④ 「沖縄戦」の描き方のちがい
「琉球・沖縄の描き方」はいよいよ「現代」に入る。育鵬社の時代区分によれば、現代=20世紀後半~現在。
この沖縄戦はちょうど近代と現代の分かれ目にあたる。現代の歴史事象なので、現在の日本社会にも国際社会にもその影響が色濃く残っている。したがって、必要な基礎知識はかなり多くなる。
なお、各社比較において問題になると思われる部分は、赤字化している。
ⅰ 基礎知識 <ウィキペディア:沖縄戦>より
・「沖縄戦(おきなわせん、沖縄の戦い)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。・・・ 太平洋戦争において、日米の最大規模で最後の戦闘となった。」
・「概要
・・・アメリカ軍の目的は日本本土攻略のためのマリアナの基地と共同体制をとれる対日本本土爆撃のための航空基地確保と・日本本土進攻の補給基地の確保であった。
日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」(持久戦)を意図するという不統一な状況であった。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。
1945年5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。
陸海空において日米の大兵力が投入された。
アメリカ軍側の最高指揮官であった第10軍司令官バックナー中将が日本陸軍の攻撃で戦死するなど、フィリピンの戦いや硫黄島の戦いと並び太平洋戦域のみならず第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾・砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、「鉄の暴風(英: Typhoon of Steel)」などと表現される。残された不発弾は、70年を経た2015年でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続く。1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件見つかっている。
沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。
その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。
アメリカ軍側の死者・行方不明者は14,006人、イギリス軍の死者が82人で、アメリカ軍の負傷者72,012人であった。」
~日米軍の戦闘についての記事はとても多いので、ここではほんの一部を紹介するだけにとどめる。ぜひウィキペディアで読んでください。~
八原博通第32軍高級参謀の「寝技戦法」について
八原参謀の作戦計画は、強固な築城と野戦重砲兵の支援砲撃を前提として挑んだ『寝技戦法』と自ら称した洞窟陣地戦法であった。
・・・寝技戦法の中心は築城であり、アメリカ軍の艦砲射撃や1トン爆弾などの強烈なパンチがあっても、それを跳ね返す堅固な築城があれば、敵の物量を無価値にできると考え、戦車も対戦車築城を徹底させれば恐れるに足らずとも考えた。八原参謀は「不可能を可能にする唯一の道は強固な築城であり、洞窟戦法である。」との『寝技戦法』の基本方針を記した「必勝の途」というパンフレットを作り全軍に布告し、全将兵に徹底した築城を命じた。
対するアメリカ軍は、猛烈な砲撃で日本軍の反撃を封殺し、日本軍陣地の頂上に這い上がった歩兵が、日本軍陣地に黄燐弾を投げ込み、爆雷を投下し、ガソリンを流し込んで皆殺しにする『トーチ&バーナー戦術』で日本軍陣地を一つ一つ壊滅させていった。
この対抗策として日本軍は、頂上を占拠された日本軍陣地の頂上に、友軍陣地の機関銃、重擲弾筒、野砲で集中攻撃して、逃げ場のないアメリカ歩兵を殲滅する『まな板戦法』で応戦した。
アメリカ軍は負傷した兵士が何度も前線に駆り出され、ついに精神錯乱を来す者も多く現れた。アメリカ軍の戦死者は、負傷から24時間以内に死亡したものと定義されているため、事実上の戦死者数は、戦傷者数にも多く含まれている。
・「事前攻撃
アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母16隻を中心とした強力な機動部隊の第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。
第58任務部隊は1945年3月14日にウルシー環礁を出撃、3月18日から九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。
これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。
4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。
アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。~後略~
・「沖縄本島へのアメリカ軍の上陸
・・・4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。
海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。
さらに海軍は、菊水作戦と連動させる形で戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊も出撃させた。
特攻機などの攻撃により連合軍艦艇40隻が撃沈破されるという大損害を被ったが、日本軍機も200機以上が失われ、「大和」も空襲で撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。・・・
・「住民犠牲について
・なお、アメリカ軍上陸2ヶ月前の1945年1月末、第32軍司令部では戒厳令の適用により行政権・司法権を軍司令官が掌握することを検討したが、着任した島田叡県知事との会議の結果、県と軍の協力体制が実現できたとして戒厳布告を見送った。同じく陸軍中央でも1944年6月頃から戒厳令の適用を研究していたが、結論が出ずに終わっている。
戒厳布告が見送られたことで軍が民政に対する責任を負わず、無秩序な徴用やスパイ容疑での住民処刑につながったという説もある。
・本島南部(島尻地域)へは、戦線の南下に従い追い詰められるようにして、最終的に推計10万人以上もの避難民が集まることになった。
南部地域でも、第32軍が首里司令部の放棄で撤退した喜屋武半島方面では戦闘に巻き込まれて多くの避難民が犠牲となった一方で、日本軍の流入がなくほとんど戦闘が行われずに「事実上の非戦闘地域」となった知念半島方面では多くの避難民が生き延びている。
・なお、予想外の日本軍の南部撤退に、アメリカ軍では6月初旬の司令部作戦会議で避難住民保護が検討されたことが明らかになっている。バックナー司令官の側近として司令官の指示内容を記録していたジェームス・バーンズ曹長の陣中日誌には、「一時休戦を申し入れ(南部にいる)住民を保護すべきではないか」などの意見が出たと記されている。
しかし、結局そうした施策はなされないまま、アメリカ軍は掃討作戦を開始した。」
・「集団自決
サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人)などが知られ、集団自決者の総数は1,000人以上とする研究者もいる。
これらの集団自決を軍の命令によるものとする主張がある一方で、「集団自決は沖縄住民による戦傷病者戦没者遺族等援護法の給付を目的とした嘘である」との証言も一部に存在する。
・「集団投降
日本軍がいなかった避難壕では、集団投降した例も多い。
・「日本軍による住民殺害
アメリカ軍の攻撃及び住民による自決以外に、日本軍による直接的な住民殺害があった。
具体的な事例として、久米島守備隊住民虐殺事件(22人死亡)、渡野喜屋事件(35人死亡・15人負傷)、名護市照屋忠英学校長殺害などが挙げられる。日本軍により殺害された住民の総数は明らかではないが、安仁屋政昭は1,000人と推定する見解を採り、元沖縄県知事(元社民党参議院議員)の大田昌秀は、スパイ容疑での直接殺害だけで数百人から1,000人以上と推定している。援護法との関係で戦闘参加者と認定された民間人のうち、14人は日本軍による射殺が理由となっているが、大田はこれも実数は数倍に上ると見ている。
住民殺害の動機は、スパイ容疑での処刑が中心で、そのほか物資や壕を巡る日本兵と住民の争いで殺害された事例や、地下壕の探知を避けるために泣き声の止まない子供を殺害した事例などもある。
このような事態に至った原因について、極限状態で不可避というだけの問題ではないとの見方もある。
一因として、日本兵が住民に対し、愛国心や武を尊ぶ精神に欠けると見て不信感を抱いていたことや、軍民一体化と防諜のため、沖縄語の使用が禁止され、その使用者を処分する方針であったこともある。また、スパイ容疑での処刑については、アメリカ軍収容下に入った住民が食糧集めに駆り出されているのを、アメリカ兵を日本兵の隠れ家へ誘導しているものと戦場の混乱の中で誤解したことが一因ではないかと推定されている。
こういった事例が強調されていることに対し、沖縄戦に参加した日本軍兵士からの反論もある。嘉数の戦いに参加した兵士の一人(独立歩兵第13大隊所属)は、「戦後、日本軍は沖縄県民に犠牲を強いた悪い兵隊だと宣伝された。しかし私の知るほとんどの下級兵士は自分の命など眼中になく、洞窟に潜んで助けを求める県民のため身を挺して戦った。」と述べている。
・「連合軍による住民殺害
既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1,000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。
沖縄本島に上陸したアメリカ軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。
前田丘陵四日間の戦闘は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここはアメリカ軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。
南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。
アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。
・「連合軍兵士による性的暴行などの虐待
収容所およびアメリカ軍の占領地域では、アメリカ軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。
無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致・暴行・強姦も多数証言されている。
戦争の終結後も暴行は続き、たとえば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる。
アメリカ軍兵士により強姦された女性数を10,000人と推定する見解もある。
ニューヨーク・タイムズの記事によれば、強姦はあまりに多発したため、65歳以上(2000年時点)の沖縄の住民は誰しもこの連合軍による強姦について知っているか、あるいは聞いたことがあるという。
沖縄戦時中にアメリカ兵が沖縄の住民女性を強姦し、軍法会議で有罪となりながら、戦後アメリカ海軍省で判決が破棄されていた。
軍法会議で禁錮9年、不名誉除隊の判決が出たが、海軍法務総監が10月に有罪判決を破棄するよう勧告。11月に海軍長官が判決を破棄し、被告を釈放して軍務に復帰させるよう命じた。勧告文では、レイプ犯罪を「女性が能力の限りを尽くして抵抗したとみられるものでなければならない」と定義。「すごくおびえて叫ぶことができなかった」と証言した被害女性に対し、最大限の抵抗をしなかった、叫び声を上げなかった-などを理由に被告を無罪とした。」
~次回、実物コピー~
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