「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

LOP NUR ロプノール Long Good-bye 2022・03・14

2022-03-14 04:33:00 | Weblog

  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」
  掲載の「 ロプノール 」他の記事から適宜取捨して引用します 。備忘 、歴史のおさらい 、
  そして頭の整理のため 。
  「 ロプノール 」と聞いてまず思い出すのが 、「 西域 」、スウェーデンの地理学者で 、
  中央アジア探検家 スヴェン・アンダシュ( アンデシュ )・ヘディン ( Sven Anders Hedin,
  1865年2月19日-1952年11月26日 )の「 さまよえる湖 」、うっすらユダヤ系のヘディン
  さんは 、第二次世界大戦終結後に 、スウェーデン国内で 、「 ナチス・ドイツに協力した 」
  として批判された 、とか 。
  そして「 中国の核実験場 」があったのが「 ロプノール 」。

  引用はじめ 。

  「 ロプノール (ドイツ語: Lop Nor、フランス語: Lob Nor、英語: Lop Nur、ウイグル語: لوپنۇر、
   中国語: 罗布泊/羅布泊、モンゴル語: Лоб нуур/ᠯᠣᠪᠨᠠᠭᠤᠷ)

    ロプノールあるいはロブノールは 、中央アジア、タリム盆地
   のタクラマカン砂漠北東部に 、かつて存在した塩湖で 、
   『 さまよえる湖 』として知られている 。この湖があった
   は 、現在の中国・新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル
   自治州チャルクリク県であり、隣接するロプノール県ではない


    ロプノールには 、タリム盆地を取り囲む山脈の雪解け水を集
   めるタリム川( 正確にはタリム川の分流 )とチャルチャン川
   が流れ込むが 、湖から流れ出る川はない 。つまりロプノール
   は 、内陸河川であるタリム川の末端湖のひとつであり 、湖水
   は強い陽射しで蒸発するか地中に浸透して消えていくため 、
   次第に塩分が蓄積して塩湖となった
。紀元前1世紀の頃には
   まだ大きな湖であったという記録が残されているが 、4世紀
   前後に干上がったと見られている 。

   概 要
    タリム盆地はヒマラヤ造山運動に伴って形成された地形であり 、
   今からおよそ2万年前の最後の氷期から現在の間氷期へと遷り
   変わる頃には 、盆地のほぼ全域がカスピ海のような極めて広大
   な湖となったが 、その後気候が温暖化するにつれて次第に水が
   失われ 、大部分が砂漠になったと考えられている 。

    この説に従うなら 、ロプノールなどタリム盆地に散在する湖沼
   は 、その湖の最後の名残ということになる 。

    1901年に中央アジア探検家によって 、「 ロプノールの周辺地域
   は標高差がわずかしかなく 、堆積や侵食作用などによってタリ
   ム川の流路が大きく変動するために 、湖の位置が南北に移動す
   るのだ 。ロプノールはいつかきっと元の位置に戻ってくる 」
   とする「 さまよえる湖 」説が提示され 、それからわずか20
   年後の1921年に 、予言通りタリム川の流れが変わって湖が復活
   したことから広く知られるようになった 。

    復活後は 、上流の天山山脈などの降雪降雨量によって流れ込む
   水量が変わるため 、消長を繰り返しながらも20世紀半ばまで
   は水をたたえていた。

    しかし 、タリム川にダムが建設されたことなどもあって 、
   現在は再び完全に干上がっている 。衛星画像では乾いた
   湖床が人間の耳のような形に見え 、湖心をかすめるように
   省道235号線が貫いている 。」

  「 核実験
    ロプノール周辺地域は 、1964年から核実験場として使われていた 。
   このため 、1950年代から1960年代にかけて軍事上の立ち入り禁止
   区域となったが 、ロプノールの湖床が実験場となったことはない
   1980年代に立ち入り禁止が解除されてからは 、再び探検者や学者 、
   メディア 、観光客などが訪れるようになっている
。 」

  「 第9学会
    核兵器の開発は 、1960年代初頭に設立した第9学会( 北西核兵器研究設計学会 )
   により進められた 。第9学会とは、中華人民共和国第九局( 核兵器製造機関 )
   北西核兵器研究設計学会が海北チベット族自治州に核開発のために設立した
   最高機密の研究都市
で 、221工場とも呼ばれる 。第9学会で開発製造され
   た核兵器は中国-インド国境に近いチベット自治区などに配備されている

   221工場は1992年に閉鎖され 、跡地は「 愛国主義教育示範基地 」となって
   いる 。 」

  「 中国の核実験
    概 要
    毛沢東はアメリカによる日本への原子爆弾投下以来、原子爆弾を持ちたいと
    強く願い続けたといわれる 。朝鮮戦争中にアメリカから核攻撃を暗示された
    際に毛沢東はスターリンに原爆製造技術供与を要請した 。この時にソ連側は
    技術供与に消極的だったが 、後の1954年の台湾海峡危機やハンガリー動乱を
    巡るソ連内部の政治混乱を機会 に、中国はソ連からの技術供与交渉に成功する

    さらに核研究で先行したアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ドイツから
    帰国した科学者( 両弾一星 )も中国の核開発に貢献した


     1960年代初頭に設立した第9学会( 北西核兵器研究設計学会 )により 、
    核兵器の開発が進められた 。1964年10月16日に新疆ウイグル自治区のロプ
    ノール湖にて初の核実験が 、1967年6月17日には初の水爆実験が行われて
    中国はアジア初の核保有国となった 。チベットとともに核廃棄物の処分場
    も設置され 、周辺住民への被曝が問題視されている 。この処分場について
    も中国政府は安全性を主張するのみで 、公式の放射能汚染や健康被害リスク
    の調査などは実施していない 。

     中国政府はこれまで46回におよぶ核実験を行ったと公式発表しているが 、
    実際は 、小規模の実験も含め 、同地における核実験は50回以上に及ぶと
    推定されている
1980年10月16日に最後の大気圏内核実験が行われ 、
    1996年7月29日に最後の地下核実験が行われた
。」

   「 歴 史 ( 筆者註:「 黒歴史 」の最たるもの 。 )
    ソ連への技術供与交渉
      ( 筆者註:正しくは「 ソ連への 」ではなく「 ソ連との 」。)
     毛沢東はアメリカによる日本への原子爆弾投下に魅了され 、原子爆弾を持ち
    たいと強く願い続けたといわれる
財政部長薄一波によれば毛沢東は1950年代
    前半を通じて 、すべての会議において中国による原爆所有について言及していた

    しかし毛沢東は外交的配慮から 、対外的には原爆への渇望を隠蔽し 、「 原爆など
    不要 、人民に頼るべき 」と発言しており 、1946年には「 張り子の虎 」発言を
    行っている
。しかしスターリンは中国への技術供与を了承しなかった

    1949年8月29日 、ソ連最初の核実験RDS-1がセミパラチンスク核実験場で行われた 。
    実験を指揮したのは核物理学者のイーゴリ・クルチャトフだった 。この成功により
    アメリカによる「 核兵器独占 」状態は終了する 。

    1950年から開始されていた朝鮮戦争中の1953年2月2日にアメリカ合衆国のアイゼン
    ハワー大統領が一般教書演説において 、中国への原爆投下の可能性について言及し 、
    中国に対して核使用による脅迫を行ったため 、毛沢東はスターリンに対して原子
    爆弾の技術提供を要求する口実ができた 。毛沢東は中国の核物理学者銭三強を
    モスクワへ派遣するが 、ソ連側はこれを拒絶する 。しかし銭三強は以降もソ連の
    核研究施設に入れてもらうよう交渉を三か月も続けた 。1950年の中ソ友好同盟
    相互援助条約には核兵器に関する協定は含まれていなかった 。

    スターリンは中国に核兵器を持たせたくなかったことも手伝って 、朝鮮戦争の
    終結を決断したといわれる 。スターリンは終結予定日は1953年2月28日とする
    ことをソ連指導部に伝えた 。しかし3月5日 、スターリンは心臓発作で死去する
    なおスターリンは毛沢東を日本のスパイと疑っていたともいわれる

    スターリン死後 、ソ連指導部は西側諸国との緊張緩和を目指し 、中国へも停戦
    に協力するよう説得を始めた 。しかし毛沢東は原爆を渇望するあまり朝鮮戦争の
    継続に固執した 。結局 、米軍が細菌兵器を使用したというプロパガンダを巡って
    ソ連政府は中国政府を威嚇して 、毛沢東は5月にようやく停戦に応じた 。
    毛沢東が朝鮮戦争の終結に同意したため 、ソ連新クレムリンは中国に大型工業
    計画を売却する 。これを受けて6月15日 、毛沢東は軍事大国を目指した第一次
    五か年計画を提起する 。

    1953年8月12日にソ連は水爆装置実験RDS-6を行う 。核融合は失敗している 。

    翌1954年7月に中国は台湾侵攻を開始する( 台湾海峡危機 )が 、これは再び
    アメリカとの対立を作ることで 、ソ連に原爆製造技術を要請するためであった
    9月3日には金門島に砲撃を開始する 。10月1日にソ連代表ニキータ・フルシチ
    ョフが訪中するが 、これはスターリン時代には考えられないことだった 。
    フルシチョフは15企業の売却と5億2000万リーブルの借款を約束した 。
    原爆については毛沢東が強く交渉し 、ソ連側は中国の原子炉建設援助を
    不承不承承諾した
。」

   「 ロプノールでの核実験
    1960年代よりロプノール地域は核実験場として使われ 、1996年までに
    核実験が45回実施された 。そのうち23回が大気圏内核実験でロプノー
    ルの北西約100km地点 、22回が地下核実験でロプノールの北西約220km
    地点で行なわれた 。1950年代から1960年代にかけてロプノール付近は
    軍事上の立ち入り禁止区域となり 、1980年代に立ち入り禁止が解除された


     1964年10月16日 初の核実験。
     1967年6月17日 初の水爆実験。
     1980年10月16日 最後の大気圏内核実験。
     1996年7月29日 最後の地下核実験。
    キャンベラのオーストラリア地質調査協会 によって1996年の核実験
    の規模が1-5キロトンであったことが明らかにされた


    高田純による調査報告
     核防護学者高田純札幌医科大学教授による2002年8月以降の調査で 、
    中国がウイグル地区で実施した核実験によって 、同自治区のウイ
    グル人を中心に19万人が急死し 、急性放射線障害など健康被害者
    は129万人にのぼり 、そのうち 、死産や奇形などの胎児への影響
    が3万5000人以上 、白血病が3700人以上 、甲状腺がんは1万3000人
    以上に達すると発表された ( 高田純 2008 ) 。また 、被害は
    シルクロード周辺を訪れた日本人観光客27万人にも及んでいる
    恐れがあり 、影響調査が必要であると同教授は指摘している 。

    高田教授による調査は 、1996年までの中国の46回の同地区におけ
    る核実験の爆発威力や放射線量 、気象データや人口密度などを
    基礎データとした 。楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の
    核爆発では高エネルギーのガンマ線やベータ線 、アルファ線など
    を放射する「 核の砂 」が大量に発生 、東京都の136倍に相当
    する広範囲に及んだ 。同教授によれば 、中国の核実験は 、核防
    護策がずさんで 、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに 、
    広島原爆被害の4倍を超える被害者を出している 。

    高田教授は『 人道的にもこれほどひどい例はない 。中国政府の
    情報の隠蔽も加え国家犯罪にほかならない 』と批判した 。


    ウイグルのアニワル医師の見解
     このような状況の中で『( 中国政府に )実験のモルモットに
    された 』と訴えるウイグル人も現れており 、ウイグル人医師
    アニワルは 、『 中国では被曝者が団体を作ることも抗議デモ
    をすることも許されないし 、国家から治療費も出ない 。中国
    政府は『 核汚染はない 』と公言し 、被害状況を隠蔽している
    ので 、海外の援助支援団体も入れない 。原爆症患者が30年
    以上も放置されたままなのだ 』として 、中国政府の対応を激
    しく批判している 。また 、核実験場は最も近い居住エリアか
    ら10キロしか離れていなかったとも指摘されている 。

    ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が 、中国の他の地域の漢人と
    比べて 、35%も高くなっており 、漢人であってもウイグル
    自治区に30年以上滞在しているものは 、ウイグル人と同じ
    発生率となっている 。また 、先天性異常のために歩くこと
    も話すこともできない障害児ばかりが生まれる地域もある 。

    中国による同地区核実験についてはイギリスBBCが1998年8月に
    隠し撮りによるドキュメンタリー「 死のシルクロード 」
    ( 27分 )を報道し 、この作品はローリー・ペック賞を受賞し
    ている 。アニワル医師も同作品に同行している 。

    チベット地区における放射性廃棄物処理施設
     中国はチベット地域にチベット側に合意をとらず秘密裏に
    核廃棄物処理場や核ミサイル基地建設を進めてきていたこと
    が近年明らかになっており( チベット亡命政府 1998, 7章 ) 、
    中国側もこれらの施設の存在については現在は否定していない 。

    1984年には 、中国は60億ドルでヨーロッパの原子炉の4千
    トンの放射性廃棄物をゴビ砂漠に保管している


    中国は1991年4月 、チベットにおける核兵器の配備と核廃棄物
    により核汚染が広がっているという主張に対し『 全く根拠の
    ない話 』としたが 、チベットへの核廃棄物投棄を認めている 。
    中国核国営公社( China National Nuclear Corporation )の
    ユー・ディーリャンは『 中国は 、89年から93年まで、多大な
    費用をかけ 、閉鎖された核兵器基地の環境状況の厳重管理に
    あたった 』と述べている 。

    チベット人医師タシ・ドルマの報告によると 、1993年の時点で
    リシュイ( Reshui )とガンズィ( Ganzihe )近辺で病気の
    発生率が異常に高く 、第9学会付近で放牧していた遊牧民の
    子供たちのうち7人がガンで死亡した 。

    同1993年 、中国は甘粛省西側の乾燥地帯に初の放射性廃棄物投棄
    センター建設をはじめ 、さらに中国南部 、南西部 、東部に建設計
    画中であった 。廃棄物の地層処分は現在 、国際的に深層処分が
    主流であるが 、中国政府は浅層処分で 『 充分に安全 』として
    いる 。高レベル放射性廃棄物( HLW )用地について 、チベット
    は北京からも離れているため『 核廃棄物を投棄するには最適 』
    ともされる
( チベット亡命政府 1998, 7章 ) 。
    1995年7月 、中国政府は 、海北チベット族自治州のココノール
    湖附近に『 20平方メートルに及ぶ放射性汚染物質用のごみ捨て場 』
    があり 、『 軍の核施設( 第九学会 )により廃棄物は出たが 、
    安全性は30年間完全に保たれ 、環境への悪影響 、基地で被爆
    者が出たことはない 』と公式に発表した 。しかし 、核廃棄物が
    当初の保管の仕方 、また現在の管理の仕方 、および危険性の調査
    について詳細は公表されていない 。
    1997年 、中国は台湾の核専門家に対し『 台湾で累積される放射性
    廃棄物の投棄場を提供する 。6万バレルの核廃棄物を引き取る 』
    と申し出たが 、台湾は断っている
。 」

   引用おわり 。

   冷戦時代の「 黒歴史 」の蔭に封印された「 ジェノサイド 」 。
   中国がチベットやウイグルについて 、海外からの干渉 、容喙を極端に
   嫌うのも 、ロシアがウクライナの原発を真っ先に接収するのも 、同じ
   安全保障上の理由が一番大きいような 。ウクライナにはソ連時代の負
   の遺産「 チェルノブイリ 」もある 。

   因みに 、ロシアの核実験場は 、用済みで1991年に閉鎖された「 セミパラチンスク 」。
    昔は 、新聞紙上でよく目にした地名 。
   「 ウィキペディア 」には次のような記事が掲載されています 。

   引用はじめ 。

   「 セミパラチンスク核実験場( Семипалатинский ядерный полигон )は 、
    旧ソビエト連邦のかつての主要な核実験場である 。カザフ共和国
   ( 現・カザフスタン )の北東部 、セメイの西方150kmの草原地帯にあり 、
    面積は約18,000㎢( 四国の面積にほぼ等しい )


    1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験に使用された 。施設は
    最初の核実験からちょうど42年目にあたる1991年8月29日に正式に閉鎖
    された 。これを記念して 、8月29日は国際連合の「 核実験に反対する
    国際デー 」となっている 。市民の被曝による影響はソ連政府によって
    隠蔽され 、1991年の実験場の閉鎖間際まで明らかにされることはなか
    った。

    ソ連崩壊後はカザフスタンの所有となったため、
    世界の核実験場では唯一 、他国による調査が可能となっている 。」

   引用おわり 。

   ウクライナ侵攻が 、プーチン・ロシアによる「 失地回復 」の一環であることは明白 。
   何が何でも取るつもり 。歴史のネジの巻き戻し 。
   中途半端では終われない 、お互いに 、「 ガチンコ 」 。
   ウクライナが現代版「 朝鮮半島 」「 ベトナム 」「 東西ドイツ 」になりつつある 。
   ロシアの鼻先 、喉元で 。
   全世界を巻き込んで 、すでに泥沼化の様相 。
   

    現在 原発を利用せず 、将来的にも非利用を「 決めている 」国は 、地球上で三つしかないらしい 。
   ・・・ イタリア 、オーストリア 、オーストラリア
。 

    オーストラリア 、ニュージーランドは 、はなから「 原発事故のリスクには一切関わりたくないから
   原発は作らない 」という考え方をとっている数少ない先進国 。

    たいがいの国は 、平和利用の名のもとに 、かかわりまくり 、脱原発にはほど遠い 。
    引くもならず 、進むもならず 。
    土壺🏺にはまってさあ大変 。







  

左から順番に 、E=MC² のアインシュタインさん、ひまわりのソフィア・ローレンさん ( ガン見の先 →ジェーン・マンスフィールドさん ) 、
ゲルニカのピカソさん 。80代後半のソフィア・ローレンさん以外 、存命の方はいらっしゃらないよう 。たまたまテレビやネットでお見かけした方々 。
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