.3)

2021年02月21日 | 清国・民国留日学生 1 教育、松本亀次郎

  

支那各省別名表    鶴峯生

  各省別名起源略解

 各省別名、或は古名に因る者有り、或は略稱を用ふる者有り、或は名山大川に本づく者有り、就中省城の略稱又は古名に取る者、最も多しとす、本表擧ぐる所、〇符を附する者は、最近官報紙上に用ふる者に係り、其の他は、新聞紙、淸國行政法、宦郷要則等に因りて、之を補ひ、其の疑はしき者は、之を闕く、本文解説は、主として大淸一統志、讀史方輿紀要、廣輿記、皇朝政典類纂、日知錄等の諸書に據る。
 直隸省 略して直省と云ふべからず、所謂直省とは、支那本部二十二行省の、直接淸朝に隸属する者を云ふ、蒙古西藏等の外藩の、間接に附属する者と、區別する所以なり、但し直豫東三省、或は直督等の如く、熟字的に用ふる例は、常に見る所なり、直隷、禹貢兗二州の域、陶唐氏に幽都有り、虞周に幽州有り、春秋戰國の時、燕其の大部分を領す、漢魏に燕國幽州の稱有り、前燕の慕容儁、後燕の慕容垂、亦此に據る、是より以後、燕國燕山燕雲燕京幽州幽燕幽都等の名、歷世迭に用ふ、遼金元明以來北京に都してより畿輔の地と爲る。
 山東省 略して東省と云ふ、東三省も亦東省と略稱す。例へば「吉省同属東省、迥異腹地」「孫寶琦電奏、東省災區太廣」等の類の如し、前者は東三省の略稱にして、後者は山東省の省文なり、塲合に由りて區別すべし、山東の稱、今右に因りて、廣狹の差有り、或は崋山以東を指し、或は太行山以東を指す、今の山東は、乃ち宋の京東西路にして、金改めて山東と爲す者なり、禹貢靑徐及び兗豫四州の域、春秋戰國齊魯の舊城に属す、其の地泰山有り、又泰岱と稱す、四嶽の宗たり、齊省魯省又泰岱の稱有る所以なり。
 山西省 京西太行山の西に在り、省名の起る所以なり、省城太原府は、禹貢冀州の域、周並州に属し、叔虞此に封せらる、初め唐國と曰ひ春秋晋と更め、戰國趙に属し、秦に晋陽と云ひ、太原と云ふ。
 河南省 黄河の南に在り、因りて名づく、爾雅九州に曰く、河南を豫と爲すと、省城開封府は、禹貢兗豫二州の域、戰國の魏、此に都して大梁と云ひ、後周隋唐に、汴州と云ひ、五代の梁及び宋、皆此に都して東京と云ひ、金に南京と云ひ、元に汴梁と云ふ、明に開封府と爲す。
 江蘇省 省城南京は、春秋呉に属し、戰國越に属し、後楚に属す、楚の威王、金陵邑を置く、其の地王氣有るに因り、金を埋めて之を鎭す、故に名づく、三國の呉此に都し、建業と云ふ、晋に建康と云ひ、唐に江寧と云ふ、總督は江寧に鎭し、巡撫は蘇州に治む、故に寧督(或は江督)蘇撫と云ふ。
 安徽省 省城の在る所安慶府は、春秋皖國と爲し、隋に同安と云ふ、皖水中を貫く、故に又皖江と云ふ。
 江西省 大江の南に在り、而して之を江西と稱する所以は、何ぞや、日知錄に曰く、唐の貞觀十年、天下を分ちて十道と爲す、其の八を江南道と云ふ、開元二十一年、又天下を分ちて十五道と爲す、而して江南を東西二道と爲す、江南東道蘇州に理め、江南西道洪州に理む、後人文を省きて、但江東江西と稱するのみと、省治南昌は、黔江に枕み、漢に豫章と云ひ晋に江州と云ひ、宋齊梁陳並に豫章と爲し、唐に洪州と云ひ、南唐都を此に遷し、南昌と云ふ、宋元に隆興と云ひ、明初洪都府を置き尋で南昌と改む。
  附説、江蘇安徽は元と一省たり、初め江南省と稱し、江寧府に治す、康熙六年、改めて二省に分つ、今江蘇安徽江西三省を合稱して兩江と云ふ者、元と江南江西の總名なり、
 浙江省 浙水域内に流る、因りて省名を得、浙水又銭塘江と云ひ、或は之江と云ふ、形を以て名づく、淛は浙と同字のみ、省城杭州府は、春秋呉越に属し、秦會稽に属し、東漢呉に属す、陳に銭塘と云ひ、隋に杭州と云ひ、唐に餘杭と云ふ、宋の高宗、南渡して此に都し、臨安と云ひ、元杭州路と改め、明杭州府と爲す、呉山は杭州府城内俗に城隍山と呼ぶ者有り、即是なり。
 福建省 省治福州府は、周時七閩の地、秦に閩中と云ふ、漢初無渚を封して、閩越王と爲し、此に都す、晋に晋安と云ひ、隋に閩州と云ひ、泉州と云ひ、唐に建州と云ひ、福州と云ひ、長樂と云ひ、宋に威武と云ひ、元明に福州府と爲す。
 湖北省 省城武昌府は、禹貢荊州の域、周の威王の時、楚に属す、楚の熊渠、其の子紅を對して卾王と爲してより、始めて卾渚と名づく、春秋に夏汭と云ひ、秦南郡に属す、漢に江夏と云ひ、三國の呉武昌と云ひ、劉宋に郢州と云ひ、隋唐は卾州と云ひ、五代唐に武淸と云ひ、宋に卾州と云ひ、元明に武昌と爲す。
 湖南省 省城を長沙府と爲す、湘江に臨む、禹貢荊州の域、應天文翼軫の分野、軫の旁小星有り、長沙と云ふ、其地に應ず、周に星沙と云ひ、春秋戰國、楚の黔中の地、昔熊繹此に封ぜられ、熊湘と云ふ、漢に長沙と云ひ、三國の初め蜀漢に属し、後呉に属す、晋に湘州、隋に潭州と云ひ、宋に武安と云ひ、元に天臨と云ひ、明に長沙府と爲す。
  附説 湖南湖北を併稱して、兩湖と云ひ、又湖廣と云ふ、湖廣の稱、元に始まる、元初め湖廣等處行中書省を置き、後河南行省に分属す、明の洪武の初め、仍ほ湖廣行省を設け、九年改めて、湖廣等處承宣布政使司を置く、康熙三年湖南湖北を分ちて兩省と爲す。
 陝西省 陝西の稱、亦古今に因りて變遷有り、公羊傳始めて陝東陝西の稱有り、後漢書郡國志、陝陌を以て二伯の分る所と爲す、即今の河南の陝州是なり、兩晋の時、陝の東西、各都を建つるの地に隨って、之を稱す、西晋洛陽に都すれば、則關中を稱して陝西と云ひ、東晋建康に都すれば、則荊州を稱して、陝西と云ふ、唐の乾元の時より、陝西節度使を置く、陝州以西を指して而して言ふ、宋初始めて陝西路を置く、是に於て潼關以西全秦の地、通じて之を陝西と云ふ、禹貢雍州の域、周王畿と爲し、鎬京に都す、東遷の後、秦に属す、戰國の時、秦咸陽に都す、秦の始皇亦舊に仍る、漢の高帝、長安に都し、改めて渭南河上中地諸郡を置く、後西晋西魏後周隋唐、皆長安に都す、明改めて、西安府と爲す、陝西省、潼關の中に有り、關中又關内の稱有る所以なり。
 甘肅省 禹貢雍州の域、春秋戰國の時、秦及び西羌の地に属す、秦天下を併せて、隴西北地二郡を置く、唐の貞觀元年隴右道を置き、後朔方河西隴右經原諸節度使を分置す、其の地隴山の西に在り、隴西又隴右の稱ある所以なり。 
 新疆省 古へ雍州外の地たり、前漢武帝の時、天山南路に都護校尉を置く、唐の貞觀永徽の盛時、北西安西都護を分設す、而も版籍司徒に登らず、貢賦天府に入らず、駕馭の名有りて、而し開闢の實鮮し、漢より以來、烏孫凶奴鮮卑突厥于闐龜茲焉耆回紇吐蕃準爾等の諸蠻、代る々々此に據り、叛服常無し淸朝に及びて、康熙帝三たび朔漠を征し、雍正乾隆二帝、相繼ぎて大師を興し、之を討平す、爾後始めて淸朝に歸服す、光緒年間新疆省と爲す、新省と略稱するの外、別名を用ふるを見ず。
 四川省 廣輿記に曰く、四川泯江沱江黑水白水四川を取りて、名と爲すと、日知錄に曰く、唐時劍南一道、止だ東西兩川に分つのみ、宋に至りて、益州路梓州路利州路虁州路と爲す、之を川陝四路と曰ふ、後遂に文を省きて、四川と爲すと、後説是なるに似たり、四川禹貢梁州の域、殷周の世に至りて、即廢して置かず、杜佑以爲らく、當時已に蠻夷の國と爲る、牧誓に稱する所、唐蜀羌髳微盧彭濮の人是なりと、夫れ蜀蠺叢國を開きてより以後、西南連山深く阻て天梯雲棧の間に僻處す、地の險を言ふ者、必ず以て唱首と爲す、金牛道を開くに逮びて、肇めて秦の封を啓く、巴蜀の郡縣に列する此より昉まる、省治成都府は、禹貢梁州の域、古より蜀國と稱す、秦に蜀郡と云ひ、漢に廣漢と云ひ、益州と云ひ、蜀漢此に都す、晋に成都と云ひ、錦城と云ひ、唐に劍南(北東劍閣の險有り)と云ひ、南京と云ひ、西川(四川唐季東西兩川に分つ)と云ひ、宋に益州と云ひ、元明に成都と爲す。
 廣東省 日知錄に曰く、廣東廣西も亦廣南東路廣南西路の省文なり、文獻通考、宋太宗至道三年、天下を分ちて、十五路と爲す、其の後又三路を增す、其の十七を廣南東路と云ひ、其の十八を廣南西路と云ふと、廣東禹貢荊揚二州の南裔、周藩服と爲す、戰國の時、百粤と爲し、亦揚越と云ふ、漢初越國と爲す(越粤同字)其の地五嶺の南に在り、故に嶺南と云ふ、唐の貞觀元年嶺南道を置き、至徳元載、嶺南節度使を置き、咸通三年、分ちて嶺南東道と爲し、宋廣南東路を置く、相傳ふ、昔仙人有り、五羊を率きて、此の地に到る、故に又羊城と云ふと。
 廣西省 禹貢荊州の南徼、春秋の時、百粤の地たり、漢初南越國に属し、晋廣州の地たり、唐初嶺南道に属し、後分ちて嶺南西道を置き、宋廣南西路を分置す、省城桂林府に在り、唐に建陵郡と云ふ、故に桂省又建陵の名有り。
 雲南省 禹貢梁州の南境、古徼外西南夷の居る所、戰國楚の莊蹻、西略して其の地に王と爲り、滇國と號す、漢に益州と云ひ、武帝の朝、彩雲南中に見ゆ、雲南の名此に始る、其の地昆明湖有り、古名滇池と云ふ、滇池又滇南の稱有る所以なり。
 貴州省 禹貢荊梁二州の徼外、商周鬼方の地と爲す、戰國の時、楚黔中の地と爲し、漢初南夷の地と爲し、元鼎六年、牂郡を開置す、唐の貞觀四年、黔州都督府を置き、開元二十一年、黔中道に属す、域内烏江中貫す、一名黔江と云ふ、黔省と名づくる所以知るべし。
 盛京省 禹貢冀靑二州の域、商營州と改め、周幽州に屬し、秦遼東遼西二郡を置き、漢初之に由る、省治奉天府は、禹貢靑州の域、商周秦倶に肅愼の地と爲し、漢晋に邑婁國と爲す、唐の睿宗の時、渤海大氐に属し、瀋州を置き、定理府に隸し、遼に興遠軍と云ひ、金に顯徳軍と改め、元に瀋州と云ひ、後瀋陽と改め、明瀋陽衛を置く、淸朝都を建て、尊んで盛京と爲し、奉天府を設く。
 吉林省 古肅愼の地、漢晋邑婁國の地と爲す、後漢之を勿吉と云ふ、唐の貞觀二年、燕州を置き、後黑水府と改め、渤海大氐に属す、吉省と略稱するの外、別名を用ふるを知らず。
 黑龍江省 古肅愼氏の地、漢晋に邑婁國の地と爲す、後魏の時、始めて黑水部有り、勿吉國七部の一と爲す、隋に黑水靺鞨と云ふ、唐時黑水又十六部に分つ、黑省又江省と略稱す、伹江蘇及び兩江も江と略稱することあり、例へば江督は兩江總督の略稱にして、江撫は黑龍江省巡撫の省文なるが如し、塲合に因りて區別すべし。

〔蔵書目録注〕上文中の太字部分は、原文では●が付されていたものである。

 上の文は、明治四十五年三月二十日(中華民國元年三月二十日)發行の雑誌 『燕塵』 第五年第三號 (第四十九號) 北京 燕塵會 に掲載されたものである。
 なお、作者の「鶴峯生」は、当時在北京で京師法政学堂教習をしていた松本亀次郎と推測される。



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