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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されることがあるのか?第12回

2017年07月26日 | 日記

2、おびただしい魂が危険の中にある

 今日のクリスチャンたちは “『Once Saved, Always Saved』(一度救われたらいつも救われている:イエス様を信じることによって一度救われたら、品性と信仰の霊的成長に関係なく、たとえ神様のみ言葉に対して不従順であったとしてもそれに関係なく無条件に救われるという意味で用いる表現)という「救済説」を受け入れています。救いに関して、このような魅惑的な教えがあるため、多くの者が深く考えもしないで、それを受け入れてしまっています。もしこの考えが真実であるなら、それは私たちにとっては最も驚くべきすばらしい教えになるでしょう。しかし、もしそれが真実でなければ、それは世界で最も危険な教えになるでしょう。このどちらを福音として受け入れるかによって、おびただしい魂が救われることもあり、失われることもあります。

 私たちの永遠の運命は、この教理の真偽にかかわっています。私たちは、もう一度、自分に対して次のような質問をしなければなりません。「私は信仰と救いについて、聖書の真理によって生きようとしているだろうか。私が悔い改めてキリストを信じたなら、もうこれ以上選びはないのだろうか。救いとは、ある時の瞬間の決定によって、永久に完成されるものだろうか。それとも、その決定の後も、キリストの恵みの中で成長していかなければ、決定は取り消されることがあるのだろうか。そもそも、神様は罪や汚れを、ご自分の王国に持ち込むことをお許しになるのだろうか?」

 幸いなことに、このような質問に答える明確な聖句が、聖書にはたくさんあります。私たちはその聖句を注意深く調べ、同時に「一度救われたら永遠に救われる」という教理を裏付けていると思われる聖句のいくつかを検証してみましょう。


救いは取り消されることがあるのか?第11回

2017年07月25日 | 日記

11

第2部:一度救われたら決して滅びることはないのか?

 

1、序論

 

選択する能力は、神様から与えられた驚くべき賜物です。ところが、人が自分で選択できないことが一つだけあります。それはどんな人であれ、堕落した利己的な本性を持って生まれるということです。人は例外なく誰でも、この生まれつきの利己的な本性を持っているのです。つまり、私たちの生涯で最も大きい影響を及ぼす、人の性質に関しては、すでに古い時代の私たちの先祖の失敗によってもたらされたのです。私たちが生まれながらに持っている利己的な性質については、どんな選択の余地もありません。その結果、私たちはすぐにこの性質に負け、あたかも水を飲むように罪を犯し、皆永遠の滅びに至る死を自ら選んでいくことになるのです。もしキリストのみ力を通して、この利己的な本性が変化されないのであれば、人はいつまでも、生まれては滅びてしまう人生を繰り返していたことでしょう。

 

このような堕落した性質を持って生まれてきた私たちですが、神様は私たちに、この性質に負けることのない強力な力を選択することが出来るようにして下さいました。これは誰にも奪われることの出来ない堂々たる権利であり特権です。この選択こそ、私たちが生きている間にするべき、最も重要な決定です。この選択によって私たちは、罪の本性に従って永遠に滅びるか、キリストを信じる信仰によって、新しい品性に創り変えられ永遠に生きるかを決定します。

 

 ところで、私たちに与えられたこの選択権に関して、人々は様々な異なる見解を持っています。多くの人は、次のような考えを教えられています。「あなたの不幸な運命を変える重要な選択があります。一度あなたがキリストの救いを受け入れる選択をするなら、あなたは決して再び滅びることはないのです。あなた自身のどんな行為も、その決定を変えることは出来ません。あなたがキリストを個人的な救い主として受け入れるなら、それはあなたの運命に対する最終的な選択です。後にあなたがその決定を変えたとしても、天の命の書から消されることはありません。あなたが今後どんなに大きな反逆をしても、故意に神性を冒瀆(ぼうとく)して罪の生涯を送ったとしても、神様の愛は変わらないのだから、この決定は変わらないのです。あなたが一度キリストの救いを受け入れたなら、それは永遠にあなたの救いを保証するのです」。

 

基本的に、このような考えが、「一度救われたら永遠に救われる」という教理を信じている人たちの主張です。それに対して、別のグループの人たちは、「神様はいつでも私たちが、救いか滅びかを自分で選択できるようにされた」と信じています。彼らは、救いとは、キリストとの継続的な個人的関係に基づくもので、故意に不従順の道を選んだり、神様との愛の関係が壊れるなら、その人は真のクリスチャンではなくなり、救いのどんな保証も受けることは出来ないと信じています。


救いは取り消されることがあるのか?第10回

2017年07月24日 | 日記

私たちは、信仰生活の勝利というこのとても大切なテーマを明らかにするために、聖書の4つのみ言葉から学んでいきましょう。これらの4つ聖句は、神様が私たちに与えて下さる勝利と、その力の秘訣について、詳しく教えてくれています。

1、「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」(Ⅰコリント15:57)。

皆さんの心に、このメッセージを深く刻んで下さい。勝利は賜物なのです。それは私たちがどんなに努力をしたとしても、自分の力では得ることができません。何かの善行をたくさん行ったからといって、勝利する力や資格が生じるものではありません。私たちに必要なただ一つのことは、それを切なる心で求めることであり、その勝利はキリストの恵みを通して代価なしに与えられるのです。キリストはサタンに打ち勝たれた唯一のお方であり、私たちが受ける全ての勝利はそのお方からもたらされる賜物なのです。

ある人は食欲の奴隷であり、ある人はアルコールやタバコの奴隷になっています。またある人は高慢不遜な態度や短気な性格、あるいは世俗的な欲望を押えるために、必死になってもがきます。聖書は、ただイエス・キリストを通して、賜物として勝利が与えられると教えています。皆さんは、神様にその力を求めるなら、それを得る事が出来るとお信じになりますか?勝利を求める皆さんの祈りに対して、神様はただちに応答して下さることを全的に信じますか?

皆さんは、勝利を、キリストが保証なさる約束として確実に信じることができます!

 

2、「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:11)。

罪に対する勝利は、それを信仰によって求めるあらゆる人に約束されています。私たちはこのみ言葉に基づいて、勝利を得ることを信じることが出来ます。なぜなら、神様は真実な方であり、決して嘘をつかれるお方ではないからです。ですから、罪への勝利を願い求めて祈ったならば、約束が必ず成就すると信じて感謝し、あたかもそれが実現したかのように行動していくことが出来るのです。私たちの祈りの応答として、何かの感じや感情が起きることを期待する必要はありません。私たちは、神様が語られたゆえに、勝利するのです。約束の中にある能力が、私たちの勝利の秘訣です。

 

3、「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ6:11)。

「認むべきである」という言葉は、「信じること、または成し遂げられたこととして考えること」を意味します。つまり、自分自身を罪について「死んだ者」として見なされなければならないと言う意味です。死んだ者は怒りません。死んだ者は利己的なむさぼりを持ちません。

かりに皆さんが、罪に対して勝利を得たいと思うのであれば、皆さん自身を罪に対して死んだ者と見なさなければなりません!現在皆さんが抱えておられる、勝利できない問題は何でしょうか。皆さんは喫煙の習慣や、執拗につきまとう罪を克服したいと本当に望みますか?今キリストは語られます。「私はあなたに勝利を与えよう」。皆さんがこの約束を信じる限り、神様は勝利を与えて下さるのです。そしてこれから皆さんは、罪に対しては死んだ者として行動してください。勝利のための力を求める祈りをしてください。皆さんが勝利を求めた瞬間、勝利の力は天の補給所から皆さんの生活の中に、即座に下ることになるのです。たとえそれを感じることができなくても、それは間違いなく皆さんの生活の中に表れるようになります。皆さんがそれを信仰で受け入れる限り、いつもそこにあるのです。

ある人々は、この勝利を劇的に経験し、今まで好きだった罪を嫌悪するようになり、罪はその味を失ってしまいます。喫煙中毒だった人が、喫煙の要求から完全に解放されることがあります。けれども、このような方法は、神様が一般的にとられる方法ではありません。多くの人の場合、勝利の経験は与えられますが、心には罪の欲求と欲望が残っていて、機会をとらえて人を誘惑してきます。しかし、誘惑の瞬間ごとに、それを克服できる力が天から私たちの心に伝わってきて、力強く私たちを支配するようになります。

私たちの肉体と感覚が、私たちに罪を行うように激烈に要求したとしても、私たちの良心の中で語られる聖霊の静かな訴えが耳に響いて、私たちは自分自身をすでにキリストにあって死んだ者と見なして、聖霊のみ声に屈服するようになります。このような経験を通して、私たちの信仰は天に向かってぐんぐん成長していきます。

 

4、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ13:14)。

イエス・キリストを着る、つまりキリストと一体になり、キリストの思いによって生きるようになってくると、神様のみ力に対する確信がとても強くなり、罪の勢力に陥ることは二度と考えられなくなります。それ以前の「努力」による方法の時は、大部分失敗するほかありませんでした。

これまで失敗してきた原因について、一つの例話を紹介します。小学生の正君は、お母さんの言いつけにそむいて、子供だけでプールに行って叱られました。「どうしてお母さんの言うことを聞かなかったの」と尋ねられた時、彼は「だって、友だちがさそったのだもの」と答えました。するとお母さんが言いました。「お母さんは、あなたが朝家を出る時、水着を持って行くのを見ましたよ。どうして水着を用意して行ったの?」。正君は「だって、友だちがさそうと思っていたから・・・」と答えました。

勝利を勝ち取ろうとしても、ある人は戦いが始まる前から、負けることを想定して妥協を始めています。むしろ彼らは失敗したらどうするか、あらかじめ言い訳を考えています。

 

ところで、これまで勝利のためのいろいろな方法を試してみたけれども、失敗したという人がいるかもしれません。そして、何度も失敗を繰り返していると、神様の約束が本当なのか、疑うようになる人もいるかもしれません。そうであってはなりません。私たちは、ただ自分の弱さをさらに痛感しなければならないのであって、もっと強くキリストに信頼していかなければならないのです。神様の命令は約束として、必ず実現すると信頼して、もっと強く神様の力に完全に頼らなければなりません。私たちが失敗したからといって、聖書の「尊く、大いなる約束」(2ペテロ1:4)を通して勝利と能力を分け与えて下さる神様の善き計画を変更させることはできません。

しかし、受けとる側に信仰がないならば、神様のお約束であっても成し遂げられることはありません。問題は私たちにあることが、イエス様のみ言葉に明確に記されています。「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」(マタイ9:29)。

 

イエス様にある兄弟姉妹の皆さん!勝利は単純さにあります。そしてそれは実際に作用します。皆さんが心から救われたいと願うなら、それは成就するのです。しかし、罪を喜んで捨てようとしない者はどんな助けも受けることができないでしょう。皆さんが罪を捨てることを願うなら、救いはすでに神様の約束の中に準備されています。

 

 


救いは取り消されることがあるのか?第9回

2017年07月23日 | 日記

9、勝利を得る方法

 

 皆さんはこれまで、悪い習慣や罪は、斬進的に、つまり徐々に克服できるようになると教えられてきたのではないでしょうか。それは『努力し続ければいつかは出来る』という考え方ですが、それではいつまでたっても勝利することが出来ません。40年以上教会生活を真面目に続けていても、教会の長老や役員をやってきたとしても、自我や感情、肉欲から解放されている人はほとんどいません。もちろん、人が年をとって来ると、誘惑や罪に対する関心が薄くなってきて、短気だった人が穏やかになったりすることはありますが、究極的に、私たちは努力によって悪魔に打ち勝つことは出来ないのです。

なぜなら、悪魔は私たちよりはるかに強いからです。もし私たちが、悪魔に勝とうとして熱心に努力して、1年ほどがたち、私と悪魔の力を比較してみたら、どうでしょう。悪魔の力の方が、依然として私たちよりはるかに強いのです。私たちの努力だけでは、ただ一度であっても、思い通りに罪の勢力を打ち破ることはできません。その理由は、私たちは常に、私たちよりもっと強い敵と戦いをしているからなのです。

それでは、どのようにして私たちは、この自分の弱さや敗北を克服することができるのでしょうか?この質問は、私たちを神様の尊いみ言葉の奥義へと案内します。

 

 私たちは、信仰生活の勝利というこのとても大切なテーマを明らかにするために、聖書の4つのみ言葉から学んでいきましょう。これらの4つ聖句は、神様が私たちに与えて下さる勝利と、その力の秘訣について、詳しく教えてくれています。


救いは取り消されることがあるのか?第8回

2017年07月21日 | 日記

8、愛がなければ結婚も宗教生活も悲惨になる

 

お互いの愛が冷えてしまった夫婦にとって、結婚生活とは束縛であり足かせのように思えるかもしれません。愛し合っている時には、少しも苦痛でなかった、相手のために自分を犠牲にすることや、忍耐すること、赦すことなどが、辛く苦しいことになってしまいます。そして相手に対する不平や不満ばかりが目につくようになるのです。この場合、間違っているのは結婚生活ではなく、愛が壊れてしまったことにあります。

同じように、クリスチャンがキリストの愛から離れ、親しい関係がなくなる時、戒めや宗教的義務に対して不平を言うようになります。この場合も、問題は戒めにあるのではなく、神様に対する愛が冷えてしまったことにあるのです。

 

主を愛するクリスチャンは、喜んで自分自身を否定しながらこの世を歩むでしょう。キリストは言われました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)。キリストのこの言葉は、「キリストに従う道は厳しくつらいけれども、自分を殺して不平を言わずについてきなさい」、という意味でしょうか?いいえ違います。そのお方はただ、クリスチャンの歩みには、心を混乱させる色んな誘惑がつきまとうので、それからどうやって逃れるかを教えておられるのです。この世には、常に私たちを魅惑してキリストから離れさせるような、肉体的、世俗的な誘惑があります。私たちは、現在自分たちが持っているような愛よりも、もっと高く、強力な愛に支配されていなければ、それらの感覚的な誘惑が私たちを圧倒し、敗北してしまうことでしょう。自分を捨てるとは、頼りにならない自分の知恵や能力によって生きるのではなく、100%神様の力によって生きるということです。自分の心の中のゴミを全部捨てる時に、神様の愛が心を満たし、主の奉仕のために与えられる十字架が喜びと感謝になるのです。

 

人が自分自身の全てを祭壇に捧げた時、キリストの強い愛がその人を支配するようになり、肉欲的な、世俗的なさまざまなサタンの誘惑に対して、はっきりと「NO」と言えるようになります。サタンは何度も何度も、私たちの弱い部分に攻撃を仕かけてくるでしょう。そして、私たちとキリストとの愛の関係を破壊しようとするのです。しかし私たちは、この世の何ものよりもキリストを愛することによって、また、キリストは私のためにいつも最善、最高のことをして下さるという信頼によって、サタンの誘惑を退けるのです。

 

サタンは特に、クリスチャンの感情を動揺させることを通して、強力に働いてくるでしょう。しかし、真のクリスチャンは、自分の感情や感覚は全く信頼出来ないことをよくわきまえています。私たちは義と真理のみ言葉に基づいて信じるべきであって、心や思いの中に浮かぶ、感じや感情を根拠にして信じるのではありません。今日、教会の中で、興奮してわけの分からないことをしゃべったり、絶叫したり、踊り狂ったりする人がありますが、そのような人の大部分は悪魔にだまされているとしか言いようがありません。

また、人が一時的な満足を得るために、罪深い快楽を求めたり、自分の欲望を満足させようとするなら、どんどんそれから離れることが出来ないようになり、ついにはロボットのように自分の欲望が命じるままに行動するようになり、悪魔の奴隷になってしまうことでしょう。

 

今日の教会の大きな問題は、多くのクリスチャンが、自分たちが従うべき聖書の教え、愛の原則に従う力がないことです。肉体的な欲望に抵抗できる力がなく、肉欲の命じるままに思いと体を任せる肉欲の奴隷になっています。また、自我も同じように、外部からやって来る刺激にすぐ反応して感情が動揺し、理性でコントロールすることが出来ません。堕落して弱められた意志は、力を失ってふらつきながら、感情と感覚が要求するまま引きずり回されています。このような人にとっては、正しいことをするより、悪を行うことのほうがもっと簡単になってしまいます。

しかし、キリストの中にいる真実なクリスチャンにとっては、義の原則に対する確信が強力であるため、誰も彼に罪を犯させるように強要することができません。そのような人の心の中には、神様の力ある真理のみ言葉が深く刻まれているからです。

そしてこのことの中に、イエス・キリストの完全な福音の喜びの知らせがあります。私は読者の皆さんに、そのことをお伝えしたいと思います。イエス様は私たちに、義を重んじる心を与えて下さり、聖なることができるように、ダイナマイトのような力を与えるために来られました。私たちは罪責感と罪の勢力に対して、勝ち得て余りある勝利を得ることが可能なのです。