以下の文章は、日本樹木医会千葉県支部の発足後30周年の記念誌に掲載されたものである。支部独自の年報は毎年が発刊されていたが今回は大幅な増ページで出されたもの。わたしは、この令和6年3月に南房総への一泊研修旅行の際に先輩樹木医から投稿を促されてまとめた。原稿用紙400字で1枚の予定が4枚のボリュウムになり、それを編集担当者に送ったのですが、少しの添削も含めて丸ごと認められたものです。発刊は8月であった。
このブログを多少とも見ている方々はわたしの人生上の遍歴をご承知かと思われますが、自らのことであるにも拘わらず、なかなかまとめるのに苦労した。結果的には概観的な技術的経歴の内容になっているが、具体的に実際の事実を追った裏付けのある内容である。この手の文章は得てして無機質になりがちであるが、わたしの独特な人生行路も背景にあり読んでみて面白がる人がいるかもしれない。
樹木医の資格取得と現在までの動きを振り返る。 20240320
わたしは一応、造園業界出身になるだろう。この世界で30歳直前の年齢上は遅いスタートであった。高卒後、東北から上京し大学の文系に入り種々の職業を経て世の中をウロチョロしている。しかし、結婚後、土いじりや植物好きなことを自覚、一念発起あらためて進むべき道は造園に決めた。地元のハローワークの紹介で見習いにて千葉市内の造園会社に入り3年と3か月在籍。
この時は通勤途上の不明な樹木、草花や雑草の茎、枝葉を押し葉にしてスクラップブックに集めていた。勿論、ノートもとる。わたしの関心の度合いは、植木だけではなく山林や果樹、畑の野菜から観葉植物に至るあらゆる植物である。なお庭のデザイン習得のために勤務時間後、2年近く、池坊流の生け花も習ったもの。そこでの業務は軽い営業にドラフターで設計図面を作り施工する、ハウスメーカー紹介の個人邸などの外構や庭園工事を担当した。
次に東京新聞の求人欄を見て都内品川区の小さな造園会社に就職した。2時間程度のかなりの遠距離通勤であったが、そこに19年と3か月の期間いたが、やがて会社が業務縮小で退社する。ここでは、主にマンション開発販売会社の大きい案件の造園工事を特命で扱ったり、ゼネコン発注工事が多かった。現場的にはゼネコン相手である。計画・設計の段階では建築設計事務所やゼネコン設計部署と打ち合せをおこなう。
樹木医の資格取得面をたどると、まず2級造園技能士、造園と土木の1級施工管理技士を取得。しかし、わたしの当初の目標は技術士や樹木医であり、何度か挑戦したものである。樹木医に合格したときは五者択一問題を別にして、小論文に林木の播種繁殖が出題されていた。
資格取得後は速やかに日本樹木医会に加入。積極的に4ブロックを越えた県内各地の研修(現地・座学)に参加する。樹木医としての方法論に調査診断、治療の実際を学ぶ。東南アジアの国々での海外研修は物珍しさのみではなく、植物分類や系統上参考になった。
また独自に、資格取得以前は移植に伴うイチョウ樹勢回復など2件ほど、取得直後は地元の要望に応じて郷里岩手県一関市内にて乳イチョウやカヤの5本の巨木を調査し現地説明会を開いた。
その中で、特に二度目の会社のある東京湾沿いの運河に囲まれた『天王州アイル計画』では、実質的にわたしの社内での役割は植栽の設計と施工を一体でおこなうことであった。そこで事前に候補予定の樹木の耐潮性を調べるために、類似のロケーションである大井競馬場内余白地で試験植栽を数年間実施した。同工事の竣工後、わたしは責任者として社員による直営の常駐維持管理業務を継続的に11年間担った。このことはわたしにとっては、結果的に樹木の植栽からの成長過程を経年的に春夏秋冬にわたり観察が出来たことによって、生きた知見を得ることになった。
またわたしは、当時業界的に慣習になっていた材料検査を踏まえて現地踏査等を繰り返す。その都度国内各地の自然植生や景観に目を凝らしていた。その会社を退社してしばらくは自営。
次いで九州の大手浄水器メーカーの新規事業人材の公募に応じて、一年間、屋上緑化計画導入に取り組む。その後、主にUR都市機構などの施工管理業務として造園職、土木職についていた。
以上を振り返ると、第25期の樹木医としての現在は独学に偏しているが、実は今でも、公私共に植物を植え、繁殖方法を探り一年ごとの成長過程を眺めることが好きである。それに加えて維持管理的な樹木の剪定も含め補修や養生をおこなう、それはまるで実験場である。また、その後どうなったかと、身銭を切ったりして過去の植栽現場巡りもしている。そんなことで結果的には、総合的に樹木の植物生理の視点、経年的に成長を見る目が養われたことと思う。
ここでは、異色とも言うべきわたしの経歴を紹介した。
以上
このブログを多少とも見ている方々はわたしの人生上の遍歴をご承知かと思われますが、自らのことであるにも拘わらず、なかなかまとめるのに苦労した。結果的には概観的な技術的経歴の内容になっているが、具体的に実際の事実を追った裏付けのある内容である。この手の文章は得てして無機質になりがちであるが、わたしの独特な人生行路も背景にあり読んでみて面白がる人がいるかもしれない。
樹木医の資格取得と現在までの動きを振り返る。 20240320
わたしは一応、造園業界出身になるだろう。この世界で30歳直前の年齢上は遅いスタートであった。高卒後、東北から上京し大学の文系に入り種々の職業を経て世の中をウロチョロしている。しかし、結婚後、土いじりや植物好きなことを自覚、一念発起あらためて進むべき道は造園に決めた。地元のハローワークの紹介で見習いにて千葉市内の造園会社に入り3年と3か月在籍。
この時は通勤途上の不明な樹木、草花や雑草の茎、枝葉を押し葉にしてスクラップブックに集めていた。勿論、ノートもとる。わたしの関心の度合いは、植木だけではなく山林や果樹、畑の野菜から観葉植物に至るあらゆる植物である。なお庭のデザイン習得のために勤務時間後、2年近く、池坊流の生け花も習ったもの。そこでの業務は軽い営業にドラフターで設計図面を作り施工する、ハウスメーカー紹介の個人邸などの外構や庭園工事を担当した。
次に東京新聞の求人欄を見て都内品川区の小さな造園会社に就職した。2時間程度のかなりの遠距離通勤であったが、そこに19年と3か月の期間いたが、やがて会社が業務縮小で退社する。ここでは、主にマンション開発販売会社の大きい案件の造園工事を特命で扱ったり、ゼネコン発注工事が多かった。現場的にはゼネコン相手である。計画・設計の段階では建築設計事務所やゼネコン設計部署と打ち合せをおこなう。
樹木医の資格取得面をたどると、まず2級造園技能士、造園と土木の1級施工管理技士を取得。しかし、わたしの当初の目標は技術士や樹木医であり、何度か挑戦したものである。樹木医に合格したときは五者択一問題を別にして、小論文に林木の播種繁殖が出題されていた。
資格取得後は速やかに日本樹木医会に加入。積極的に4ブロックを越えた県内各地の研修(現地・座学)に参加する。樹木医としての方法論に調査診断、治療の実際を学ぶ。東南アジアの国々での海外研修は物珍しさのみではなく、植物分類や系統上参考になった。
また独自に、資格取得以前は移植に伴うイチョウ樹勢回復など2件ほど、取得直後は地元の要望に応じて郷里岩手県一関市内にて乳イチョウやカヤの5本の巨木を調査し現地説明会を開いた。
その中で、特に二度目の会社のある東京湾沿いの運河に囲まれた『天王州アイル計画』では、実質的にわたしの社内での役割は植栽の設計と施工を一体でおこなうことであった。そこで事前に候補予定の樹木の耐潮性を調べるために、類似のロケーションである大井競馬場内余白地で試験植栽を数年間実施した。同工事の竣工後、わたしは責任者として社員による直営の常駐維持管理業務を継続的に11年間担った。このことはわたしにとっては、結果的に樹木の植栽からの成長過程を経年的に春夏秋冬にわたり観察が出来たことによって、生きた知見を得ることになった。
またわたしは、当時業界的に慣習になっていた材料検査を踏まえて現地踏査等を繰り返す。その都度国内各地の自然植生や景観に目を凝らしていた。その会社を退社してしばらくは自営。
次いで九州の大手浄水器メーカーの新規事業人材の公募に応じて、一年間、屋上緑化計画導入に取り組む。その後、主にUR都市機構などの施工管理業務として造園職、土木職についていた。
以上を振り返ると、第25期の樹木医としての現在は独学に偏しているが、実は今でも、公私共に植物を植え、繁殖方法を探り一年ごとの成長過程を眺めることが好きである。それに加えて維持管理的な樹木の剪定も含め補修や養生をおこなう、それはまるで実験場である。また、その後どうなったかと、身銭を切ったりして過去の植栽現場巡りもしている。そんなことで結果的には、総合的に樹木の植物生理の視点、経年的に成長を見る目が養われたことと思う。
ここでは、異色とも言うべきわたしの経歴を紹介した。
以上