信長は部下を次のように分けている。
一 言わなくても分かる部下
二 言えば分かる部下
三 いくら言っても分からない部下
秀吉は「一」だった。余計な説明はいらない。
「分かりました」
とおでこをピシャリとたたくと、信長が意図した通り活躍する。今までの戦歴を見ても、その実績はすべて「言わなくても分かる部下」として機能してきた。
これに次ぐのが明智光秀や細川藤孝だ。彼らはやはり初めから「天下を視野に収める」という生き方を続けてきた。それぞれ浪人生活は長いが、その流浪生活も肥料になったのだろう。情報通だ。しかもその情報を一つの経路からのみ求めない。広く天下から情報を得る。そのため、
「今がどういう世の中なのか」
ということは、光秀や藤孝に聞けばすぐに分かる。
尾張一国からのし上がり、美濃・近江と団子をひとつずつ串に刺してきた信長にすれば、この二人の感覚や意見はしばしば目からウロコが落ちるほど新鮮であった。
美濃を制圧し「天下布武」を宣言した時の信長は、「周の武王を目指す」気概に燃えていた。だが、その気概は単なる志にすぎず、それを実行する手段を持っていたわけではない。京都に入って初めてそれに気がついた。
(これは容易なことではない)
信長は深い峡谷の両側にある崖に両足を開いて立っていた。しかもその両足は、長い竹馬に乗っている。峡谷は、激流でアワを吹いて信長が落下するのを待っている。天下布武を目標に、自分なりに成功の道を歩いてきたつもりだが、振り返ってみれば、相当危険な場所に身を置いてしまったことを改めて知った。
足元を見下ろせば、その光景は異様であった。信長に心から帰服するような連中は一人もいない。むしろ疑惑と憎悪の光を目に宿し、
「いつ、信長を倒してやるか」
と虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。その連中をひそかに、旧権威によって操っているのが、皮肉にも自らが擁立した将軍足利義昭であった。
信長が改めて「部下の用い方」を再考したのも、一言で言えば、
(自分が置かれている状況をどのように理解し、どのように自分のやることに協力してくれるか)
という基準で部下を評価し始めたということである。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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