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伝統技術が未来を開く(前編)

2021年09月18日 | 日本
数千年に渡って蓄えられてきた日本の伝統技術が、最先端の現代技術に生かされ、明日を開きつつある。

(明日を開く伝統技術)
漆塗りのノートパソコンや液晶テレビが売り出された。深みのある黒、鮮やかな赤、なめらかで優美な触感。時を経ても古びずに、ますます艶を増していく。こんな工芸品のような家電や情報機器が広まったら、数年で使い捨てという現在の大量消費文化も一変するのではないか。部品やソフトの入れ替えだけで、本体は一生物として大切に愛着を持って使われるようになるかもしれない。

漆は塗料としても注目されている。合成塗料が含む有機溶剤は、めまい、吐き気、頭痛などの「シックハウス症候群」を引き起こすが、漆は有機溶剤を用いない。壁や天井、家具を漆塗りにした「人に優しいマンション」がそのうち登場するであろう。

さらに漆の固まるメカニズムを応用した新しいプラスチックが実用化の一歩手前まで来ている。これまでのプラスチックは石油を原料とし、製造のために熱エネルギーを使い、廃棄物を出していた。新しく開発されたプラスチックは、漆が自然に固まるように自然に生成され、石油も熱エネルギーも必要とせず、廃棄物も出さない。こんな「地球に優しいプラスチック」が登場したら環境問題も一変する。

お椀や重箱などで培われてきた漆塗りの伝統技術が、最先端の現代技術に生かされて、まったく新しい新製品を生み出す。それはもの作り大国・日本の明日を開く可能性を秘めている。

(世界最古の漆器)
世界最古の漆器は日本で出土している。北海道南部、南茅部町の柿ノ島B遺跡から、櫛や腕輪、数珠状にした玉など多く漆塗り製品が出土した。これらをアメリカの研究所に送り、放射性炭素による年代測定をしてもらった所、9千年前、縄文早期の作品という結果が出た。それまでは中国の長江河口近くの河姆渡(かぼと)遺跡から出土した約7千年前の漆腕が最古だった。

これ以外の縄文遺跡からもたくさんの漆器が見つかっている。島根県松江市の夫手(それて)遺跡からは6千8百年前の漆液の容器が見つかっており、新潟県三島郡和島村の大武(だいぶ)遺跡から出土したひも状の漆製品は6千6百年前のものであった。

約5千年前の青森県三内丸山遺跡からは直径が30センチほどもある見事な漆塗りの皿が出土した。現代にひけをとらない漆の技術がすでに5千年前からあったことで、専門家を驚かせた。この遺跡から出土した漆の種子をDNA分析した結果、中国とは違う日本型のウルシの木であることが明らかになった。したがって、日本の漆の技術は中国とは独立に、場合によっては、中国より早い時期に発達したという説も生まれた。

紀元前2、3千年前の縄文晩期の遺跡からは、赤色、黒色の漆を塗った土器、飾り刀、弓、耳飾り、櫛、腕輪などが多数、発掘されており、高度な漆工芸が大規模に行われていたと考えられる。さらに3世紀末から7世紀にかけての古墳時代には、内側に漆を塗った柩(ひつぎ)が使われ、また武人の鎧や刀の鞘にも漆が使われた。

(連綿たる技術的発展)
漆の技術は、縄文時代から連綿と発展し、歴史時代に続く。日本書紀には漆部造兄(ぬりべのみやつこあに)という人物名が出てきて、漆職人のグループが存在していた事を窺わせる。701年の大宝律令では、漆塗りをつかさどる役所として漆部(ぬりべ)が置かれた。

法隆寺の玉虫厨子台座の四面に描かれた「捨身餌虎図」は、異説もあるが、飛鳥時代の漆絵の代表作として名高い。奈良時代の中尊寺金色堂の内陣(本尊を安置してある部分)や須弥壇は、黒漆塗に金銀、螺鈿(らでん、アワビ貝などの真珠光を放つ部分を薄片とし、漆面にはめ込んだもの)、蒔絵(漆を塗った上に金銀粉または色粉などを蒔きつけて絵模様を描いたもの)で名高い。

鎌倉時代には表面を平らに仕上げた平蒔絵や、盛り上げ高蒔絵など蒔絵の基本的な技法が完成した。室町時代には、さまざまな色漆を塗り重ねて複雑な色模様を出す堆朱(ついしゅ)が行われるようになる。江戸時代には本阿弥光悦や尾形光琳らが、斬新なデザインの蒔絵を生み出していった。

漆工芸は貴族や武家だけでなく、一般人の生活の隅々まで広がっていった。福井市の一乗谷では、戦国時代の町屋跡から漆器が多数、出土した。腕、皿、家具、石臼にまで漆が塗ってあった。

(ヨーロッパで流行した漆工芸)
18世紀のヨーロッパでは、日本の漆器が一大ブームとなり、漆器が「ジャパン」と呼ばれた。その牽引役となったのがオーストリアの女帝マリア・テレジアだった。テレジアは漆器の艶のある黒色に魅せられて、熱狂的なコレクターとなった。ウィーンのシェーンブルン宮殿には、中国から呼び寄せた漆職人に黒い漆のパネルで一面を飾った「漆の間」を作り、財産を注ぎ込んで日本の蒔絵などの漆器を集めた。

「私にとって世の中のすべて。ダイヤモンドさえ、どうでもいい。ただふたつの漆とタペストリーだけあれば満足です」とテレジアは手紙にしたためている。

テレジアの娘の一人がフランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットである。テレジアはわざわざ金粉を施した漆のワイングラスなどを日本に注文しては、マリー・アントワネットに送り続けた。彼女は母親から送られた漆器を大切にし、断頭台の露と消える4年前に、漆器をすべて宮殿から運び出して守っている。

会津は江戸時代後期から漆器の海外輸出で知られており、会津藩は現在価値で数億円規模の外貨を獲得していたと伝えられている。マリー・アントワネットの注文を受けたのは会津藩かもしれない。

18世紀には日本の漆を取り入れた新しい装飾文化がヨーロッパで花開いた。フランスの家具職人がヨーロッパ調の家具に、日本から輸入した蒔絵などをはめ込む技法を流行させた。蒔絵以外の部分は、模造の漆がよく用いられた。ニスに様々な薬品をまぜて作ったものだが、日本の本物の漆には遠く及ばないものだった。

マリー・アントワネットが用いた文机の天板には3枚の蒔絵が使われている。うち2枚は日本製の本物で、数百年たっても黒の塗膜がしっかりしていて変わらない美しさを見せているが、代用品の1枚は漆の色があせ、塗膜がはがれてしまっている。

---owari---
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