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皇室と国民のプロジェクトX~ 正倉院宝物復元(後編)

2021年09月17日 | 日本
皇室は今も昔も庶民たちの精神の生み出した文化伝統の保護者である。

(「私たちも精一杯いい糸を作ろう」)
平成15(2003)年6月4日、皇居から群馬県の碓氷(うすい)にある製糸工場に、約4万2千粒もの小石丸の繭が届けられた。日本で4カ所しか残っていない製糸工場の一つである。

通常の製糸では、繭を高温で乾燥させるが、それでは小石丸の糸が持っている光沢、しなやかさが失われてしまう。そこで生きた蛹(さなぎ)の入った「生繭」の状態で製糸することになった。

しかし、大量の繭を6月の暑さの中を群馬県まで運んだら、蒸れて中の蛹が死んだり、あるいは蛹が押しつぶされて、繭が汚れてしまう。そこで繭が圧迫されないように特別の運搬箱を作り、保冷車で運んだ。

繭から糸を取り出すのは、3人のベテラン女性の手作業である。小石丸の糸は、髪の毛の50分の一ほどの細さで切れやすい。一般繭では一人が一日で120錘(つむ)の糸が引けるが、小石丸の場合は1錘を引くのがやっとだった。この道28年という稲川房子さんはこう語った。

御養蚕所では、通常の何十倍もの手をかけて蚕を育てていらっしゃるとお聞きしています。ですから、私たちも精一杯いい糸を作ろうと心がけてきました。小石丸は糸が細いぶんキメが細やかでしなやか、ですから扱いには苦労しますが、できあがった美しい糸を見ると、その苦労もどこ
かに吹き飛んでしまうのです。

ちなみに、群馬県は古代から機織りの盛んな地域で、古くは2、3世紀の紡錘車(糸を紡ぐ時に使う弾(はず)み車)が出土するという。稲川さんの苦労は、2千年ほどの間、先人達が経験してきた苦労であったろう。

(「皇居の東御苑に日本茜が自生している」)
こうして作られた純白の生糸を、次に緑、白茶、黄、赤、紫、赤茶などの色に染める。以前行われた分析調査で、赤は日本茜(あかね)という天然の植物を染料に使っていることが分かっていた。

日本茜は外国産種に比べて根が細いため、糸を染めるにはかなりの量が必要だが、現在、日本では大きな群生はない。外国産種の茜なら手に入りやすいのだが、あくまで宝物に忠実にありたかった。川島織物や正倉院事務所の庭では以前から栽培していたが、染織品を復元するのにはとても足りない。

米田・元所長が両陛下に拝謁する機会があった時に「実は日本茜がなかなか手に入りません」とつい申し上げた。すると、すぐに侍従職を通じて「皇居の東御苑に日本茜が自生している」という連絡があった。

しかし、その量も雑草に混じってポツポツと生えている程度でとても足りない。そこで天皇の御発案で、日本茜の株を集め、皇居内で3年ほどかけて、栽培することになった。平成15年11月に収穫された日本茜の根、1キログラムが一週間の陰干しの後に、正倉院事務所に届けられた。

川島織物では、この日本茜の根を三度ほど煮出して、きれいな赤色の煮出し汁を作り、これに生糸を染めては乾かすという作業を十数回繰り返す。汁の温度を徐々に上げていきながら、見本糸と色合いを比べつつ近づけていく。

こうして小石丸の純白の生糸は、気品ある古代の色に染め上げられた。

(織るスピードは一日8時間かけてせいぜい10センチ)
最後の工程が織りである。復元する「紫地(むらさきじ)鳳形(ほうおうがた)錦御軾(にしきのおんしょく)」の錦の織りが始まったのは、平成15年12月であった。48年間織り一筋の白井正久さんが織機に向かう。3800本の経(たて)糸に緯(よこ)糸を通していく。

普通、経糸には多少なりとも撚りがかかっているものです。ところが、正倉院の染織品の場合、糸に撚りがまったくかかっていないのと、糸の断面が扁平なため、杼(ひ:緯糸を巻いた管を装着して、経糸の間に緯糸を通すために両端の尖った舟形の道具)を通したり、綜絖(そうこう:経糸を一本づつ上下に動かす道具)が上下する際の摩擦で、経糸がすぐに毛羽立ってしまうんです。

そしてそれは毛ダマになり、放っておくとそこからブツッと切れる。経糸というのはピンと張っているので、切れると糸がはねてどこかに行ってしまいます。ですから、毛ダマを見つけたら糸が切れる前にそれを取って、糸を継いでおかなければならない。

単純な作業ですが、毛ダマがすぐにできるので手間がかかり、織るスピードは一日8時間かけてせいぜい10センチぐらいでした。]

こういう苦労を4ヶ月ほどして、平成16年3月、8メートル16センチの織物が見事に仕上がった。糸に撚りがかかっていないので、ふっくらとした仕上がりである。

(庶民の作った宝物)
米田・元所長は言う。
「復元模造を通じて、奈良時代の文化や技術は非常に高度なものだということがわかりましたが、と同時に、庶民の生活がわずかながら理解できた気がします」

正倉院の宝物は「皇室ゆかりのものだから貴重である」というだけではありません。たとえば鏡一つ、箱一つにしても、それを誰が作ったのかといえば庶民です。つまり、正倉院宝物の中には、国外から伝わったものもありますが、国産のものも少なくありません。そのような国産のものを見ると、わが国の8世紀の社会そのもの、8世紀に生きた人々の精神そのものといえるのではないかと思うのです。

川島織物の復元チームの一員、森克己さんは、こう語る。
「正倉院宝物が1200年、1300年の時間を経ているように、われわれの復元模造品も1200年後には宝物になっている。この10年間、われわれを支えていたのは、この思いだったように思います」

8世紀日本の宝物を、当時の材料と技術をそのままに復元した21世紀日本の庶民達。皇室は今も昔もそのような庶民たちの精神の生み出した文化伝統の保護者なのである。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

---owari---
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