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家康とその家臣団は、戦国から安土桃山にかけてトータルで最強の称号を付しても差し支えはない

2023年01月10日 | 歴史
⑭今回のシリーズは、徳川家康についてお伝えします。
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問題は戦後処理である。戦いに勝利した東軍の武将たちは、家康とはあくまでも対等な関係であったはずが、いつのまにか家康から恩賞を受け、その配下として戦ったということにすり替えられてしまった。

しかも家康は、外様大名はみな畿内以西に追いやり、中部以東は親藩・譜代(ふだい:以前から徳川家の家臣だった者が当主となった大名)でかためてしまった。
とくに関東地方は完全に譜代で占めてしまい、家康に敵対しようとする者がいても、隙(すき)を窺(うかが)うことすらできなくなっていた。

こうして、家康および徳川政権の勢力というものは、いつのまにか強大無比のものとなり、他の大名はその鼻息をうかがうは、かはないという状態になった。

その徳川政権の中核を担った三河武士が戦国最強であるという言い方や、「十六神将」という言葉が語られだすようになるのは、おそらくこのころからではないだろうか。

もともと家康軍団、三河武士というのは、主君家康がそうであったように、無理な戦いを仕掛けることはなく、非常に柔軟で変幻自在な戦いぶりを特徴としていた。柔軟だということは、同時に臆病でもあるということだ。やる気は充分にありながら、その反面、慎重な面もある。その意味では家康自身、真に臆病であり、つねに「破滅」を恐れていた。そして、危ないときには逃げる。そうした緩急自在の戦いを重ねていくうちに、真の実力に加えて目に見えない力を身につけるようになっていったのであろう。

純粋に戦闘能力を比較するのであれば、おそらく戦国最強の軍団は、武田騎馬軍団であろう。
越後の兵も強かったが、こちらは上杉謙信の天才に寄りかかる部分が大きいようにも思える。

いずれにせよ、家康軍団よりも強い軍団は存在した。にもかかわらず、そうした強い相手との正面衝突を極力避け、結果的に勝利を収めていった家康とその家臣団は、戦国から安土桃山にかけての時代をトータルで眺めた場合、最強の称号を付しても差し支えはないであろう。

さらに加えるならば、徳川政権が、安定期を迎えると、それまで槍一筋で家康を支えてきた武功派の武将たちはだんだんと身の置場を失ってゆき、算盤勘定をこととする本多正信や大久保忠隣(ただちか)といった連中が幅をきかせるようになる。すると「十六神将」に数えられるような初期の家康政権を支えた武将たちは、自らの武功と天下取りに果たした役割とを強調し、懐かしむようになる。

こうした感情が、「十六神将」や三河武士団の評価を高めてゆく動きに、さらに拍車をかけたともいえるかもしれない。

(小説『武将の運命』作家・津本 陽より抜粋)

---owari---
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