放浪日記

刮目せよ、我等が愚行を。

東京から京都へ

2014年06月18日 | 京都編集邁進道
今年はいろいろなことがあるんじゃないか、と何となく感じてはいたが、
この上半期、ここまで僕の人生が動くとは想像もしていなかった。
バタバタと実生活のめまぐるしさに、ついついブログの更新が後手後手になってしまった。
ここらで何となくまとめておこうと思う。


■年末年始 上海&蘇州旅行
僕の嫁さんは仕事の関係上、まとまった休みが取れるのは盆暮れ正月くらい。
一昨年は新婚旅行にネパールに行き、年末年始は夫婦で海外旅行というのを定番化させたい狙いもあり、予算を夫婦で10万円(交通費のみ)と決めて、どこか行けるところを探したら、探し始めた時期が遅かったこともあり、上海くらいしか残っていなかった。
テレビでは連日PM2.5について報道されていたが、数日行くくらいなら死にはしないだろうと嫁さんを説得して旅立った。
「蘇州夜曲」という曲を知っていた嫁さんが、中国に行くなら蘇州に寄ってみたいと初めて旅先のリクエストをしてきたので、無条件で採用し、行ってきた。庭園が有名なのだが、冬場は緑も少なく、比較的閑散としていた。
蘇州名物と言えば、やはり蘇州麺。朝食に同得興という有名な店に行った。何となく頼んだ麺の値段が20元以上もして辟易したが、とんでもなく美味しかった。今まで中国本土で食べてきた麺のなかでもベスト3に入る美味しさだった。
ちなみに、あとのふたつは、新疆ウイグル自治区で食べられているラグメン、甘粛省の蘭州が有名な牛肉麺。
同得興には蘇州にいる間は毎日通ってしまった。
もうひとつ、僕がやりたかったのは、上海のオールドホテルに宿泊すること。19歳の時の初めての旅で泊まった上海の浦江飯店。上海で歴史あるホテルのひとつで当時はドミトリーがあったため泊まることができたが、今は高級路線に変更し、バックパッカーの姿は見なくなった。ここで年越しをした。歩けばギシギシときしむ建設当時から変わっていないだろう木張りの廊下を歩き、暖炉がある部屋で当時の隆盛を懐かしむ予定が、テレビでNHKが映ることがわかり紅白歌合戦を観て、日本にいるのと変わらない年越しになってしまった。
3、4年ぶりの上海で、PM2.5は特に問題なく何となく煙たいかなくらいだった代わりに、物価上昇が身にしみた。きちんとした旅行をしようと思うと、日本より高くつくと思われる。


■東京を離れることになった理由
僕が東京で暮らすことになった一番大きな理由は、仕事がそこにあったということもあるが、何より一度は日本の中心と呼ばれる街を見てみたかったということに尽きると思う。完全に2年半の旅の延長のような感覚で働き始めたわけだ。
仕事があって、編集者として飯が食えれば、それこそもう何でもいいと思っていたが、
職場でいろいろな業務に取り組んでいるうちに、イベントの制作物担当から、女性誌の編集長、編集室という部署のリーダー、役職までいろいろなことをすることになった。
自分の年齢で編集長や中間管理職を任されるのもいい経験だと思ったし、何より、雑誌や書籍など紙媒体のさまざまなジャンルの制作に携われたのが、僕自身とてもやりがいを感じていた。
ところが、会社の経営が傾き始める。管理職の末席にいた僕もその責任の一端は負わねばならないと思い、改善に向けてさまざまなことに手をつけ、上司や経営者にも正しいと思うことを正直に話してきた。しかし、そのうちにどんどん上からの風当たりが強くなってきて、普通であればそこで辞めてしまうのだろうけれど、天邪鬼的な性格の僕は、むしろ嬉々として会社と闘いを挑み続けた。いい上司、いい同僚、いい部下に恵まれていたため、そんな馬鹿げたこともできていたのだと思う。
そして今年の3月、会社は最終カードをきった。僕の所属している部署を解体することを決めたのだ。
事前の相談も何もなく、いきなりの辞令。部下も驚いていたが、一番驚いたのは役職を務めていたが何も相談されなかった上司と僕である。
翌日より僕は一介の平社員に戻り、新しい僕の上司は営業部の役職者になった。部下も全員営業部のそれぞれのチームに振り分けられ、僕が数年かけて作ってきた編集部隊は一夜にして拝塵に帰した。
これまでは部下のために動いてきたこともあったが、平社員であれば自分のことだけ考え、業務に集中すればいい、部下のことを考えなくてよくなったという気持ちになった自分は、もうこの会社にいる必要はなくなったと考え、退職を決めた。

僕がもし独身であったなら、何の迷いもなく、しばらくの間は旅に出ていたんだと思う。
けれど家族もいる状況では、アラフォーの無職はキツい。辞めようと思うと相談したら嫁さんが
やたら優しかったのも、このままじゃいけないとプレッシャーになり転職活動を始めた。


■そして京都へ
何となく転職活動を始めようかなと思っていたが、僕も嫁さんも地方出身で、無理に東京にいることはないのではないかと考え始めていた。もしできれば関西に戻りたい、けれど関西の出版業界の現状を聞くに、編集者として関西で仕事を見つけることは、年齢的にもかなり難しいことも知っていた。しかし、自分のことだけを考えると、やはり編集者として今後も飯を食っていきたいという希望はあった。編集者としての職を見つけるならば東京に居続ける、関西に移住するならまったく新しい仕事を見つけないといけない……と考えていた。
そんな矢先、大阪で働いていた頃の先輩から突然連絡があった。関西に戻ってくる気はないか?という内容だった。
詳しく話を聞くと、先輩が起こした京都の編集プロダクションで人を募集しているという。まったくの新人ではなく、ある程度経験者がいいということで、何となく僕のことを思い出してくれ、連絡をくれたということだった。
嫁さんと関西に戻れればいいね、なんて安ワインを飲みながら話していた日から3日後のことだった。
次の週末に京都に行き、具体的な話をうかがい、採用試験を受け、3月末ごろにはざっくりと内定のようなものをいただくことができた。
漫画のような、あまりにもできすぎたシナリオのようで、何かむずがゆい思いだった。
これまで関西にいたものの、バイト先も仕事も完全に大阪を向いていた。京都はたまに遊びに行く程度だった。ところが今回、初めて京都という街にどっぷりと浸かることになった。
嫁さんの仕事の関係上、大阪府民にはなってしまったが、毎朝それほど混雑しない列車で京都に通っている。
職場の窓からは鴨川、八坂の塔、東山の山並みなどが見え、外国人観光客がビルの下の通りを闊歩しているのを見ると、僕は本当に京都に来たんだと感じている。
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更新しなさすぎ

2014年06月11日 | 京都編集邁進道
更新しなさすぎた…。

60日もブログをほったらかしてしまってました。

生きてます。生きてますとも…。
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