陽気が良くなればもう一度訪れたい「作楽神社」、備忘録代わりに書いておこう。
中国道院庄ICで下りれば、ものの5分とかからない位置にある。神社境内は広大すぎて管理が行き届いていないエリアも見受けられるが、遠望できるし、見どころも多い。手元にある「作楽神社の栞」を捲ってみよう。
正面が拝殿であり、本殿は拝殿裏に位置する。
鎮座地:岡山県津山市神戸433 神社名:作楽神社
祭神:(正祀)後醍醐天皇 (配祀)児嶋高徳公
例祭日:4月22日
社殿・主要建物:本殿(流造)・拝殿(入母屋流唐破風向拝付)・附属舎(切妻造左右各1棟)・渡廊下(曲線造左右各1棟)・宝物殿・神楽殿・社務所・透塀
境内地:9418坪25(31134・709㎡)
創立年月日:明治2年11月27日
旧社格:県社(明治10年3月列格)
境内神社:護桜神社・水神祠
何と、広大な敷地内(境内)にこれだけの建物が鎮座する。歴史も古いし、祭神が「後醍醐天皇」とは。
記念碑・文学碑も多い。
東大門桜樹址:東山天皇の貞亨5年(1688)に長尾勝明が建碑した。「院庄」と題して高徳の狐忠が漢文で綴られている。児島高徳が桜樹を削った館の大門跡にある。
院庄六百年の涙雨:井上剣花坊。昭和七年、鶴城吟社建立。
建武中興六百年記念碑:昭和八年の建武中興六百年祭を記念するもの。
弓とらず太刀さへ佩かずなりにけり案山子の前を行くもはづかし(道家大門):昭和十六年に墓所に建てられたが、のち、旧邸宅あとに写した。
児島高徳像:浦上善次製の備前焼陶像。昭和四十年、津山ライオンズクラブ寄進。
美作院庄十字詞之跡:明治百年記念に柴田正が寄進した。
野村完六歌碑:「とびひとつまぢかにまひて美作や高き山はら雪にくれゆく」。昭和四十三年建碑。
噴中義桜十字詞之碑塔:戦艦大和の建造者である海軍技術中将庭田尚三を会長とする忠桜会が昭和四十六年に建碑した。後醍醐天皇御製や斎藤監物の漢詩、道家大門の和歌を刻む。
作楽神社修復記念碑:昭和五十四年、修復期成会によって建碑された。
建武中興六百五十年記念碑:昭和五十九年、津山ライオンズクラブ寄進。
日原桜道漢詩碑:昭和六十年建碑。
天皇陛下御在位六十年記念碑:昭和六十一年建碑。
児島高徳忠義桜歌詞碑:平成三年建碑。
これだけの碑を見て回るだけでも大変であるが、歌を読むのもまた楽しかろう。
「作楽神社」の社名の謂れは「太平記」に遡るらしい。後醍醐天皇や児島高徳が関わっているようだが、栞によると「幕末になって、ここに神社を造立しようという声がおこり、国学者道家大門(どうけ・ひろかど1831~1890)らの建議により、藩主を経て朝廷の許可を受け、勅号の「作楽神社」という社名が下された。」こうして明治2年に神社創建となったのである、とある
後醍醐天皇が隠岐の島に流される途中、守護職の館に御宿りになった。その時、備前の人児島高徳は天皇を賊から奪い勤王の義兵をあげようとして、船坂山や杉坂峠で一行を待ちかまえたがみな失敗に終わり、単身この館に忍び込もうと企てたが、これまた警戒厳重で成功せず、折から館の門前に春雨に濡れて美しく咲いていた桜の枝を削り、「天莫空勾践時非無范蠡(天勾践を空しうするなかれ、時に范蠡なきにしもあらず)」と十字の詩を書いて立ち去った。翌朝、この詩を見つけた警固の賊兵はその意味が分からず、ひとり天皇のみ解したもうて、「ここにも忠義な家来がいたか」と、末頼もしく思召されたと謂う事から来ているようである。
歌を載せよう。文部省唱歌「児島高徳」
1 船坂山や杉坂と 御あと慕ひて院の庄、 微衷(びちゅう)をいかで聞えんと、 桜の幹に十字の詩。 「天勾践を空しうする莫れ。時范蠡無きにしも非ず。」
2 御心ならぬいでましの 御袖露けき朝戸出に、 誦(ずん)じて笑ますかしこさよ、 桜の幹の十字の詩。 「天勾践を空しうする莫れ。時范蠡無きにしも非ず。」
忠義桜(南条 歌美)
1 桜ほろ散る院の庄 遠き昔を偲ぶれば 幹を削りて高徳が 書いた至誠の詩(うた)がたみ
2 君のみ心安かれと 闇にまぎれてただ一人 刻む忠節筆の跡 めぐる懐古に涙湧く 「天勾践を空しうする莫れ。時范蠡無きにしも非ず。」
3 風にさらされ雨に濡れ 文字はいつしか消えたれど つきぬほまれの物語 永久(とわ)に輝く花のかげ
「作楽神社」の境内を回っている時、右翼の宣伝カーの音が聞こえた。この地の歴史から、何となく……、納得したような思いがした。