じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

珍しくテレビを見ていた

2016-03-28 21:19:31 | 日記的雑談
テレビで坊さんが討論をするって言うんで滅多に見ないテレビを見てしまった。

私が馬鹿だった・・・画面の中にホンモノを見つけようとした私が馬鹿だった。

テーマはお布施と戒名から始まって今をときめく坊さんの派遣についての討論があった。
しかし・・・まっ、好きにしてください、と、言う感じの討論で中身はなかった。
それでも、意外と正論だったのは派遣の会社を経営している坊さんと、派遣会社で働いている坊さんの論であった。
喜捨の意味から入った論は説得力があり、頷ける物だった。
しかし、それに反論をかました京都と大阪の坊さんは、仏教の伝統が崩れるとか言い出し、ナンだかなぁ~と、私は感じた。
迷える凡夫を救うのが仏様の教えナンじゃないのか?葬式仏教の伝統など糞食らえ、と、思う自分としては納得のいかない話であった。

で、派遣の坊さんを選ぶ衆生は信心が無いと言うのは大間違いだろう。
火葬して骨壺のまま家に置くのもナニだし、ましてや燃えないゴミに出しちまうのも心苦しいんで、せめて派遣の坊主でも呼んで、と言う心の現れ難じゃないのかと自分は思うんだが。
そもそも、戦後のGHQの作戦が成功し、家長制度は崩れ核家族化が進み家と檀家と墓の関係が稀薄になってしまった現代では旦那寺を持たない家も多い。
そうなれば、いざ葬式という時にどうしたら良いのか分からないのは当たり前だろう。
だとすれば、手近な所でなんとかしなくちゃ、と言うのでネットで検索したら派遣の僧侶がいるのを知り、それは便利だ、となるのは普通だろうと思う。

その他に寺と一般の人を結びつける工夫として、英会話教室やコンサート云々というのがあったが、それは全く意味が違うだろう。
宗教としての仏教に興味を持ってもらう前ぶりとして寺に足を運んで貰い、説法はその後だと言うのは筋が違うと思う。
仏教を売るのにおまけで客を釣っている、正に商売だろうとしか思えないんだが・・・まっ、いいでしょう。

奈良の仏教は時の権力との結びつきが強くなり過ぎたので平安京に移されたと言われるが、そもそも日本の仏教の性格がそんな所なのだから推して知るべし。
仏教とは、葬式をする事でも先祖供養が目的でもない、と、思うのだ。
そうしたい人はそうすれば良いが、そんな事をしなかったからと言って仏様は怒らないし何も言わないはず。

それにしても、坊さんの派遣会社に勤める坊主の喜捨の概念は立派であった。
寺の維持やなんだかんだで形態を維持するのに金が要るので大変だと言うのは坊主の側の勝手な事情だ。
立派な寺も鐘も要らないので簡素にして経費を軽くしてくれと言いたい。
そうしてお布施が少なくても成り立つ寺にしたら良いじゃないか、とおもう。
坊主と言う職業が給料制で割に合わないのなら止めちまえば良い。

お布施は坊主が貰っているのではなく仏様の物だ、と言った坊さんがいたが、仏様が聞いたらビックリポンだと魂消やしないか?

まっ、テレビの討論に熱くなる自分も馬鹿なんだけれども・・・葬式仏教は仏様の説かれた道とは違うんでドーでも良いです、と。


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