蔵書目録

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「気がついた時は海の中」・「汽車もろ共に海中へ」 (1930.3)

2023年12月24日 | 趣味 2 絵葉書、鉄道、料理、関東大震災他

  

 氣がついた時は海の中
    ー助かつた人達に十圓札を配つた話ー 
                   米山菊太郎

 汽車が根府川驛の構内にすべり込んだ。降車する者の二三人は仕度をして立ち上り、汽車の停まるのを待つてゐる者もあつた。自分はその當時、蜜柑の各地轉賣をしてゐたので、當日は山の買出し(樹 き になつてゐるまゝ豫想で買ふこと)のため、七百圓を小風呂敷に包んで懐中に入れてゐたが、風景は目慣れて居つたし、ぼんやりと外を眺めてゐた。
 すると、初めにぐらつと列車が揺れた。『はてな』と思ふ間さへもなく、急に烈 はげ しい音がすると、列車がひつくりかへつた。そして夢中になつてしまつた。
 とにかく列車が、海岸へごろごろ轉 ころ がつて行くやうなことだけは感ぜられた。といふのは、根府川驛が、海を瞰下 みおろ す斷崖 だんがい 三百尺の上に建つてゐることを知つてゐたからで、後で聞くとこの際にも列車から飛び下 お りて助かつた者があつたさうだ。よくそんな暇があつたかと思ふ位である。そして二三回轉がつたことは知つてゐるが、後は氣を失つてしまつたらしく、何も能く覺えてゐない。 
 氣が着くと、列車の中に激しく水が飛び込んで來てゐる。『出なければならぬ』、自分はさう思つて、夢中で這 は ひ出した。たぶんそれは窓からであつたと思ふが、同じ車室の中にゐた四五十人がどうしたか、それも覺えてゐない。一人三十二三の紳士が、白い眼を向いてゐたのだけ知つてゐるが、それが死んでゐたのかどうかもわからないのである。
 自分は直ぐに海の中に居た。周圍には材木がごつちやになつてゐて、打突 ぶつか るといふよりか、その中で一緒に揉 もま れてゐた。
 自分は盛夏に際しては、鮑 あはび を採 と るために毎日海に出るのが好きであつたが、その經驗から、その材木の中に揉まれてゐることが、危險であると考へた。波は前夜からのしけで小さくないし、岸に上るよりか沖に出る方が、この地方のものとして普通なので、自分もすぐに材木の中から抜けるつもりで、必死になつて沖へ泳ぎはじめた。 顳顬 こめかみ のところと頭との怪我は、この時に受けたらしいのである。
 が、これは自分が運よく助かつた原因で、材木の中を抜け出してから陸を見上げると、崩れた土の斷崖を昇つて行く者がかなり澤山ある。と思ふと、それらが上からまた崩れて來た土に埋 うづ まつて。手だけがもがいてゐるかと思ふと見えなくなつたり、そのまゝすぽりと埋まるのもあつた。自分は恐ろしいといふよりも、たゞ夢中になつて、沖をめがけて泳いだ。
 不思議なことに、その中に海が乾いてしまふかと思はれるほど、見なれてゐる海岸の岩などが根を現はしてしまつた。 
 自分は至極落着いたつもりで、懐中を探つて見ると、小風呂敷がほどけて、札が出てゐるらしいので、それをしつかりと左手に摑 つか んで、幾度 いくたび も(三度位かと思ふ)攀 よ ぢ登らうとしては、崖に埋められてしまふ人達があるのを見た。が、自分の助かつたのは、それを見てからまた沖に出たからで、岸に遠い處 ところ にゐなかつたら、次のことで矢張りやられてゐたと思はれる。それは振り返つて見付けた、崖よりか高い大波 おほなみ があつたことである。
 (この大波は後で聞くと、根府川全村が埋もれて、大半の人達が死んでしまつた、地震のあとの大山海嘯 おほやまつなみ が、海に落ち込んだ時に起つたものとのことである)
 大波を見付けると同時に自分は『もう助からない』と思つたが、波に慣れた者の癖で、すぐその大波をめがけて突き進むと、三角のてつぱんから落ちて來る白泡 しろあは に卷き込まれてはたまらないから、鮑採 あはびと りで慣れてゐるもぐりで、その前に波の底に潜り込んでしまつた。そして二度も浮 うか び上がらうとして、卷き込まれてはまた潜つてから、三度目に顔を出した時には、息が咽喉 のど まで詰 つま つて、その苦しさのあまりどうでもなれと思つた。が、その時には一波 ひとなみ すんだところで、嬉しいといふかよりか、靑い空にでも浮き上 あが つたやうな氣がした。
 すぐに前よりか小さいが、また大波がやつて來た。
 それを潜 くゞ つてやり過 すご すとまた一つ、しかしその後は、三角のてつぺんから崩れてくるやうな波はなく、段々靜かになつて來た。自分はやつと安心して、すぐに陸をめがけて泳ぐと、まだ材木の散らばつてゐるのを掻 か き分けて、土崩 つちくず れのしてゐない方へ泳ぎ着いた。
 兎に角何のためにかうなつたのか解 わか らないが、土崩れのする處は危ない、自分はそれを見定めると、それでもぷか〱する土の中を攀登 よぢのぼ つてから、やつと南側に崩れないで殘 のこ つてゐる雜木 ざふき の岩根 いはね がある、そこへ辿 たど り着いて三四十人の人達がかたまつてゐる仲間になつた。
 氣がつくと、自分は札をまだ握つてゐる、かぞへて見ると百九十圓ある。五百圓の束 たば と一枚だけがない譯 わけ であるが、落ち合つた人達の中では、自分をまぜて六人だけが、泥塗 どろまみ れになつて着物もずた〱になつてゐる。自分はすぐ海に陥 お ち込んだ中から、助かつた者はこれきりだと判 わか つた。そして外の五人に十圓札を一枚づゝ配つた。
 こゝで可笑 をか しいのは、それだけの人がゐながら、何が原因でさうなつたかゞ、誰にもわかつてゐなくて、それに就 つ いては驛だけがたゞ崩れたことゝ、皆んなで極 き め込んでゐたことである。
 『こんなことをしてゐたつて仕樣がない、歸りませうか』さう言つて立ちかけた、商人風の五十位の人があるので、自分もその後について、林を分けて上へ攀登つた。そしてよく見ると、汽車の道はすつかり崩れて通れさうもないので、人道が山の方に通じてゐるのを行くことにした。
 その人は小田原の者であつた。『だから鐡道省はいけない』、その人は頻 しき りに驛の不正工事のことを攻撃して、このことは必ず鐡道省に持ち出してやると憤慨してゐる。自分も頗る同感で、道々崩れてゐる處があつて、道でない畑や林を通らなけれなならなかつた癖に、大地震とは少しも考へがない。
 山の上まで來ると、小田原、大磯などが見渡 みわ たせる。
 『火事だ!』二人は茫然としてゐたが、すぐに一緒に叫んだ。
 『こりやあ大變だ』『大地震だ』。自分の村はそこから、米神をこえての次である。
 そして向ふから來て呼ぶ者があるので、見ると弟と友人で、汽車の落ちた話が傳 つた はつたので、自分を心配して駆けつけて來てくれたのである。米神に辿り着くと、こゝでは村の五分の一ほどが山海潚 やまつなみ に埋まつて、鐡道線路の上の家は一軒も見えない。岩や土や樹 き がその上にかぶさつて、みんな死んだといふのである。自分は恐ろしいのよりか、ぼんやりしてしまつたが、それからまた山を越えて村に歸ると共に、怪我と疲れとですぐさま倒れてしまつた。

 汽車もろ共に海中へ
    ー根府川遭難記ー 
             對木敬藏

 熱海線根府川驛で、あの時列車が三百七十有餘名の乗客諸共 もろとも 數十丈の斷崖から海中へ轉落し、加ふるに直 す ぐあとから襲來した山津浪のため、人も列車も海中深く埋没し、奇蹟的に生命 いのち を拾つたのは僅か二十一名の少數にすぎなかつた。私は實にその二十一名の生存者の中の一人として今怖 おそ ろしかつた當時を靜かに追想しながら、あの不幸にも『死』のサイコロを振り當てられた幾多の氣の毒な人々に、心からなるはなむけとしてこの手記を綴 つゞ るのであります。
 私の生家は熱海温泉場で古くから旅館を經營してをります關係上、その長男に生まれた私は當時料理の心得の必要から、舊幕時代このかた東海道の割烹料理で名高い三島町の魚半に寄寓し、專心料理の研究に没頭してゐたのでした。そして震災の當日はまる一年振りで故郷の熱海へ歸省する豫定でした。前日から前々日にかけて續け樣に大きな婚禮仕事や宴會が澤山あつた爲めに、私は非常に疲れてゐましたので車中ぐつすり寢込んで終 しま ひました。
 小田原、早川とすぎ、米神 こめかみ の邊 へん へ來ると流石 さすが に熟睡後の頭が快 こゝろ よく冴えかゝつて、時々眼を上げては車窓から見はろかす相模灘の紺碧を眺めたりしました。この日は海が朗らかに輝いて、三浦房總の岬から初島、大島の御神火までなつかしく眼底に映るのですが、直ぐ亦ウト〱としてゐました。 
 『根府川!根府川!』遠くの方から車掌の呼聲 よびごゑ が夢現 ゆめうつゝ の間に聞えて、汽車は靜かに構内に向つて徐行し初めた樣 やう に感じてゐました。すると數秒の後、突然列車はドシン!と云ふ何物かに強く衝突した樣な激動を起した。私はその時、列車がよくある例で、後尾に於 おい て貨物を連結したその衝動だらうと思ひ、何氣なく車外 そと を覗 のぞ いて見て、アツ!と叫びました。構内の建物や電柱が屛風の如く揺れ動いて、プラットホームには驛員や大勢の人達がまるで蟹の樣に地面に匍 は ひつくばつてゐるのではありませんか!!
 『地震だ!地震だ!大きな地震だぞ!!』車内の人達は、期せずして蜂の巢を突いた樣に騒ぎ初めました。 
 『あなた!貴方 あなた ッ!大丈夫でせうか!』『あッ!あぶないッ!荷物が落ちる!』『泣くぢやない!泣くぢやないッ!今に止むから!』『健坊!シッカリ!、シッカリ摑 つかま つて!』『逃げろ!逃げろッ!大きくなるぞーウ!!』列車内の動揺は益々 ます〱 激しく、果てはいまにも横樣 よこざま に轉覆 てんぷく するかと思ふ許 ばか り強く揺れて、網棚に乗せてあるトランク、バスケット、洋傘 かうもり の類まで、まるで生物 いきもの の樣に左右に混亂して飛び違ひ、窓硝子 まどがらす はメリ〱破れて實に危險な狀態に陥り、皆々先を競つて車外 そと へ逃れ出 いで んと焦燥 あせ りましたが、大激動のため立てば轉 ころ び、歩けば倒れ、逃れ出られゝばこそ、辛うじて腰掛臺の一端を兩手でシッカリ握つて危險物の散亂を防ぎ乍 なが ら、生きた心地もなく、激動の止むのを今かゝと念じて居りました。私の乘つてゐた箱は國府津から殆 ほとん ど滿員でしたが、此の時はみんな私の樣に中央 まんなか の歩道に四ッ匍 ば ひになつて腰掛けの一端を兩手でシッカリ握りながら、口々に呶鳴り喚 わめ いてゐましたが、刻一刻と動揺が激しくなりますと、いまは最 も う誰一人として口をきく者もなく、私も心に暗い大きな不安を抱きながら、それでも今に止 や むかとそれ許 ばか り期待してゐました。フト火の付く樣な激しい泣聲 なきごゑ に我に返つて側 そば を見ますと、丁度七八歳の水色の簡単服を着た可愛らしい女の子が、お母ちやん、こわいよう!こわいよう!と叫びながら、その母親と思はれる三十七八歳位の上品な婦人にシガミ付いてゐるのです。婦人はも眞蒼 まつさお な顔をして、一生懸命に腰掛け臺につかまりながら『泣くぢやない〱、ミイちやんはいい子、いい子よ!』となだめてゐたが、私と視線がぶつかると『あなた、止むでせうか!主人は!!主人はどうなるのでせう!』と半狂亂に唇をワナ〱震はせる。私は返事もうはの空で、フト背伸びをして車外 そと を一瞥 いちべい した瞬間、直ぐ前の煉瓦造りの建物がドッと崩壊したののに悸然 ぎよつ として俯伏 うつぶ せになりましたが、その時一町と離れてゐない根府川の大鐵橋 だいガード の邊 あたり で、轟 がう !と云ふ實に何とも名狀し難い一種異樣の大音響が起つたかと思つた一刹那!!列車は依然大激動を續けながら非常な急速度で奔 はし り初めた樣に感じました。(これは後で判つた事ですが、大法螺山 おほほらやま が崩壊し蜿蜒 えんえん 拾數丁に亘る大山つなみが押し寄せ、根府川大鐵橋 おほガード の下に在る戸數二三百戸の根府川村落を一瞬の間に埋没し、一方私共の乗つた列車を數十丈もある斷崖から海の方へ轉落させたのでした)その時の心地は!この受難の洗禮を受けたものでなければ判りませんが、凡 あら ゆる不安、恐怖が渦卷いて、暗い死に凝乎 ぢつ と直面してゐる樣な心持でした。
 二秒!三秒!四秒!瞬間列車の轉落がハタと止み皆ホッとしました。此の時逸早 いちはや くも數人の人がドヤ〱私の前を通り、この死地より逃れる可く車外 そと へ飛び出した樣に覺えてをりますが、氣の毒にもこの人々は山つなみのために一人殘らず生埋 いきうめ となり、今以てその遺骨すら掘出せぬさうです。
 間髪を容れずすぐ轉落は續きましたが、今度は前より非常に激しく、殊に前列車か後列車かが何かに衝突したらしく、大震動を傳へて來て、私は摑 つか んでゐた腰掛を摑み切れず、ヒドク跳ね飛ばされ、何かの角でシタタカ腰背部 えうはいぶ を打 ぶ つけました。その時死物狂ひで起上りフト氣付くと、何時の間にか窓が頭の上になつてゐましたので、何か知ら全身全靈をゾツとさせ、無我夢中で天井の窓口の方へシガミ付き、幾度 いくたび も跳ね飛びされ突き落されながら、天井の硝子 がらす 窓から外へ逃出 にげで やうと必死にもがいてゐる中、實に今考へても身が悚 すく みますが、その硝子窓目がけて海水がドーッと瀧の樣に侵入して來るではありませんか!!
 『最 も う駄目だッ!』私は奔騰 ほんとう する海水を頭から肩に浴びながら、その渦卷きが流れ込む強い力に、窓際へかけた兩手を幾度か離しさうになりながら尚必死で摑んでゐました。
 あゝあの時、私が絶望のあまり兩手を窓際から離したらどうでせう。列車内で奔騰狂亂する怒濤 どたう の渦卷きに捲き込まれて逃口 にげぐち を失ひ、氣の毒な三百數十名の同乗者と同じ死の道を辿つたに違ひありません。
 窓際へ両手をかけて凝乎と怒濤と鬪つてゐたその𢖫苦 にんく の長かりし事よ!二時間も三時間も經つた樣に思はれました。そしてそれから先は一切無我夢中ででした。唯どうしたはづみか、兩手をかけてゐた窓口が不圖 ふと 通常 もと の位置にかへり、私は波の中で大きく眼を開 あ いたまゝ、割合樂にその窓口から逃れ出たまでは覺えてゐますが、それからは氣がボーツと遠くなり、今自分は何處 どこ で何をしてゐるのかさへ判らなくなり、最後に誰か遠くの方で太鼓でもたゝいてゐる樣な感じがして、無意識に足を蹴つたのでせう、頭がポカリと海面へ浮 うか び上つた時は、ヒドク眠氣が差して手足が自由にならず、亦 また 海の中へ沈んで行きさうになりましたので、氣を引き立て引き締めてゐました。
 幾時間か海面を漂 たゞよ つた後、フト見ると體 からだ は數丁沖へ流されてをり、列車は旣に影も形も見えず、先刻 さつき までは靑々 あを〱 と草木の繁つた山が一變して、延々十數丁に亘り全部不氣味な赭土山 あかつちやま と化してゐるではありませんか。實に夢に夢見る心地でした。意識がハッキリして來ると、海水を多量に嚥 の んだので胸苦しかつたが、水泳は子供の時から相當自信があつたので、泳ぎながら着てゐた着物を脱ぎ捨て、襦袢一枚になつて米神寄りの海岸へ漂着しました。午後の三時頃でした。
 海岸の松の根方 ねがた へよろめきながら漸く辿り着き。ホツと一息ついてゐると、其處へ早川驛の驛長と驛員二三名が遭難者救助に駆けつけて來て、用意して來た葡萄酒を飲ましてくれ、豆入りの煎餅を頂戴したが、あの場合あの好意は實に嬉しく思ひました。
 さうかうしてゐる中、他の遭難者も一人二人と集りましたが、あゝ遂に私の隣りにゐたあの子供連れの婦人はその姿を現 あらは しませんでした。『主人は?主人はどうしたんでせう?』と叫んだその言葉、それは何を意味するか判りませんが、あの可愛らしい子供の姿と共に私には永久に忘れられない幻となつて終 しま ひました。
 其の夜炎々と燃え盛る小田原の大火を眺めながら、打ち震ふ大地に戰 をのゝ きつゝ、十五六人の遭難者と山中で一睡もせず夜を明かし、翌二日の午前四時と云ふ未明に他の人々と袂 たもと を分ち、單身私は熱海へと向 むか ひ、途中幾多の危難を冒しつゝ根府川、赤澤、湯ヶ原を經て、同日の午後二時頃無事に歸宅する事を得ました。
 私の父は大の日蓮信者ですが、九月一日のその日は虫が知らせるか、朝から佛壇に向つて私の爲めに祈つてゐてくれたさうです。私が萬死に一生を得たのも、かうした父の信心に依つて神佛の見えざる加護があつたに違ひないと私は信じてをります。 
  
〔蔵書目録注〕
  
 上の文は、昭和五年三月十五日發行の 『十一時五十八分 ー懸賞震災實話集ー』 震災共同基金會編 東京朝日新聞社 に掲載の三十四篇の内の二篇で、関東大震災による根府川駅列車転落事故関連のものである。
 なお、関東大震災による熱海線(現在は東海道線の一部)の被害については、脇水鉄五郎の論考があり、転落した列車や山津波の跡の写真等もあり貴重である。



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