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「盧溝橋附近の沿革並橋の話」 三野生 (1908.5)

2020年09月13日 | 清国日本人 燕塵、津門

   

 盧溝橋附近の沿革並橋の話   三野生

  (五月十七日北京日本靑年會員盧溝橋に遠足す、本稿は當日之を會員に頒付せるものヽの一部に係る)

 現今の北京は戰國時代に燕と稱し、降つて唐時代には幽州と稱せり、五代の時、遼は滿洲地方に起り太宗の時は既に幽州を併呑し之を南京(今の北京)と稱せり、時に宋は南方に起り(西曆九百六十年)河南府開封府に都せり、其太宗は勝に乗じて遼の幽州等を取らんとし太原より進んで南京を圍む、遼の景宗大に宋軍を高梁河(今の京城の西)に敗り太宗走還す、遼の聖宗に至り太宗再び遼を討ち其數州を取りしが、遼軍遂に岐溝關(涿州の西南にして又盧溝橋の西南に當る)に宋軍を追戰して大に之を敗る、由是觀之、北京の西南五里を距てたる盧溝橋附近の地が宋遼の衝突地點たりしは明かなるべし、
 宋の徽宗の時童貫は吐蕃、西夏と戰ひて之を破りしかば遼も亦計るべしとなし、自ら請うて遼に使し窃に其事情を窺へり、燕人馬植童貫に告ぐるに若宋にして今正に北方に起れる金と同盟して遼を挾撃せば成功疑なきを以てす、童貫挾んで以て歸る、徽宗喜んで之に趙の姓を賜ふ、是に於て宋は二國連合して遼に當らんとし、こゝに東北亞細亞全体に關する大戰端は啟かるヽに至れり、當時宋金の約欵に曰く(一)金は北方より遼の上京を征め、宋は遼を南方より征めて其南京を陷るヽ事(二)事成らば宋は甞て契丹(遼の前身)に、與へし十七州を取り、其他の遼の地は金の有となす事等は其主なるものとす、斯くして金は遼の上京、中京を征め次いで西京を降せり、時に遼にては晋王淳なるもの燕京を守れり、宋は金との約に從ひ童貫をして燕京を伐たしむ、遼の蕭幹撃て之を却く、童貫等再び兵を擧ぐ、遼將郭藥師涿易二州を以て宋に降る、童貫進んで良鄕縣(盧溝の西南)に至る史に宋軍進んで盧溝に駐るとあるは蓋し之を指すべし、遼の蕭幹衆を率ゐて來り拒く、宋軍戰敗す、童貫復た郭藥師と師を率ゐて夜盧溝を渡り間道より燕京を襲ひ、黎明其東なる迎春門を破つて入る、蕭幹密報に依りて其事を知り精兵を率ゐて還りて死闘す、郭藥師等敗れて城に縋りて出づ、此時宋軍の劉廷慶は盧溝の南に陣せしが蕭幹其糧道を斷ち、火を擧げて宋軍を驚かす、劉、火の起るを見て敵至るとなし營を燒いて遁る、蕭、兵を縱ちて敵を追うて涿水に至れり、之を要するに盧溝の師遂に大敗して遂に遼を拔く能はざりき、依て金兵は居庸關(北京西方の山關)を通過して遂に燕京を陷落せり、金は宋が出兵の期を誤り且燕京を下す事能はさるを以て約の如く地を宋に讓る事を拒む、宋は止むを得ず歳幣四十萬の外毎年燕の代税銀百萬緡を與へ且燕京を陷れたる報償として糧二十萬石を金に出す事を約し僅に燕京及其附近の六州を領せり、金人燕の職官富民を驅つて東に徏る宋の童貫等燕に入るも得る所は空城而已、
 かくて共同敵たる遼の亡るや(千百二十五年)次に來れるは宋金の衝突なり、金が宋代に代りたる後、元、明、淸相次で起るに當ても燕京の屬地にして恰も吾京都に對する伏見の如し、其歷史上の重要地點たるは蓋し想像するに難からず、今は繁を厭ひて僅に沿革の一部分を述べたるに過ぎず他は讀者の判斷に任せんのみ、盧溝橋なる名稱が特に吾國に有名となりしは現在の京漢鐵道が盧漢鐵道と稱せる頃北端の一起點なりしに有るが如し、明治三十年(光緒二十三年)春より第一區線たる盧溝橋保定間の工事に着手し明治三十三年團匪事變の頃は既に保定迄開通せるも土匪の爲め該鉄道の破壊せらるヽや佛國軍は翌年一月迄に是を修築し次いで仝軍は之を北京正陽門外迄延長したり、其結果同鐵道は北漢 ペーハン 鉄道と改稱せられしが一昨年即明治三十八年の夏北京漢口間の全通するに及び復又京漢鉄道と改稱するに至れり。該鉄道は表面は白國シンヂケートの手にて經營せらるヽも實際に於て露國は全部の資金を投せり但し其四分の三は佛國より借り入れたる資本也、 
 盧溝橋は盧溝河に跨り南北往来の要路に當る、北京外城の彰儀門(廣寧門ともいふ)を距る西南に三十淸里也、初めは船橋なりしが十二世紀の初め即ち千百二十三年火災に罹りて木橋となし十二世紀の終り即ち金の章宗の大定二十九年(千百八十九年)是を石に易へ明昌三年三月(千百九十四年)成就せり、橋を「廣利」と命名す、現存するもの即ち是也、其後元、明皆是を修築する所あり、淸の康熙帝三十七年重修して河名を「永定」と賜ふ、勅して永定河の神祠を橋の側に建てられ御製の文を碑に勒す、 乾隆帝の時代にも重修する所あり帝親筆の「盧江暁月」の四字幷に詩は各碑に勒せらる、是等の碑は黄瓦を以て葺かれたる亭内に在り、何れも橋の歷史を物語るもの也、 
 歐州人は是を   Marco Polo の稿といふ、   Marco Polo は千二百七十四年より千二百九十五年迄元の世祖の朝に在りて厚く待遇せられたる人なるが故に、盧溝橋を見たるは建造後約百年を經たる頃なり、彼の東洋紀行中の一節に曰く 
  “  This bridge is a marvel, 350 ft. lomg,  18ft. wide, supported upon eleven  arches, it descends from the middle to eitder bank.  The parapet is divided into 140 parts by as small lions, the roads way of the bridge is 50 ft.  about the water. ”
 橋は切石を以て作られ東西長さ六十六丈(俗に二百步といふ)南北寛さ二丈四尺あり、橋臺は十一個の「アーチ」を有し橋上なる百四十本の欄杆は各種異樣の獅子を頂き以て橋の兩邊を走れり、早晨毎に波光月を映ず、所謂京都八景の一を爲し盧溝暁月と曰ふ、橋の邊り古樹蒼然として暁星素月と俱に愛しつべし、橋上より遙望すれば西山の群蜂羅列して畵くが如し
        過盧溝橋       宋犖
       盧溝橋畔雪霜多  今日衝寒又一過
       不道郷心南去急  祗疑波浪似黄河

 上の文は、明治四十一年五月三十日発行(非売品)祗の 『燕塵』 第五号 北京燕塵會 に掲載されたものである。
なお、写真は昔撮影したものである。



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