⑮今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。
三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。
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家康自身のことである。が、家康は、目に涙をうかべてそれをいった。
「治部少輔(ちぶのしょう)が、おのおの申されるごとく好戦ならば、それがしも豊臣家の大老職に任じている者でござる。時節到来を待ち、大老の職分上、それがしが討ちます。そのときは、おのおのの御手も拝借しましょう。よろしいか」
と、家康はそこで言葉を切り、一同の顔を見わたした。自分の言葉の効果をさぐるためである。
一同、ある種の昂揚(こうよう)を感じさせるおももちで家康を見つめている。
(これでよし)
と、家康はおもった。三成を討つときはこの七人の猛将は、自分を信じ、無邪気についてくるであろう。
「しかし、いまはなりませぬぞ。なにごとも秀頼様のおためでござる。乱をおこす種をお蒔きなされてはならぬ。もしそれでもなお治部少輔を討つ、と申されるならば、この家康がお相手になる。七人衆、国もとで兵を整え、そろって打ちかかって来られよ。いかがでござる」
「いや、それは思いもよらぬことでござりまする」
と、むこうのはしにいた加藤嘉明が、勢いの失せた、小さな声で答えた。こののちに徳川家から会津四十余万石というとほうもない大領をもらい、やがてはとりつぶしの目に遭う男は、このときとくに三成憎しで走りまわっていたわけではない。
加藤清正や福島正則とは幼なじみで、三人ともどもに秀吉の長浜城主時代に小姓として仕え、それ以来、三人仲間として世を渡ってきた。清正や正則はこの嘉明を孫六、とよび、嘉明はかれらを、虎之助、市松、といまでも古い通称でよんでいる。
この三成事件のばあい、仲間の首領株の清正が三成にふんがいしていたため、正則や嘉明もいわば徒党意識で雷同したにすぎない。
とにかく、清正ら七将は、家康の一喝にあっては力なく徳川屋敷を去った。
この一件は、家康の身に、はかりしれぬ収穫をもたらした。世間は、家康に対する認識をあらたにした。かれが意外にも秀頼思いという点では天下に比類がないということ、つぎにこの老人は、自分に敵意をもつ三成をさえ、かばうほどの大度量であること、さらには、荒大名として知られる七将でさえこの老人の一喝にあえば猫のようにおとなしくなるということ-この三つはたちまち風聞としてひろまり、世間での家康の像を、いちだんと大きくした。
三成は、敗北した。
とは、この男は気づいていない。家康が清正らを追っぱらったと知ったとき、
「わしの予想どおりじゃ。毒竜の毒をもって毒蛇どもの毒を制したことになる」
と内心おもい、自分の智力に満足した。
その翌日、三成は、本多正信老の家来五十人に護衛されつつ、伏見城内の自分の屋敷にひきあげた。
島左近にむかい、
「これがおれの智恵よ」
と、うれしそうに笑った。こういうとき、三成の顔はひどく無邪気になる。
「結構でござった」
と、口うるさい左近も、いっしょによろこんでやるしか、手はない。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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