⑯今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。
三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。
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三成には類のない能力がある。
いざ挙兵ときまると、電光石火のすばやさでその「事務」を片づけてゆくことだ。
稀代の能吏といっていい。
それに、計画規模がつねに全国的であるということだった。かれの脳裏には、日本列島の極彩色の地図がつねに存在している点、他の武将には類がない。
かれと仲のわるい「野戦派武将」の頭目である加藤清正が、たとえ三成の立場になっても、その挙兵は地方的にとどまっただろう。清正でさえそうである。三成以外、家康をのぞくほかは、日本的規模において計画し、号令し、諸侯をうごかす能力をもった者はだれもいなかった。
その点、若いころから秀吉の秘書官として天下の行政、財務、人事を見つづけていたかれには、ものを六十余州の規模でみるという頭脳の訓練ができていたに相違ない。
三成はその夜、大谷吉継、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)のふたりと挙兵の決定をしたあと、寝かせ、自分は寝なかった。
すでに探夜である。
表書院に煌々(こうこう)とあかりをつけさせ、士格(しかく;正規の武士身分を持った者)以上のすべてを召集した。
「好戦(こうせん)家康を討つ」
と、三成は言明した。
頬(ほほ)が、血を噴くように紅潮しているのか、
「討って、豊臣家の御安泰をはかる。この一戦、成否は天にあり」
と、三成の声はふるえはじめていた。
「予の一命の安否もいまは問題ではない。そのほうども、一命を予にあずけよ」
これは、訓辞といっていい。三成は簡潔にそれだけ言い、十一人の家老をのこして一同をひきとらせた。
燭台がこの一群のまわりに片寄せられ、灯明りがいよいよ光輝を増した。
「そのほうどもに対しては、いままで議をつくしてきた。もはや論ずべきなにごとも残っていない。あとは予が命ずることを、そのほうどもは神速(しんそく:人間わざとは思えないほど速いこと)に実行してゆくのみである。されば」
と、三成はこの挙兵に関する最初の命令を舞兵庫(まいひょうご:三成の家臣になり、前野忠康から舞兵庫に改名。若江八人衆の一人)にくだした。
「越後に一揆をおこさしめよ」
それだけで舞兵庫には内容がありありとわかった。すでにここ数カ月、討議に討議をかさねてきたところである。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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