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織田信長の「和の国」再建

2024年07月26日 | 日本
将軍を支え、天皇と朝廷を御守りして「和の国」を再建しようとした純粋なる志。

(歴史教科書が教える織田信長像に疑問)
織田信長がどのように教えられているのか、中学歴史教科書からポイントを抜き書きしてみましょう。
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尾張(愛知県)の小さな戦国大名であった織田信長は、東海地方を支配する今川義元を桶狭間(愛知県)で破って名をあげ(桶狭間の戦い)、ついで天下布武という武力による全国統一の意志を表明しました。[帝国書院]
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信長は、朝廷に働きかけて義昭を第15代将軍にすることで実権をにぎりました。しかし、1573年には、敵対するようになった義昭を京都から追放しました(室町幕府の滅亡)。[東京書籍]
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当時、経済に大きな影響力をもっていた仏教の諸宗派をおさえようとしました。・・・とくに,一向一揆との戦争では、老若男女を皆殺しにするなど、多数の犠牲者を出しました。11年間の戦いのすえ、石山本願寺を降伏させました。[学び舎]
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いかにも「革命児」というイメージですが、こういう信長像は最近の歴史研究から大きく見直されつつあります。たとえば最後の石山本願寺との「11年間の戦い」ですが、神田千里・東洋大学文学部教授の『織田信長』はこう記述しています。

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織田信長は、自分に対して決起した本願寺と一向一揆に対し、三度にわたって、少なくともその存続を認める形で対処しているのである。・・・天正八年の和睦以降、織田政権と本願寺との両者は友好関係にあった。
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「仏の顔も三度まで」と言いますが、三度の決起を許して、その後も友好関係を保つとは仏様以上のやさしさ、忍耐強さですね。学び舎の「仏教の諸宗派をおさえようとしました」とは、本当でしょうか? 

(将軍への忠節)
東京書籍の「敵対するようになった義昭を京都から追放しました」はどうでしょう? その前に、まず、どういう経緯で「義昭を第15代将軍にすること」になったのかを見ておきましょう。

将軍・義輝が永禄8(1565)年5月、京都の御所で三好長逸(ながやす)らに暗殺されると、その弟・義昭は、幕府の再興を訴え、諸大名に自分が京都に上るのに「供奉」するよう促しました。

この時、信長は、隣国美濃の斉藤氏との抗争中にも関わらず、義昭に「参陣」することを申し出ました。しかし、この時は斉藤氏に破れたため、実行できませんでした。ようやく永禄10(1567)年8月、斉藤氏を降参させてから義昭を美濃に迎え、さらに近江に進攻して六角氏を追い、翌11年9月に京都入りを果たしたのです。

10月22日、義昭は内裏(だいり)に参内し、征夷大将軍に任命されました。信長は「参陣」申し出から3年以上も戦いの連続でした。義昭は信長を副将軍、または管領(かんれい、幕府で政務を総括する最高職)に任じようとしたが、信長は「まだ近隣諸国を平定しなければならない」と辞退して、美濃に戻りました。

そのわずか3ヶ月後の永禄12(1569)年1月、三好長逸らが義昭の御所を包囲して攻め込もうとしましたが、信長の家来が防戦しました。美濃に戻っていた信長は即座に京都に舞い戻り、「きちんとした御所がなければ不都合だ」と近畿14カ国の大名・武将らに命じて、堀を広げ、将軍御所を改築させました。

御所の格式を高めるために、信長は自ら指揮して、京都内外から名石名木を集め、庭には池、流水、築山を築きました。御所の周囲には諸大名の邸を作らせたので、甍(いらか)が並ぶ様は将軍御所の偉容を高めました。

(信長の諫言)
しかし、これほど信長が義昭に尽くしたのに、両者は対立するようになります。対立を決定的にしたのは、元亀3(1573)年に信長から義昭にあてた「十七箇条の諫言(かんげん)」です。

その第1条は、義昭が天皇や朝廷をお支えするのに怠慢であること。朝廷との関係は第10条でも指摘されており、朝廷が改元を希望しているのに、義昭が費用を出さないので実施できないこと。12条では諸国からの金銀を内密に蓄えて、宮中の御用にも役立てないこと。将軍として天皇と朝廷を御守りし、財政面でも支える責任を果たしていない、と批判しています。

民の安寧を祈られる皇室をないがしろにしては、国の乱れにつながる、との考えでしょう。たしかに、皇室尊崇の念の薄い室町幕府のもとで戦国の世になってしまいました。将軍の責務とは、皇室を御守りして、平和を維持していく事だと信長は考えていたようです。

おりしも内裏も朽ち果ててしまっていたので、信長は自身で担当奉行を任命して、3年かけて紫宸殿・清涼殿・内侍所・昭陽舎そのほか諸々の建物を修繕しました。

さらに、宮中の収入面においても後々まで困ることがないようにと、京都市中の町人に米を貸し付け、毎月その利息を宮中に献上するよう命じました。また、零落した公家たちの領地と相続のことに関しても、復興のための諸施策を実施しました。

内裏の修理が完成すると、御所の築地(土塀)を京都の町衆一同で修理したらどうかと所司代が提案したところ、町衆はもっともなことだと、協同で引き受けることとし、町ごとに工事区域の分担を決めました。ちょうど花見時だったので、町衆はあちこち舞台を作って、笛太鼓鳴り物入りで囃し踊り、人々は身分の上下に関わりなく群れをなして見物したといいます。

信長のもたらした平和な光景です。現代の歴史学界では、信長は「天皇にとって代わろうとしていた」という説もおおっぴらに唱えられているそうですが、こういう史実を素直に読めば、それが妄想だと素人でも分かります。

(私利私欲に走った将軍)
信長の義昭への「諫言」は、これ以外にもありました。
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第2条 諸国へ御内書(将軍の私用文書)をお出しになり、馬そのほかを献上させていることは、外聞も良くないので、再考された方がよいと思います。・・・どこにでも適当な馬がいることをお聞きになったら、信長が奔走して献上させますと、前々から申し上げておりましたのに、・・・

第14条 昨年夏、幕府に備蓄されている米を出庫し、売却して金銀に換えられたそうです。将軍が商売をするなど、昔から今に至るまで聞いたことがありません。

第17条 将軍が何ごとにつけても欲深なので、道理も外聞も構わないのだと、世間では言っています。ですから、思慮のない農民さえもが将軍を悪御所と呼びならわしているそうです。
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義昭は将軍としての自覚も志もまるでなく、私利私欲のために地位を利用しただけの人物のようです。

結局、信長が武田信玄、浅井・朝倉などと戦っている最中に、義昭は京都を脱して、石山(滋賀県大津市)に砦を築きました。信長は義昭の返事次第では和睦をしても良いと交渉しましたが、聞き入れられなかったので攻撃したところ、義昭は守り切れないと諦め、和議に応じました。

しかし、義昭はその数ヶ月後に、またもや信長に敵対の兵を挙げ、今度もたちまち信長の兵に敗れました。信長は、度重なる背信に切腹させても良いところを命だけは助けて、幼嫡子を人質にとって河内の国に追放しました。あれほど信長に助けられながら、格別の不足もないのに敵対して、この無様に至ったことを、人々は嘲笑しました。

この経緯を見る限り、信長としては足利幕府を滅ぼそうなどという野心はなかった事が判ります。義昭が信長と協力して、将軍としての責務を真面目に果たしていれば、室町幕府最後の将軍になるという悲惨な末路を辿ることもなかったでしょう。

(「出家として一方の贔屓はできないというなら中立を守ってほしい」)
「仏教の諸宗派をおさえようとしました」という学び舎の一文については、冒頭の一節で石山本願寺について述べましたが、他の例も見てみましょう。

元亀2(1571)年には信長は比叡山の焼き討ちをしました。比叡山は中世を通じて天台宗の本山として大きな勢力を誇ってきており、その焼き討ちは中世的権威の否定として、いかにも「革命児」信長らしい行為と見なされてきました。

しかし、その頃、比叡山は朝倉氏や浅井氏に味方して、信長に武力で反抗していました。信長は焼き討ちの前年、比叡山に対して、こう通告していました。

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信長に味方すれば分国中の山門領をもとの通り返還しよう。また出家として一方の贔屓(ひいき)はできないというなら中立を守ってほしい、どちらをも背くなら根本中堂以下を焼き払う。
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比叡山衆徒は回答もせず、朝倉・浅井方についたのです。僧侶としての道を踏み外してまで敵方につくということは戦国大名と同じ所業であり、それなら討つまで、と信長は警告し、そしてその通り実行したのです。宗教勢力だから弾圧したのではありません。

「一向一揆との戦争では,老若男女を皆殺しにするなど,多数の犠牲者を出しました」と学び舎は述べていますが、神田教授は「こうした凄惨な皆殺し作戦は、・・・戦国大名同士の戦闘においても、ある局面では行われる軍事作戦と考えられる」と指摘しています。

これは秀吉が但馬の赤松政範の上月城を攻めた時に、「敵方への見せしめのために」「子供は串刺しにし、女性は磔(はりつけ)にして」曝(さら)したことに関する指摘です。

『信長公記』によれば、長島の一向衆徒は近隣諸国の凶徒や犯罪人も抱え込み、領主の支配地まで乗っ取る無法者集団だった、と記述されています。その無法ぶりを信長は長らく我慢していましたが、ついに成敗したのです。「信心深い老若男女を一向宗徒だから皆殺しにした」と捉えては、史実とは離れてしまいます。

(信長は「天下布武」で全国統一を目指したのか)
「天下布武という武力による全国統一の意志」という帝国書院の表現も、どうやら後世の読み違いのようです。神田教授によれば、信長が「天下布武」を朱印を使い始めた永禄10(1567)年には尾張・美濃の二国の大名に過ぎず、また同盟者であった越後の上杉への書状にも、この朱印を使っています。

当時は、上杉以外にも、越前の朝倉、関東の北条、甲斐・信濃の武田、中国の毛利らの大大名が群雄割拠しており、彼らに対して「天下統一」の野望を公言することは、あまりに「不用意」と教授は指摘しています。

神田教授は、当時の「天下」の用法を調べて、それが五畿内、すなわち大和(奈良)、山城(京都)、摂津(大阪北西部と兵庫東部)、河内(大阪南東部)、和泉(大阪南部)という当時の「首都圏」を指しており、「布武」とは、将軍による秩序回復の事であった、と指摘しています。そして、遠地の大大名とは友好的に共存する体制を考えていたとします。

こう考えれば、これから京都を目指そうという段階で、「天下布武」の朱印を使い始め、上杉への書状にもそれを使うことの意図がよく分かります。大大名たちの中にも、京都の幕府がしっかりしないから無用な戦乱が続いているので、早く幕府政治を再確立してくれたらと、この「天下布武」を受け入れた可能性もあるでしょう。

確かに、天正4(1576)年には毛利と織田の間で戦いが生じましたが、これは領地争いが発端で、信長から和睦を打診しています。信長が全国統一のために毛利に進攻したわけではありません。

信長は「天下布武」と同様に、「天下静謐(せいひつ)」という言葉を使っています。「武」は「戈(ほこ)を止める」、すなわち戦いをやめて平和にする、という説があります。信長が目指したのも「天下静謐」だったようです。

信長は国内に静謐をもたらすだけでなく、スペインやポルトガルの侵略意図を見破って、楽市楽座と銃砲・大砲・軍艦による「富国強兵」策によって、国家の危機を回避しました。この時期に信長がいた事は、我が国にとって天祐そのものでした。

(国内の安寧への皇室の祈りを実現した信長)
織田氏はもともと越前国織田荘の神官を出自としていました。皇室や神道を敬うのも、こうした家柄でしょう。父親の信秀は朝廷に内裏修理料、伊勢の神宮の外宮遷宮のため材木や銭を献上しています。信長が内裏の修理を大々的に行ったのも、この姿勢を受け継いだものでしょう。

信長は約120年も中断していた内宮の遷宮を再興させました。その時のやりとりから信長の人柄がよく窺えます。

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信長は、「一昨年、石清水八幡宮を修築した時、初めは三百貫必要だろうということであったが、実際には千貫以上かかってしまったので、大神宮は千貫ではとてもできないだろう。庶民に迷惑をかけさせてはいけない」と言って、とりあえず三千貫を寄進するよう命じ、そのほかは必要に応じて寄進ということにした。
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信長の志は、国内の安寧を願われる皇室の祈りを実現しようとした処にあったようです。だからこそ、明治初年、明治天皇が楠木正成と信長、秀吉を国家として祀るよう直々のご沙汰をされたのでしょう。こういうあからさまな史実を見過ごして、信長を「革命児」扱いするのは、まさにフェイク・ヒストリー(偽造の歴史)と言うべきです。
 (文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

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2 コメント

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こんにちは! (小平次)
2024-07-26 09:37:54
こんにちは!

大河ドラマはじめ、教科書も含め、信長像は悪い形でステレオタイプ化されているとずっと思っていましたのでこのような記事を拝読し、とてもすっきりといたしました。

応仁の乱からの時代を見て行くと、信長は天皇と皇室の尊厳を護ろうとしていたというのはとても頷けますし、それが戦乱の世になった理由の一つであるとも思っていました。

『ワシが天下人になるのじゃあああ!』的なマンガのような理由であれだけの戦が起きるはずもないと感じます。

さらに比叡山については、当時のキリスト教と軍事が結びついている世界情勢から、宗教徒が武器を持つ危険性を信長は十分に理解をしていたのではないかと思います。

良い記事をありがとうございました
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こんにちは (このゆびとまれ!です)
2024-07-26 19:49:17
小平次さんへ

ご意見ありがとうございました。

「大河ドラマはじめ、教科書も含め、信長像は悪い形でステレオタイプ化されているとずっと思っていました」とのご意見に私も同感です。
多くの歴史資料がありながら、片寄った信長像が流布されるという現状を改善したいですね。

これからも切れ味鋭い小平治さんのご意見をお待ちしております。
ありがとうございました。
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