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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 56

2013年07月18日 | 日記

  

 56

F.洗盤

 洗盤は、「大杯」とも「海」とも呼ばれている、大きな、水を満たしたたらい〔水盤〕であった。聖所の務めを始める前と後、犠牲をささげた後、また特に聖所の中へ入る前に、祭司たちはそこで自分たちの手足を洗った。洗盤は真ちゅう製で、この真ちゅうは、信心深い女性たちの鏡から作られたものであった。それは、私たちの品性と心を映し出す、自由の律法を象徴している(ヤコブ1:23-25;Ⅱコリント3:17-18参照)。

 この鏡に見入る人は、聖霊と神の言葉を象徴する水によって、自分の罪が洗い清められたことを認識する。血を流すことによって罪は清められる。そのことが要求されたのは一度だけだが、私たちは日々、水による清めと回心の経験をしなくてはいけない。

キリストが十字架で死なれた後、聖霊が弟子たちを罪から清め、そして彼らに降り注いだ。同様に、聖所へ入る前に、燔祭の祭壇(十字架を象徴)から恵みを体験するための洗盤へ行き、知っているすべての罪から清められねばならなかった。また、キリストが天の聖所に入り、聖職を始められる前に、ペンテコステにおける聖霊の恵みが注がれた。聖化の経験をとおして、信仰によってキリストと共に聖所に入る私たちも、まず十字架のもとで自我に死んで罪を悔い改め、聖霊の恵みをとおして罪を完全に断ち、み言葉で己を洗い清め、聖霊の印を受けなければならない。

  説教集:どうしても愛せない時 ② 赦そうと思えば赦せる

 ある主婦の方が、ご主人の転勤のために新しい仕事を見つけて働くことになりました。慣れない職場で、それなりに一生懸命やっていたのですが時々ミスをしてしまいます。あるとき主任からこっぴどく叱られてしまいました。それはもう、今まで聞いたことがないくらいひどい言葉で、しかもみんなの前で怒鳴られたのです。

 この方は家に帰っても、心が落ちつきませんでした。悔しさと、悲しさで、夜になっても眠れないほどです。そして、「もう明日からは会社に行くのをやめよう」とさえ思うようになってしまいました。ところが、そうしているうちに、ふと心に聖書の言葉が浮かんできました。

「互いに愛し合いなさい。わたし(キリスト)があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13の34節)。

この方はクリスチャンで聖書を学んでおられました。そして、キリストが人を愛し赦しなさいと教えられたことも知っていました。けれども、「あんなにひどいことを言った人を赦すことはできない。いやだ、あんな人は愛せない」と思っていました。しかし、「赦しなさい」という聖書の言葉が心に響いてきます。

心の中で戦いが続き、ますます眠れなくなって、最後に聖書を手にとって開いてみました。何気なく開いたページに次のような言葉がありました。

わが思いは,あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる(イザヤ書55章8節)。

 これを読んだ時、「オヤッ?」と思ったのです。「自分はあの人を赦せない、とうてい愛せないと思っている。でも神様の道は人間の考えとは違うんだよ、と聖書は言っている。自分ではできないと思うことを、できるようにして下さるのが神様ではなかったのか」と思ったのです。

 その次を読んでいくと、12節が目にとまりました。

 あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれていく(イザヤ書55章12節)。

 ここに書いてある、「喜びをもって出きて、安らかに導かれていく」という言葉、これは神様のお約束ではないか。赦せないと思っている自分にこの事を通して何かを教えようとしておられるのではないか、そう考えるようになったのです。

 翌朝になって、この方は、聖書の言葉を信じ神様が何か導いて下さるにちがいないと思いながら家を出ました。そして会社で会ったら、まず自分から挨拶をしようと、けなげな決心をして職場に行ったのです。

 会社のドアを開けたら、きのうの主任が目の前に立っていました。驚いたことにその主任はこちらが挨拶する前に、これまで見たこともないような笑顔で「おはよう」と言ってくれたのです。その瞬間、この方へのわだかまりがスーッと溶けてしまいました。それ以来この主任とは打ちとけて話すことができるようになったといいます。

 朝一番最初に会ったタイミングといい、この主任の態度と言い、まったく、神様のなさったこととしか考えられない、とその方は言います。心から、というわけではないにしても、聖書の教えを思い出し、それに従おうとしていくと、神様は、思いもよらない、素晴らしい解決法を与えて下さる、それがこの方の得た結論でした。

 この方は、自分にひどいことを言った人を愛せない、赦せないと思っていました。しかし、よく考えてみると、本当は、愛せない、赦せないのではなく、愛したくない、赦したくないと思っているのです。私たちは、赦したくないから、赦せないと思うのであって、もし私たちが赦したい、と思えば、赦す心は神様が与えて下さるのです。

 この方は相手を赦せるとは思いませんでしたが、聖書を読んで、赦したいと思うようになったのです。その心が相手にも伝わって、相手の方から声をかけてくれたのではないかと思います。

 人間の心は、目に一番よく表れるといいます。人間は好きな人の前に行くと瞳孔が少し開き、嫌いな人の前ではしぼむのだそうです。「いやだ、あんな人は受け入れられない」と思っていると、顔で笑っていても瞳孔がしぼんでしまうので、それは相手にも微妙に伝わるのです。反対に「赦したい」と思って入ると、「ああ、この人は、私があんなにきつく言ったのに、私のことを受け入れているな、赦しているな」と相手も感じるのです。 先ほどの主任は、瞬間的に自分が受け入れられていることを感じて、この人に笑顔を向けたのではないかと思います。



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