自然・宇宙・地球・旅から人生を顧みる

自然や宇宙、旅が好きな私のブログです。色々な体験など、日々の出来事について日記風に綴ってみます。

「緑陽公園 自然観察会」

2015年10月28日 13時56分47秒 | 日記

 昨年度は雨で流れたこの観察会、今年は天候に恵まれた。福山市農林水産課が実施するが、年に2回計画される。今年度の1回目だが、昨年流れた場所を再度計画した。理由は、昨年度資料を作成済みだったからだ。予定より40分くらい早目に到着したが、私と同時に参加者が1名お出でになった。それでも8名の参加者が早く集まったので、開始時刻を少々早めた。まず駐車場周囲の観察から始めたが、細かく説明していると時間だけは経過する。珍しい樹木は「シロダモ」位だっただろうか。暫らく説明したり歩いたりをしながら、緑陽公園の広場に着いた。広場には「シリブカガシ」が3本植えてあるが、実は既に落ちてしまっていた。団栗の実を食べたのか、イノシシが掘った跡がはっきり分かった。

 近くに「モミジバフウ(マンサク科フウ属)=別名:アメリカフウ」が4~5本植えてあったが、葉が少しづつ紅葉に向かっていた。枝先には実がぶら下がっていたが、新旧の実の写真を掲載しておこう。

  右が若い実で、左が完熟した実。

 アメリカフウは大正時代に渡来したとのことで、大木になるらしい。葉は長さ、幅ともに12~18㌢で掌状に5~7裂する。質は薄く、裏面主脈の基部に黄褐色の毛が叢生する。集合果は直径3~4㌢の球形でさび色に熟す。

 広場から駐車場への帰路は別道を通ったが、途中に「センブリ」が2株確認できた。白い可憐な花が、美しく咲いていた。

 ピンクのサザンカも沢山咲いていて、花の少ない時節だけに雑木林の中で映えていた。

 駐車場へ戻って、フィールドスコープで「ススキの鋸歯」を観察してもらったが、その鋭く見える様に感激されていた。12時すぎに閉会行事を済ませ解散した。


ミノウスバ

2015年10月27日 20時15分52秒 | 日記

 本日昼前、市役所に勤める仲間から電話があった。「誰か、虫に詳しい人を知らないか」というもの。一口に「虫」と言っても、対象は広い。「虫って、昆虫?それもトンボ?蝶?…」と聞くが、「ハエみたい…」という返事。的を得ないので「写真をメールに添付して送って」と依頼した。正午過ぎにメールが来たが、肝心の対象物を写した写真はバラバラ事件みたいなものだった。午後からは外出予定があったので、「夕方帰宅するので、それから調べる」とメールし、外出した。

 17時過ぎに帰宅したので、早速メールを開き「原色昆虫大図鑑=蝶蛾編」を開いた。唯一の手掛かりは、触角が「櫛歯状」であることと、翅が「半透明」であることだった。触角が「櫛歯状」なら、「蛾に違いない」と。次に「半透明の翅をもつ蛾はそんなにはいない」ところから検索を始めると、「マダラガ科のミノウスバの雄」だろうと思った。そこで仲間に電話をかけて「どのエリアの人が持ち込んだ?」と聞くと、「あんたの近所=御幸町」とのこと。やれやれと思ったが、検索結果を伝えておいた。多分、間違いはないだろう。ちなみに「ミノウスバ」の雄は写真の通りで、図鑑の説明は次のようなものだった。

 ミノウスバ(マダラガ科) 雄(♂)の触角は櫛歯状、雌(♀)では絲状。体には毛を密生し、尾端の毛は長い。翅は半透明、基部は黄色。前翅長:11~16mm。昼飛性で、晩秋に出現し、幼虫の食草であるマサキの付近を活発に飛ぶ。分布:北海道・本州・四国・九州・対馬;朝鮮・北支那。

 時に、色々と苦労する問い合わせがある。できる限り対応するが、難しい場面が多くある。本日の仕事は、これにて終了とする。


「人間国宝;安部栄四郎」宅の訪問

2015年10月26日 21時14分42秒 | 日記

 昨25日、松江市八雲町にある「安部栄四郎自宅」と「安部栄四郎記念館」を訪問した。これまでに2度訪問しているが、今回は分団リーダー3名と分団長が「行きたい」とのことだったので、YAC八雲分団の方を介して見学を申し込み、記念館とともに見学が実現した。現在は安部信一郎さんが跡を継いでおいでで、彼に自宅を見せていただいたわけである。

 福山を10時に出発し、R314を北へ向かって走った。途中備後落合で美味しい「ソフトクリーム」を食べ、昼食は横田町のスーパーで摂った。「14時に伺う」と約束していたので、その後はひたすら走った。足立美術館のある広瀬町から山越えをして、14時少し前に安部家についた。2Fの応接間に通されて色々とお話を伺ったが、祖父である栄四郎さんの蒐集には素晴らしいものが多かった。昭和34年に建てられたという母屋は豪壮で、総檜作り。大黒柱は「欅」であった。その年の暮れ12月22日に棟方志功さんが来られて、無地の襖などに素晴らしい絵を残されたとのこと。「新築祝いの意味があったのだろう」と、信一郎さんは言われた。棟方志功さんの絵は、自宅の他に記念館に展示してあるとのことだったので、その後記念館へ移動した。

 数年前に自宅前を通っていた国道もバイパスが作られたので、周囲が随分静かになったという。「自宅も記念館も撮影禁止」とのことだったので、棟方志功さんの絵は全く撮影できなかった。1Fと2Fの展示場を見てフロント・ロビーへ戻ると、大きな内障子に「蝶のグラデュエーション」ガ形を変えて貼ってあり、その中に昆虫が2点貼り付けてあった。「カメムシ」と「ハチ」である。

 

 「切り絵」という手法で作られていたが、本物そっくりであった。紙は信一郎さんの漉いたもののようだった。私に真似ができないかなあ…と思って、カメラに収めた。ところで、今は紙漉きも大変らしい。紙の原料となる「楮・雁皮・三椏」などが近隣では手に入らず、「高知から入手している」とのことだった。また“ノリ”として必要不可欠な“トロロアオイ”という植物さえも、栽培している人が近隣にいないらしい。紙漉きをする前にしなければならないことが多すぎるようだった。

 その後お暇をして、本日の宿「ゆうあい熊野館」へ移動した。10年くらい前になるか、初めて松江で「宇宙教育指導者セミナー」を開催した時に、一日目の終わりに懇親会をした場所である。チェックインには少々早かったので、すぐ近くの「熊野大社」へ参った。歴史ある大きな神社で、大鳥居の前に謂れが書かれた「看板」があった。

 コンクリート造りの大鳥居も大きく、どっしりとしていた。

 鳥居を潜り、朱塗りの橋を渡ると正面に本殿が見えてきた。

 

 かなり広い空間を取って、本殿は鎮座していた。

 

 吊り下げられた“大しめ縄”にも、力を感じた。また、本殿裏の社叢林にも畏怖の念を持たざるを得なかった。樹木の巨大さに圧倒された。境内に咲いていた「ツワブキ」も、何となく元気に溢れて居るように見えた。

 暫らく境内を散策していると、「連理の榊」が目についた。「連理」になること自体が“奇跡”に近いのに、この境内には2か所連理の樹木があった。

 そして、その隣には有名な“和歌”を刻んだ石が据えられていた。正に「熊野大社」であった。

 休憩所には、神々の歴史を分かりやすく絵画にした大額が置いてあった。

 境内の外を歩きながら宿へ戻ったが、途中に「さざれ石」が展示されているのをみた。「石灰角礫岩」と説明にあったが、「君が代=国家」にうたわれた「さざれ石」である。

 そういえば、先に開催されたラグビーのワールドカップ日本代表チームの中の外国人たちは、この君が代を歌詞の意味とともに理解できるまで練習されたとのことで、実に大きな声で歌われていた。素晴らしいことである、とそう思った。宿での夜は早く更け行き、二日目に備えて早めに寝た。

 二日目は帰るのみ、なので、大山を経由して地道を走ることにした。八雲から大山の麓までは広域農道を走ったが、平日だからかスムーズに走行できた。桝水高原へ行き、ゲレンデ前で小休止。斜面に「マツムシソウ」の可憐な花が咲いていた。ゲレンデ部分はススキの原で、白い穂が風に揺れていた。

 

 その後コーヒータイムを済ませて、桝水から御机まで高原道路を走ったが、鍵掛峠辺りでは多くの観光客の車で渋滞した。御机の原風景を写真に撮ろうというので、大山南壁が見える場所に移動して、一枚シャッターを切った。結果的には2枚になったが…。

 

 帰路にある“滝山公園”を見て、日南邑で昼食を摂り、事務局へ着いたのは15時を回っていた。

 楽しめた二日間だった。久し振りにゆっくり過ごし、命の洗濯となったような気がした。事故なく、無事に帰れて、万々歳である。


仙酔島自然観察ハイキング

2015年10月24日 20時39分19秒 | 日記

 毎年この時期、恒例の「仙酔島自然観察ハイキング(福山市観光課主催)」が開催される。本年も、今日がその日であった。「参加希望者は全員で28名」とのことだったが、当日欠席2名で、本日の参加者は26名であった。下は小学2年生で、上はかなり高齢のご婦人だった。全員を3班に分け、私はA班(8名)を受け持った。

 早めに全員が揃ったので、9時半発の渡船で鞆港から仙酔島へ渡った。写真は鞆側の乗り場に着いた渡船である。

 島へは5分ほどで着く。桟橋から広場まで歩き、そこで開会式を実施した。観光課の職員は3名で、講師を受け持ったのも3名、全て私の後輩である。開会行事では「自己紹介」をさせられたが、ついでに本観察会の説明もさせられた。この仙酔島は「瀬戸内海国立公園」の一部である。1931年に「国立公園法」が施行され、1934年3月16日に「霧島:雲仙」とともに、国立公園指定第一号となった。平成14年の統計では、国立公園は全国に28か所、国定公園は55か所ある。仙酔島は昭和18年1月、山火事で島の8割の植生が焼失している。その後、昭和25年ころから29年ころにかけて植樹が実施されているが、その費用のほとんどは市民の浄財のようである。しかし昭和29年には当時の金額で70万円が予算化され、約8万本の樹木が植えられている(エニシダ28130本、ヤシャブシ17200本などである)。高度成長期には大気汚染の影響か、樹木のうちマツが枯れ始め、現在はほぼ雑木林の様相を呈している。

 またこの島には、1826年(文政9年)にシーボルト一行が訪れて、「ツメレンゲ(ベンケイソウ科)」を採集している記録が残る。それで、仙酔島の「ツメレンゲ」は有名である。

 今日は桜谷~大弥山~彦浦~田ノ浦のコースを歩いた。最初の“桜谷~大弥山~彦浦”のコースでは主に植物;植生について学んでもらった。参加者の年齢が若いので、私の子どもの頃の経験・体験を話しても、なかなか分かってはもらえなかった。桜谷では丁度実が稔っている「アキニレ」を観察してもらったが、舟木一夫の「高校三年生」という歌謡曲を知っている方はわずかに一名であった。大弥山は標高162mだが、海抜0mから一気に登るのでかなりきつい。それでも面白おかしく植物について説明したり観察してもらいながら歩くと、疲れはそんなには感じなかったようだ。大弥山の頂上からの眺めは素晴らしかった。

頂上には「シイ」の木が一本ある。木の下で「シイの実」を探したが、今日は大量に見つけることが出来た。私の班の参加者に一人5個ずつ配ることができた。エグ味も渋味もなく、ピーナッツのような食感だった。

 「12時20分から昼食」という日程だったので下りは急いだが、それでも若干の説明や観察をしていたら、彦浦へ着いたのは12時35分だった。15時には桟橋へ行かなければならないので、昼食は30分を予定したが、慌ただしく食べなければならなかった。13時20分頃から14時頃までの時間、「磯の生き物」の観察時間であった。貝やカニなどの小動物に夢中になっていたが、ことしは「カメノテ」の個体数が大変多かった。

   

また「オオヘビガイ」も多く見られたが、水質を含めて環境が改善しているのだろうか。14時に彦浦を出発し、遊歩道沿いの地形や地質、ツメレンゲの説明をしながら、桟橋へ急いだ。

 桟橋には「第2べんてん」という船名の渡船が着いていたので、予定より15分くらい早めに乗船した。この自然観察ハイキングの特徴は、「船で仙酔島を外から眺める」ことである。南北での地形や植生の違い、さらには「海食洞」などの天然記念物の観察、皇后島北の突端の「トンネル状の海食洞窟」など、遊歩道を歩くだけでは見ることのできない所を観察で来て、参加者は大変喜んでいた。15時40分頃に鞆側の船着き場につき、そこで本日の行事の全てを終えた。閉会の挨拶を依頼されたので、「また来年もお会いしたい…」などと挨拶して私の講師としての仕事を終えた。

 次は来週の水曜日、農林水産課から依頼されている「緑陽公園の自然観察会」である。天候に恵まれれば良いのだが…。


宇宙少年団の「自然観察会」

2015年10月18日 16時48分29秒 | 日記

 今日はNPO法人日本宇宙少年団備後ローズスター分団の、10月活動日であった。久しぶりに、終日を使っての自然観察会。場所を「県立公園山野峡」とし、植物研修と岩石(地質)研修を実施した。「9時半聖公園集合」だったので8時40分頃に着いたが、間なしにリーダーや参加者が集まってきた。天気は良かったが、紅葉にはまだ早かった。

 山野峡は、吉備高原を小田川が侵食して出来た峡谷である。正面の山地の向うには、「竜頭の滝」があり、自然散策コースにもなっている。この吉備高原には大小の峡谷が数多くあるが、玄武岩ドームも多く見られる。正面の「聖嶽」は、上部の流紋岩が侵食されて、下部の堅い粘板岩の層が小田川の浸食で残ったもので、結構急崖を為している。紅葉の時期には崖が映えて見える。

 全員が集合したので早めに開会行事を実施して、観察会を始めた。

 聖公園からキャンプ場までは凡そ2kmだが、道路両側の植物を観察しつつ歩いたので時間がかかった。止まり止まり説明したり採集したり…とか、なかなか忙しかったが歩は進まなかった。誰も同じだが「食べられる物」があれば、本気になる。“むかご”がかなり見られたが、採れるところでは動かなくなる。時期が悪かったか、“ヘクソカズラ”は、葉を揉んでも臭いが薄かった。また、行楽シーズンになるからか、道路際の草木が刈り取られて、観察には良くはなかった。11時半になっても行程の半分くらいしか移動出来ていなかったので、残りを早足でただ歩くだけになってしまった。それでも子ども達は、愚痴も言わずに良く歩いた。途中に何軒かの家も見られたが、多分“無人”になって居るようであった。イノシシが出た痕跡が多く残り、人間生活の匂いは感じなかった。遊歩道(道路)の最高点は「頓行峠」と呼ばれていて今でも茶屋の建物が朽ちた状態で残っているが、昔はここまで定期バスが運行していたことが夢の様である。近くには“不動明王”の石像が祭ってあるが、歴史を感じるもので、その昔は大きな人間の営みがあったに違いない。キャンプ場広場にはさきに数人のリーダーが先着していて、昼食が摂れるように場所取りなどしていた。ここで13時前までを昼食時間とした。

 その後小田川川原で転石や生き物観察をしたが、“カワニナ”が沢山生息していて、蛍の飛び交う景色を想像することができた。また昼食した場所に戻り、ここ山野峡で見られる植物などの採集物を使いながら学習した。

 

 珍しいものや、説明を聴いて初めて分かる物など多種多様な活動に、子ども達は嬉々としていた。私はキャンプ場で採集した“サワグルミ”の堅果を写真に撮ったが、ピントが合わず、拡大するとピンボケである。「クルミ」というだけに堅果は、割ってみると通常のクルミと遜色はないが、見た感じは「カエデ」の種のようであった。

 14時半過ぎに無事活動を終了して帰路に着いたが、参加された分団員親子は満足してくれただろうか。私は集合場所の聖公園までを歩いたが、参加者は車を取りに行ってキャンプ場の駐車場から車で帰宅した。途中、追い抜きざまに声をかけてくださったが、皆さん笑顔だった。その様子で、十分満足出来たことが分かった。父親がオーストラリア人親子4人が参加してくださったが、楽しんでいる様子が垣間見えて嬉しかった。事故なく無事に活動が終えられ、安心して帰宅した。