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家康の魅力

2023年01月11日 | 歴史
⑮今回のシリーズは、徳川家康についてお伝えします。
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(津本 陽:小説家) しかし家康が魅力に乏しいかというと、そうではありません。実に面白みに富み、晩年に至るにつれ、燻銀(いぶしぎん)のように滋味(じみ:うまい味わい)が底光りして見えます。桑田忠親(歴史学者)さんによると、家康の敗けるが勝ちの戦法のルーツは松平家まで遡(さかのぼ)るようです。

ナンバーワンになったら風当たりが強いでしょ。マラソンと同じですよ。二位以下につけて、ナンバーワンに自分を高く売りつける。これが松平家のどうも家訓であったらしい。祖父の清康の代には、かなりの勢力を誇っていましたね。三河を制圧して、遠江(とおとうみ)をうかがう勢いでした。

(津本) ところが不慮の死を遂げたでしょう。父親の広忠も若くして、二十四歳かそこらでやはり家臣に殺され、三河が今川の属国になってしまった。家康は義元の人質に。幼児期から苛酷な日々でした。長じて信長・秀吉という大天才、中天才に膝を屈して接すること二十年。屈折が家康に憎らしいほどの陰影を与えます。長い間、頭を低くして我慢を重ね、最後に、周囲も知らないうちに頂点に登りつめた巧妙さ。

秀吉は信長の弟子ですよ。先人の天才性を見事に自家薬寵中(じかやくろうちゅう)(自分の意のままであるたとえ)のものにしている。しかし家康は違います。徹底した策士であり、終生、政治家、治世家であり続けました。秀吉が天下を取るや、急速に政治手腕が鈍り、我が子秀頼かわいやの凡人になり下がってしまったのと対照的かもしれません。

家康は難局に直面すると、動きません。危機が訪れると、他の者ならば逃げ出すのに、その場に根が生えたように坐り込んでしまう性分です。桶狭間の合戦でも、今川義元の死を自分で確認するまで、現場にじっとしている。一見、消極的だけれども、なんとか生き延びようと、懸命に手だてを考えています。

秀吉と家康の覇権争奪の争いである小牧・長久手の合戦(天正十二年=一五八四)でも、ナンバーツーにいることで、命脈を保つことができたわけですね。

(津本)家康は秀吉と闘う前に着々と事前交渉をすすめます。まず、土佐の長宗我部元親や越中富山の佐々成政と意を通じます。次に紀州の雑賀衆、根来衆、畿内の門徒衆を味方につけ、秀吉を包囲。これだけでは不安なので信長の次男信雄を誘い、自陣につけます。表面上は、信雄がナンバーワンのかたちですね。この合戦は長びき、信雄が秀吉と単独講和をむすび、戦闘の大義名分を失った家康も遅れて講和を。

ここで家康は男を売りました。秀吉は、信孝を自害させるために信雄を利用しましたが、利用価値がなくなると、今度は信雄排斥の策に出ます。窮地に陥った信雄を扶けたのが家康という図式ですね。家康は計算したように、天下をとるまで長生きしますね。前田利家のように六十歳前後で寿命が尽きるのが普通の時代に。

(津本) 利家があと五年ほど存命していれば、戦国の様相はがらっと変わっていますね。豊臣政権の長老・利家は秀吉薨去(こうきょ:皇族・三位(さんみ)以上の人が死亡すること)の翌年、あとを追うように亡くなっていますが、そのあと、五大老五奉行による集団合議制が急変し、武断派(ぶだんは)の幹部は文吏派(ぶんしは)の頭目、三成の命を狙うようになりました。

文吏派と武断派の対立は朝鮮出兵以来ずっとあったんですね。三成は驚くことに家康の伏見屋敷に逃げ込み、家康は武断派を懐柔するとともに三成に佐和山への蟄居(ちっきょ:家の中にとじこもって外出しないこと)を命令。自分は伏見城に入城、実権をにぎります。えらいことですよ。家康は関ケ原の合戦で五十九歳。現代でいうと八十歳ぐらいの感じでしょうか。ご承知のとおり、このあと十六年間も元気なんですからね。

(小説『勝者の極意』作家・津本陽より抜粋)

---owari---
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