うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

「殺人者はいかに誕生したか」を読んで・・・

2024年01月23日 12時27分17秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
やっと20日の大寒が過ぎて、いくらか寒さが和らぐ。2月4日は立春、草木の芽や花も綻ぶ準備をしているだろう。
          
『殺人者はいかに誕生したか』長谷川博一著 新潮文庫 を読んだ。副題に 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く とある。ここでは、文庫本ならではの良さでもあるが江川紹子さんの解説がつく。そこで、元家裁判事の次のコメントを付記している。「なぜ防げなかったを検証し、教訓を得るためには、事実経過をすべて公開するべきだ。それは社会復帰後の本人の更生のしやすさにもつながる」。
 どうしても、現在の裁判制度では事件の真実を追求できない現実がある。そこに至った加害者・犯罪人の社会背景、特に複雑な家庭環境での成長過程や子育ての経緯を探そうとする。そこで、臨床心理士の資格を持った著者は、おどろおどろしい殺害事件の犯罪人に繰り返し拘置所を訪ねていく。かつてマスコミを騒がせた死刑囚や無期懲役刑の人たちに自ら望んで面会し対面するのだ。なんども手紙を出すなど手間暇をかけている。しかも本人の了解のもとに手記を入手し公開までしているのだ。
          
 わたしはここではあまり触れて来なかったが、個人的には、こういった事件物に対し小説的な展開に興味を示していて、多少なりとも詳しい。刑事事件の裁判に関しては戦争直後の事件物を探してみたり、酸鼻な極悪犯罪物の渉猟してきている。かつてはこの「十大凶悪事件」のうちの 〈光市母子殺害事件〉 について触れたことがあった。また、現在だとまだ全容が明らかになっていない昨年7月に起きた 札幌すすきのホテル殺人事件 とかがある。
 ほかの内容には 〈秋田連続児童殺害事件〉 について、畠山鈴香は精神鑑定では解離性同一性障害(多重人格)と診断されたのだが、わたしは事件当時のマスコミ報道を思い出し、東北の一寒村における生活・家庭環境でのその索漠とした成長過程には寒気と怖じ気を感じる。
 〈大阪自殺サイト連続殺人事件〉 は3人を殺害した事件で、わたしはこの事件の経過や構成に驚きを隠せなかった。前上博ははじめから死刑を望み、著者に対して進んで心理分析を依頼する。対面的には真面目で温厚な性格、話し方も丁寧で、犯した罪とのギャップの大きさは信じがたいものがある。また本人はIQ128で秀でた記憶力があり、「サヴァン症候群」とされる。精神鑑定上は自閉症スペクトラム(アスペルガー障害‘高機能自閉症')と言われる。
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わが家の蠟梅が咲いた。

2024年01月22日 14時54分44秒 | ガーデニング・庭づくり
わが家の蠟梅が咲いた、まさに早春の兆しそのもの。今年は花付きも良く庭一面にかぐわしい香りを漂わせている。
          
          
 これは、かれこれ2011年の東日本大震災の前年に 蠟梅 は 合歓 も種子を同時に入手したもの。わたしは、当時関係していた土木会社で仕事先の小合溜のある東京都水元公園の緑地で採実して、翌年にプランターに播種したがどちらも見事に発芽した。今、庭では合歓は2.5m、蠟梅は1.8m位か。蠟梅は数本成長していてその内わが庭に1本を残しほかは住宅地内の公園に補植した。
 振り返ると、あれから13年目になる。
          
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M先生のこと

2024年01月13日 15時18分02秒 | わたしの日常です。
今は寒の入りの日々だ。年々、わたしの出す年賀状は減ってきている。今年は結果的に50枚、欠礼は6枚あったか。確か、過去に出した年賀状が最盛期には75枚ぐらいだったはず。それにはその時代に会社へ勤務中ということもあった。
 今年は、12月26に投函したから配達日も上手く元日に届いただろう。
 わたしはこんな習慣が長年続いた。そこで、あらためて思うには世の人たちは儀礼オンリーであらかじめ印刷された賀状が多くてわたしのような手製のものが少ないことである。せめて手書きの添え書きがあればいいのになあと思う。当人の得手不得手や好悪の問題だろうが素っ気ないのだ。お互いの近況や交流をもとめているのに、だが・・・。
 昨年の事前の欠礼通知も近親者のご逝去であったが、その内にわたしの故郷の仲の良かった中学の同級生の伴侶の死があった。しかるに、逝去を知らずに年賀状を出した今回は次の死亡通知の返信が来た。一人は76歳、地元で町役場を早期退職し懸命に町内外に何百本もの桜を自ら無償で植え続けて来た尊敬すべき人であり、それに高校時代の恩師の死があった。
 M先生は86歳、年齢はわたしよりもちょうどひと回り上ということになる。地元の進学校を卒業し都内の法政大学に入り卒業してから漢文の高校教師になる。わたしの小さな高校は岩手県の南部で宮城県との県境の山峡にある。先生はどうやら岸内閣の ‘60年安保' の時に全学連の国会デモに参加したほど熱心だったらしい。やがて教師になり故郷に帰る。ここの組合は、当時全国に名だたる左翼めいた「岩教組」なのか。他の先生からはその活動の経歴のせいか、どこかで出世が遅れたとの話を聞いた。
 親交が始まったのはわたしが上京後、東京、上野駅近く中華料理店での高卒後の同窓会以来だろうか。M先生はメガネをかけた笑顔に愛嬌がある。風貌は太ってはいなくて背高で瘦せぎすで飄々としている。当時わたしは遅い結婚をしていて子供もおり生活再建に一生懸命である。大学紛争という世相ではあり学歴なんかという思いもあったが、二度も異なる大学に入り授業料が払えず二度も中退している。わたしの20代後半は生活費を稼ぐのに色々な職やバイト暮らしが続いた。そして造園の道につく。わたしはこのようにめちゃくちゃな行路を繰り返してきた当然の報いの成り行きで、今までの人生上の変転の心境を文字で整理することになり当時流布していたワープロで文書を作っていた。そこで、後年、その文書の出来栄えを読んでいただくために、千葉の落花生とともに先生へ手渡しした。わたしはその頃造園会社の設計室に勤めていて、「自分史」や、「緑の仕事」なる庭園からランドスケープの技術論・デザイン論などを仕事の合い間に人知れずまとめていたのだ。
 先生に最近あったのは一昨年のお盆だったかに自宅へ伺う。そしてその時が最後である。先生は震災前であるが、近年はわが高校を経て大船渡の高校へ行きその後は一関市内の短大で講義に行く。後で感じたことだがこの時期にはしきりにわたしに会いたがっていたらしい。意外なわたしの文系気味の発想やその表現や展開方法に興味を持ったらしい。どうも、そんなわたしの書いた作文に惹かれていたのか。先生は引退後は地元の郷土史仲間の講師役や研究にいそしむ。またしきりに柳田国男の「遠野物語」の民話収集で知られた 遠野 へ現地調査に度々いくのだ。そして、本の世界では江戸時代の民俗作家 菅江真澄 の紀行文の軌跡をたどった解釈読解を綴った大部な本を自費で出版している。【菅江真澄日記/口語訳稿 2002.3.3】
 わたしは、その内に帰郷時は線香を上げさせてもらうことにしている。
 以上、今は哀悼の意を含めここに記す。
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