~今回は、教科書比較から脱線させてもらい、「歴史資料」の理解・解釈の難しさについて考えます~ ※不思議ですが、「制限文字数を超えた」と表示が出て投稿できないので3回に分けます。
■昨日掲載の「チビチリガマの集団自決」のなかの、「従軍看護婦であった25歳の女性が、中国戦線で中国人住民がいかにむごく殺されたかを語り、死のうと言った。」という表現の解釈について
誰が虐殺(=「むごく殺された」)したか書いてないが、普通に読むと、《中国人住民が(日本軍によって)虐殺された》と読み取る人が多いのではないかと思います(米国と中国によって、世界中にそのような言説が流布宣伝されているので…)。
しかし、当時の元従軍看護婦さんが、敵兵(米軍)と味方兵(日本軍)を、《どちらも住民を虐殺する同類》と思っていたのだろうか?、という疑問がわいてきたので、調べてみることにしました。
1 本当にこのような言葉を言った、と仮定して調べたみたが…
まず、ウィキペディア記事のもとになったのかもしれない、と思われる資料を「読谷村史」で調べた。
残念ながら、「元従軍看護婦」さん本人の手記は「読谷村史」には載っていない。以下の資料から推理すると、ガマの中で、「毒薬」を注射して自殺された可能性がとても高い。
そこで、掲載されている4つの記事 (本人の手記か、聞き取り記事かは不明) を調べる。
・最初に、この(ガマで亡くなられた)元従軍看護婦さんと「親しかった」と書いておられる玉城さんの「思い出話」
※筆者(話者?)である玉城さんは、ガマにいっしょにいたのではない。
⑴ <読谷村史:集団自決:チビチリガマでの「集団自決」:「※※さんの思い出」玉城※※(字儀間)2017.3.19>より
・「昭和十九年当時、私は大山医院で住み込みの看護婦をしていて、後にチビチリガマで「自決」された知花※※さんとは、とても親しくしていました。みんなは「※※ちゃん」とか「※※さん」とか呼んでいました。彼女は「満州」で従軍看護婦をしていたそうですが、・・・」
・「とても有能な人で、看護婦の免許のほかに産婆の免許を持ち、話すことも知的でいつも希望に燃えていました。国のためにという熱意にあふれて力強く話す姿は、今でいうと政治家の土井たか子に似ていました。」
・「「※※ちゃん頑張るんだよ、大和魂で負けたらいかんよ。最後の最後まで頑張らんといかんよ。最後はどうなるか分からんし、私もどうなっていくのかわからんけど、もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」彼女はそう言うと、「満州」で「支那事変」帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。」
・「※※さんは戦後、チビチリガマの「自決」のことが明るみに出てから、いろいろ思われたようですが、私は彼女が悪いんじゃない、すべて日本の教育が間違っていたんだと思います。彼女は日本の教育をまともに受けただけなんです。日本の教育が、彼女を「大和魂の女性」にしたんだと思います。また従軍看護婦時代に、「支那事変」帰りの兵隊にいろいろ聞いたことも、後の行動に大きな影響を与えたのだと思います。」
<松永注:「※※さんは戦後・・・いろいろ思われた」という文は、※※さんが「思われた(尊敬表現)」のかと誤読しやすい文だが、全体の文脈から推理すると、「生き残った読谷村(沖縄)の人たちから…いろいろ思われた(受け身表現)」と読みとれる。>
① 玉城さんはガマの中にいなかったのだから、絶対に証言にはならない。
② 自決した知花さんから、生前に聞いた、と言っている内容は、
・知花さんが「「支那事変」帰りの兵隊に聞いた」話・・・つまり、伝聞のそのまた伝聞の話。学問的な、客観的資料としての信頼性はないだろう。
・そのうえ、《日本兵が住民を虐殺した、という話》ではなく、「戦場での女の哀れ話」。
※なぜ「ガマの生き残り者の手記」でなく、「自決者の知人の思い出話」が、(体験者の証言記事より前に)この冒頭部分にに載せてあるのだろうか?
実は、どうやら、これが「中国人住民が…」の原典か?と推理できる、非力な私が見つけた唯一の資料だが…? (ウィキペディア記事の検証をする力は私にはありません。)
~次回につづく ~
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