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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

旧丸子町西内の自然石道祖神②

2024-05-27 23:40:12 | 民俗学

旧丸子町西内の自然石道祖神①から

 

鹿教湯温泉の道祖神

 

大塩の道祖神

 

穴澤公民館南の道祖神

 

 松本市から三才山トンネルを越えて最初にある集落らしいまとまりのある空間は鹿教湯温泉である。湯治の温泉として知られるから、あまり観光で訪れる人は多くないのかもしれないが、県内でも古くから開湯された温泉。この温泉郷の中ほどに「温泉祖神」という祠がある。その祠の前の道端にゴツゴツした石が横たわっている。注連縄の掛けられている最も大きな石でも、大きさにして50センチほどのもの。その周囲に小さな石が置かれているが、どこまでが道祖神かははっきりしない。この道祖神について福澤昭司氏の「自然石道祖神」(『長野県民俗の会通信』258 平成29年)には、道祖神のまつりについて「道祖神のそばに、昔は木で組み立てて小屋を、今はテントを作って、通る人に甘茶をふるまったり、お札を配り獅子舞をやりながら、全戸を回る」という。家々を回る際には「風邪の神たたきだせ、福の神たたきこめ」と唱えるらしく、節分の雰囲気がうかがえる。祭りの実施時期について触れられていないが、西内の道祖神祭りは、2月8日ころに実施されると言うから、その頃なのだろう。いわゆねコトヨウカといえば、下伊那地域のカゼノカミオクリにも共通している。このゴツゴツした石、一見礫の集合体のように見えるが、礫層の中で固まったものなのか…。周囲にころがっている石には溶岩も見え、必ずしも統一した石質ではない。石質については課題である。

 さて、鹿教湯から下っていくと、「大塩温泉」という看板が見えてくる。ここを右折して集落内の方へ左折すると、宅地の石垣の一角にそれらしい祭祀空間が設けられ、「道祖神」碑が2体祀られている。その文字碑に囲まれるようにゴツゴツとした自然石が3つ並んでいる。小林大二氏が著した『依田窪の道祖神』(昭和47年)に写真が掲載されているが、文字碑らしきものは写り込んでおらず、昭和47年以降に文字碑は建立されたのかもしれない。また現在のように自然石3つと明確には判断できず、今のような祭祀状態になったのは石垣が整備された際なのかもしれないが、そうはいっても石垣もかなり時を経ている。なお、グーグールマップで確認すると、自然石は4つあるようにも見える。グーグルマップは随時更新されてしまうので、現在のグーグルマップの写真を保存しておいた方が良いかもしれない。

 大塩から内村川沿いに下っていくと穴澤の集落である。内村川を渡ったところに穴澤の公民館がある。公民館と県道を挟んだ反対側に北西に向けて石垣が組まれた上にやはりゴツゴツした石が祀られている。ただし中央にあるのは石祠であり、一応ここではこの石祠が道祖神の中心になるのだろうか。大雑把に捉えるとここには5体の祭祀物があるように捉えられる。向かって左端と左から4体目がゴツゴツした石。3体目が石祠。2体目は文字らしきものがあるがはっきりしない。右端はいったい何か。五輪塔のようにも見えるが完成形ではない。加えて小さな丸井石がいくつか置かれている。これらも道祖神なのかどうかははっきりしない。いずれにしても祭祀物よりは石垣がちゃんとしつらえてあるから、道祖神とわかる。それは大塩の場合も同様であり、おそらく昔はそうした空間が整備されていなかったから、そこらにごろごろしていた、とも言えそうだ。

続く

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「せいの神」という違和感から その4

2023-05-13 23:26:07 | 民俗学

「せいの神」という違和感から その3から

 いよいよ本家である旧伊那市を扱った『伊那市史』からの引用である。ここまで扱った旧高遠町や旧長谷村といった中央構造線谷周辺では、タイトルである火祭りの「せいの神」という呼称は一般的ではないということが言えた。そして発端となった伊那市にある「みはらしファーム」は中央アルプス山麓にあたるわけで、中央構造線谷からはかなり離れていることになる。その伊那市を代表する呼称が「せいの神」であるかどうかを『伊那市史』に見てみるわけである。

 

『伊那市史現代編』(伊那市史編纂委員会 昭和57年)

道祖神(石造文化財 P1100)

 道祖神信仰は古くかつ他の多くの信仰と習合して複雑化しているが、古くは村に入り来る悪者や病気を村境で障り止める「さいの神」であり、後に行路安全の神となり、性神的要素が濃くなって、縁結び、子供の遊び相手となり、また厄落しの対象にもなっている。すなわち小正月十四日の晩、厄年の人は今まで使っていた茶碗に年齢数の銭(入れきれないときは大根を切って代わりとする)を入れて道祖神に投げつけてこわし、厄落としをする。良緑を道祖神に願うことは二月八日朝が多いが、福島では一九歳の娘は小正月厄落しのついでにも頼むという。どんど焼は道祖神祭の一つで、昔は小正月に行ったが、だんだん正月七日前後が多くなった。大文字といって、天下泰平・五穀豊穣を願って美しい福袋等を吊るした竿を道祖神の傍に建てる行事が西箕輪上戸で今でも続けている。これは辰野町の北大出や羽場、箕輪町大出や北小河内でも行われており、昔は相当広範囲にわたっていたと思われる。

 分布は伊那の四〇から美篶の二六までほとんど大差なくあり総数二二七基。種類別では像一九、石祠五、文字一四一、奇石六二基。年代は諏訪形の双体像が「享保三戊成年十月吉」(一七一八)銘で最古。青島の双体像が宝暦十年(一七六〇)銘で続く。このように古くは双体像が多く、だいたい江戸時代で終わる。次に羽広の石祠が明和四年(一七六七)銘をもつ。石祠は北信に多く、伊那でも辰野町の西山付き村々にあり箕輪町から西箕輪、伊那山寺まである。文字碑の初出は与地の「道六神」が安永六年(一七七七)銘。これを見ても当地で道祖神のことを「どうろくじん」と昔から言っていたことがわかる。「道祖神」という文字の最初は貝沼の寛政七年(一七九五)銘で、以後文字碑が多く造られ、昭和の近年まで続く。

 道祖神は厄落としに無くてかなわぬ神で村落に一基は造る。しかし庚申のように周期的に建てることがないから数はそう多くない。古くは文字も何もない「奇石」を神の依り代ないしは標識として建てていた。当地一帯にそういう奇石が多い。ところが、道祖神の性格を具象化化した像や文字が現れると、その方が主役となるといった次第で、奇石と像あるいは文字が道祖神場に併立している場合が多い。

 

道祖神(信仰 P1166)

(前略)

 この観点から伊那市内の道祖神を見るときに、村外れや出入口の辻・坂の途中(西町の猿坂、美篶の上大島・中県)に、悪霊・疫病を塞ぎ防ぐ神として道祖神が祀られ、文字碑が最も多い。その始めは「塞り石」として石棒や奇石をおいた。伊弉諾命の黄泉比良坂の塞り石「道反大神(塞の神)」の神話によったものであろうか。後に道祖神は器量の悪い神様だからというようになり、その奇石に神秘的な力を感じ、厄除神として獅子という奇石もある(小澤・羽広)。また岐神(東春近・渡場)や道六神(与地)があり、数が少ないが石祠(御園・吹上・羽広)があり、双体像(北福地・上新山・下新山・青島・中坪・下殿島・小出・諏訪形・赤木)がある。また「さいの神」の地名も今も残っていて、この神の性格を窺うことができる。これらの道祖神について「石造文化財」の項で詳記され、その祭祀や、正月における厄落し、どんど焼の関連行事は「年中行事」に記載してあるので、二、三の事例以外は省略したい。

 道祖神の嫁入り 西町区大坊と横山の間で、「盗んで来た」、「盗まれた」と言う道祖神がある。三辻で北向の道祖神があると村が栄えるという。大坊の道祖神はそのような場所にあった。「こちらの道祖神は大変良い道祖神様だで、是非盗ませて欲しい」と酒何升かを持参して申し込み、一方ではほめられていささか自慢気に承諾したらしい。今も横山の北方にあるのがそれで、両者が一致して伝えている。

 道祖神まつり どんど焼の道陸神笑いに「どうろく神という人は馬鹿のような人で、出雲の国いよばれて行って、じんだら餠に食いよって、後で家を焼かれたワアイワーイ」(西町・荒井)とはやされているが、二月八日の「おこと」にはいよいよ出雲の国から帰って来る。そこで道祖神の好きな餅を搗いて、藁の馬に背負わせて子供たちが持って行って道祖神に供える。藁の馬は高さ三〇センチ、背の長さ五○センチ、足の太さ三センチくらいで、小さい鏡餅と俵状の「藁つと」を二つ作り、馬の背につける。最初の者は置いて帰るが、次の者から供えてある馬を持ち帰り、最後に馬一匹が残る(山寺・手良・富県)。この餅を「お事の餅」又は八日餅ともいう。

 道祖神の前や近くの田圃で火を焚く風習がある(手良)。これは道祖神を迎える目印であり、悪霊や厄病神を追い払う火だと言われている。最近この風習もとだえてしまったが、ただ十四日歳の厄落としに投げた茶碗の散乱を各所で見かけることがある。

 でえもんじ 西箕輪上戸では、厄除を願って正月十四日朝道祖神前に飾りをつけた七間もある竿を立て、でえもんじと称している。

 正月七日ごろまでその家の女手などの状態を考えて、赤青黄緑の四枚一組の短冊型の色紙が一組から四組くらいずつ配られ、昔の「おひねり袋」のような袋を作り、それに一杯のもみがらをつめ、その下に、鶴亀・福俵・小判などの縁起のよい飾り物をつける。紙を破らないようにしかも左まきにならないように作ることは大変むずかしい。

 小正月の十四日寒気肌をさす未明、太鼓の音を合図に、子供たちが持ちよる。そこでは大火をたいて、大きな注連縄を作ったり、七間もの太い竿には地上三間くらいのところに、石油箱のような障子紙をはった灯篭が上下に太い穴をあけてさしてあり、その片面には「天下泰平」片面には「道祖神」などと筆太に書かれている。その上にでえもんじという袋をつるす板がさしてあり、その上方に生竹と三升樽、その最先端に竹を細く割ったのへ色紙をひらひらとはった「花」と称するものが沢山結びつけてあり、大きい注連縄のついた太い綱が三本結びつけてある板に、袋をつるし掛声も勇ましくこの重い竿をたてる。この掛声が寒い闇の中にこだまして勇ましい。建て終わって、たき火を囲んで冷酒を一杯。これは腹わたにしみわたり味は格別。このまま二十日まで建てておく。

 二十日未明、またまた寒さを吹きとばすような太鼓の合図で、村中の人が集まり、竿を倒し、他人の持ってきた良い飾りのあるのを貰おうと大騒ぎになり、袋二個と花二本をもらって暗い道を我が家に帰り、でえもんじは神棚へ供え、花は入り口へさしておく。

 昔一度この行事を止めたことがあり、そのとき村に疫病が大流行し村人が数人死んだ。これは大変と再びはじめ、今日に及んでいるとは古老の話である。(公民館報いな・有賀進氏記)

 

(年中行事 P1258)

道祖神飾り 塞の神の前に五色の紙を、青竹に結びつけ、御幣と五色の柳と五色の短冊で飾り柱に立てる(東春近村誌)。

 二月八日に道祖神祭りを行なっている地区が多い。講中七戸から一名ずつ当屋に集まり、「道祖神 講中」と書いた掛軸をかけ、お神酒を上げ、線香をたてて拝み、その後酒肴で祝う(芦沢)。

 各部落単位で行ない、郷の坪では大人も子供も集まり、田圃で火を焚き、米垣外では道祖神の辻で火を焚き太鼓を叩いて、それぞれ酒と菓子で楽しみ、日向では十一日灯篭を上げ当屋で酒肴で祝う(中坪)。

 でえもんじ 四箕輪では厄除を願って、十四日の朝道祖神の前で飾りをつけた太い竿を立て、でえもんじと称している(信仰の項に記載)。

 どんど焼 せいの神、またほんやりとも称している。どんど焼きは一四日に門松や注連を、二十日に内飾りを焼く習わしであったが、二十日にまとめて行なう所も多い(西箕輪・東春近・横山)。

 どんと焼は六歳から十五歳までの子供連の行事で、耕地・町内・字・組・小字単位で行う。年長者(頭)の指図で注連飾りや松を集め、学校帰りに枯枝などを集めて置き、その日に松などの芯の木を立て、それに正月のお飾りを結びつけて焼くのである。芯木は村役が伐ってやるところ、決めた木を伐らせるなどさまざまである。

 注連縄は歳神様がお泊りになるから神聖な張りものであり、どんど焼の煙にのって歳神様はお帰りになるという。どんど焼の場所は道祖神(塞の神)のところで、道陸(六)神笑いをはやしながらほんやりをするのが習わしとなっていた。

塞の神神様は、いぢのむさい神様で、尻へとぎくすいで、よきで掘って掘れないで、餅で掘って掘れんでワァイワァイのワァイワイ(山寺)

塞の神のおんばあは、意地のむさいおんばあで、梨の木に上って××××くすいで、隣のぢぢい呼んで来て、うんとこどっこい抜いたとさワァイワァイ、ワァイ(西春近)

せいの神の神様は、いじのむさい神様で、生餅かじりついて、留守にうちょ焼かれたワァイワァイ、ワァイ(荒井・西町)

 書初めもこれにくべて、高く燃え上ると字が上手になり、繭玉や稲穂を焼いて食べると風邪をひかない、虫歯にならないといわれ、年寄がこの火にあたり顔をあぶると中風にならないという。焼き残りの注連飾りがあると借金が残るといってきれいに焼いた。現在は

学校教育の一貫としてPTAの指導によって行われる地区が多い。

 

 二十日正月 女のお正月ともいう。簡単に年取りをして、内飾り(注連)や正月一切の飾り物や供え物を取り下げる。繭かき(繭玉)。稲こき(穂垂)、穂垂(本垂)たおしを穫り入れと言って片付ける。内飾りを賽の神でどんど焼をするが、門松もこの日にどんど焼をする習わしもあった(西箕輪・中坪・横山)。女の人たちは繭ねりをし、近所の人(女衆)を招待してお正月の残り物で馳走作りをして年賀で一日を楽しみ、正月の疲れを忘れ女の正月を味わうのであった(昭和一五年ごろまで)。二十日でお正月は終るといい、年取り魚の鰤の頭や骨を入れて大根の煮こごりを食べ「頭の正月」ともいった。

 

年祝に関する習俗(「人の一生」 P1241)

厄年

 数え年男二五歳・四二歳、女一九歳・三三歳を大厄と称し、それぞれの年の前後を前厄・後厄という。女が一九歳になると、「娘十九は孕むか死ぬか。」と言い、男は四二歳を重視する風がある。正月十四日の晩、普段用いた茶椀に歳の数だけ銭又は大根を賽の目に切って入れ、道祖神に投げ砕いて厄落としすると共に、東筑の牛伏寺への参詣も昔からあり、氏神で厄除けの御祓いを受け、節分に沢尻のお不動様や村内の祈祷寺(円福寺・真福寺など)で厄除けの祈祷をしてもらう習慣は現在まで続いている。厄年の人たちが講談師や浪花節をやる人を頼んだり(美篶)、御日待や、親類友人を招いて盛大に酒宴を催し厄落しをする風もあった。男二歳、女三歳、男女七歳も厄年である。

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 以上である。旧長谷村において「道祖神」を「どうろくじん」と称している地域があることに触れたが、ここでも文字碑の最古のものに「道六神」があるとしており、「道祖神」を「どうろくじん」と呼んだ形跡がうかがえる。『伊那市史』における記述上の表現は「道祖神」はそのまま「道祖神」であり、旧長谷村などと同様に「さいの神(せいの神ではない)」という地名についても触れている。「でえもんじ」という行事を行う西箕輪上戸は羽広のすぐ南隣にあたり、ここでも「でえもんじ」に掲げる灯篭に「道祖神」と書いている。また、東春近あたりでも小正月に柱立て風の飾りをしており、「塞の神」と称しながらも「道祖神講中」という掛軸を掛けており、「道祖神」が一般的と捉えられる。では火祭りにつてはどうか、項としては「どんど焼き」と表記しており、その冒頭で「せいの神、またほんやりとも称している」と加えている。ここに「せいの神」が登場しており、「せいの神」という呼称も存在することをうかがわせる。そしてその際の囃しことばが、旧長谷村では「どうろくじん」であったものが、「塞の神」と代わっている例が多いようで、この「塞の神」の変化が「せいの神」なのだろうか。いずれにせよ、『伊那市史』からは「せいの神」という呼称が「一般的である」という印象にはならないだろう。

続く

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続・かつての祭りを振り返り③(平成4年11月4日)

2022-11-05 23:33:25 | つぶやき

かつての祭りを振り返り③(平成4年11月4日)より

 

 

 十日夜にどのようなことがされるかという図について前回示したが、おなじ十日夜に関して呼称について触れた「十日夜・前編」の図のことについても触れた。同様にQGISで呼称について図にしたものをここに示したが、呼称についての質問になると行事の内容について回答されたデータよりも希薄になるのは、図を見てすぐにわかる。なぜこのような分布になるのかはわからないが、たまたまこの図に先日〝「長野県民俗地図」ひとり言〟で触れた図1「節分に魚を挿す木」の図を一緒に表示してみた。すると、同一地点で両者の回答が重なるのは5地点しかない。QGISで作成する場合座標化されているので、同一点に記号が表示されると重なることになる。そこで十日夜の呼称に関する記号をここでは色づけした透過記号にし、節分に魚を挿す木の記号をそのままにして重ねたわけである。すると前者の上に後者が重なって表示され、両者の記号が視覚的にも判然とする形になっている。

 裏を返せばQGISで図を作成すると「こういうこともできる」ということがわかるわけだが、まったく無関係な図を、たまたま重ねたら「こんな結果になった」という例である。両者に関係性はないが、これほど2分された図ができることはめったにないはず。大雑把に言えば、十日夜の盛んなエリアと、節分の盛んなエリアが完全に県内で2分された、などと言い切れないが、たまたまこの図を見る限りそう見えるわけである。

 なお、小海町親沢の十日夜については、平成4年11月4日に当地で録音した囃子唄を「音の伝承」「長野県南佐久郡小海町親沢とおかんや」と題して掲載しているので、こちらも参考にされたい。

 

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コロナ禍の節分

2022-02-03 23:40:07 | つぶやき

 節分である。節分に関する記事を多く記してきたこともあるのだろう、ここ2日ほどこのページへのアクセスが多い。そして何といっても〝かにかや〟である。そこでも記したとおり、「かにかや」と検索すると、この〝かにかや〟が検索トップに登場するのは今も変わらない。

 このご時世で、世間の様子もうかがっていない。我が家ではわたしが転寝している間に豆まきをしたというが、今や落花生を撒いているから、妻はすぐに拾っている。そもそも豆を撒くのは鬼を締め出し、福を逃さないためというから、拾ってしまうと戻ってしまう、と思うのだが・・・。農村事情の変化で行わなくなった行事は多い。考えてみれば当たり前で、慣わしでやっていたとしても、その意図が今に合わなければ無駄なこととも捉えられる。そこへいくと節分のように悪霊を追いやるという意味なら、今の世にも十分共感を得る。したがってコロナ禍の今ならなお更だ。ようは今こそ豆まきをして、悪いものを追い出すことが必要だろう。そういえば、けして今の世に倣ったわけではないが、我が家でも夕飯は太巻きだった。それもいつにない具には多様なふだんでは食べないような海産物が入れられていた。妻いわく「高級太巻き」。コロナの世に、節分が繁盛あれ、という感じだろうか。

 ということで、ざわついている(静かでもある)ので、節分の様子もうかがわなかった。2年前に訪れてここにも掲載した節分を忠実に行っている近くの知り合いの家での写真で、今年は節分を送る。藁に点した炎の揺らぎに春を覚える。

 

令和2年2月3日撮影

 

 余談
 「かにかや」で検索すると高森町の民俗資料館のページもヒットする。とっても違和感のあるのは、そこに登場する資料館の外観写真だ。この写真、知っている人はみな違和感を覚えるだろう。建物の外観は正しいが、周囲の景観はまったく異なる。ようは合成写真。なぜ合成写真でなければならないのか。これって「偽装」と言わないか。

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又貸しするおじさんが配った「角大師」後編

2020-11-25 23:58:51 | 民俗学

又貸しするおじさんが配った「角大師」前編より

 わたしがここに赴任してきた際、執務室の入り口の脇に「角大師」の刷られたお札が貼られていた。記憶ではわたしが以前いた際にもどこかに貼ってあったように思うのだが、もちろん長年掲げられていたからふすぐれていた。以前いた際は別の部屋だったため、今の執務室とは異なる。移転した際に誰かが執務室の入り口に貼り直したと思われる。とはいえ、壁にセロテープで貼ってあってふすぐれていたし、ご利益があるという雰囲気でもなかったが、捨てることもできず、処理方法もわからなかったのだろう、ずっと忘れられたように貼られていたわけである。

 ところがこの「角大師」がいつの日からか姿が見えなくなった。誰もそれに気がついていなかったようで、気づいたわたしが他の人たちに「お札がなくなったけれどだれか何かしたのかなー」と聞いた次第。もちろん誰もその行き先を知らず、中にはその存在すら知らなかった人もいた。想像するに、執務室の入り口の脇に外への扉があって、換気のために扉をあけておくことがよくあった。ようは強風に煽られて剥がれてしまったのだろう。すぐに気がつけば拾う人もいたのだろうが、どこかへ飛んで行ってしまい「捨てられた」に違いない。

 実はこの「角大師」のお札が貼られていたことを「又貸しするおじさん」は認識していたようで、「前ここに貼ってあったよね」と。社員でも知らなかった人がいるのに、さすがに「又貸しするおじさん」、何でも知っている。まさかそのお札の代わりというわけではないだろうが、『疫病退散』にある「角大師」をコピーして配った、というわけである。とはいえ、魂入れされたはずはない。ようはただの紙切れである。とはいえ、この姿を見れば、ただの紙切れであっても捨てがたい雰囲気はある。入り口に貼ってあれば、悪者が入りにくい、などと思うかどうか。『疫病退散』の中で島田氏は「角大師」は慈恵大師良源がもとだという。なぜその良源がこのようなやせ細り、角のある鬼の姿に描かれるようになったかについて、流行の疾病に罹った良源が「円融三諦」を実践することで苦痛が去ったとされ、良源は弟子達を集め鏡に映した自分の姿を描かせたというのである。鏡の前で瞑想すると、その姿はしだいに骨ばかりの鬼の姿になったといい、それが「角大師」だったという。良源はその姿を刷り、民家に配り戸口に貼り付けるように命じたという。「この影像あるところ、邪魔は恐れて寄りつかないから、疾病はもとより、一切の災厄を逃れることができる」といわれた。これを読む限り、「影像あるところ」と称しているので、けして魂入れされていなくとも、その恩恵を被る、ということになるのかもしれない。

 もともと貼られていた「角大師」がどこのお札であったのかはわからない。「角大師」のことは「続々〝かにかや〟」で触れた。下伊那では節分会にお札として配布している寺が多い。上伊那では見た覚えがなく、いつの時代に、どこでいただいてきたものなのか、よく見て置けば良かった、と悔いている。

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わが家の年中行事・後編-『伊那路』を読み返して㊴

2020-07-03 23:36:55 | 地域から学ぶ

わが家の年中行事・前編-『伊那路』を読み返して㊳より

 大槻治平氏の「わが家の年中行事-長野県上伊那郡箕輪町中曽根-」は、昭和37年1月号において、2月以降の年中行事に触れている。

 2月3日、「節分の年取といって、朝食に頭付の鰯を添へて神棚の恵比寿様へ供へ、後一同年取りをする。食後豆を妙り主人は「鬼は外、福は内」と称へながら家の中へ豆撒きをする。各自は自分の年令の数だけ豆を食べる。残りは何時か初雷の鳴った時に食べるのである。」とある。ごくどこにでもある記述であるが、いわゆる蟹柊といった魔よけの習俗は記されていない。

 2月8日、「事始めといって、餅を搗き、藁で馬の形を作り、ヤスといふ藁の容れ物へ手餅を二個入れ、その馬の背に結び付けて道祖神様へ牽いて行き、餅を供へて置くのである。こんな里話がある。「いい事きいた事きいた事の餅食ひそこなった」大事の事始めだから、この祝の餅を食ひそこなはない様にと互いに戒めた言葉であろう」。藁馬引きは、上伊那でも各所でかつて行われていたことが言われている。

 4月19日の項には、

 当氏神の祭礼、十五日頃から家の内外を掃除し、障子・唐紙等を張替へたり畳なども表替或は裏返しなどをなし、宵十八日から馳走を作り、親類の来客を待つ。神の間には八幡大神の軸を掛け、両側に龍・虎の連を掛け、前に机を並べ、八寸膳へ神酒・赤飯を供へる。
 親類は宵祭から泊り掛けに来る者もある。軒燈のレンガク(三方紙張りの長方形のもの)に燈明を上げる。これが後に燈籠に代ったのである。
 当日は、神の間に膳部を各々に出し酒肴を饗応する。食べ余りを重箱に詰め、赤飯を一重か、薄板に包んだ赤飯を贈る。夕方帰宅する者、泊る者もある。
 明治四十年頃生活改善として郡下一斉に祭日を四月十五日と決めて行ったが、神主から不平が出て大正三年再び思ひ思ひの日取りになった。
 父の時代から氏子惣代として祭典を扱って来、引続き自分も十八年間就任して来たので祭礼当日は式の執行のために親戚の応接も萬全にできなかった。
 当祭日は、農家として水稲苗代作りの時期なので、昭和三十三年度から十日延し四月二十九日に改めた。

という具合に、村祭りを迎えるにあたっての客呼びの様子、そして祭日の変化がよく記されている。

 農休みについて次のように記されている。

 仕付仕舞、田植を了へ一段落したので、区から触れを出して三日間位(農休み二日、水神祭一日)午後休む。馬も健康で仕付けの大業を了へたので、若者が羽広の観音様へ藁沓をはかせ御礼参りに行き、この藁沓をぬがせて境内の木の枝へ投げ掛けて帰る。
 他家へ縁付いた娘は「仕付け仕舞」といって生家へ休養に来る。その際、赤飯二重持参し一泊、帰りの際は返礼に赤飯を詰めて持たせる習しである。

 西箕輪の羽広仲仙寺へ馬を引きお参りしたことが記されている。


 さて、結びに大晦日年取りのことが詳しく記されている。年取りは31日昼に行ったという。

 先づ歳徳神及び氏神へは膳の上へ白紙を敷き、ヒキバチへ御飯を盛り、頭付の鰯を添へ木箸を付けて四膳並べ、切火といって火打石で火を出し清めて後、各二膳宛供へる。
 神棚及び恵比須大国神神へは小ヒキバチに御飯・鰯を添へて各一対宛供へる。
 仏様へは、膳へ白紙を敷さ、御霊の飯といって、御飯を山盛りとし、木の割箸を三ぜん半立てて供へ、元日・二日・三日の三日間は飯を供へない。
 年男(男の子供、ない時は主人)は歳徳神へ供へた片方を下げて、門松の所・水神・祝殿の順に分け供へ帰り、再び歳徳神へ供へる。
 右の供進が終って家族一同年取りの食膳に着く。その膳部は四ツ膳とし、飯・豆腐汁・平.(人参・午房・長芋・豆腐・昆布・田作)、皿(鰤の粕汁)、中皿(鰯頭付)、取肴(田作・数の子・きんぴら)等で祝酒を汲み交し、年長の主人食事を始めて、次に家族が食べる習しである。終って神仏への供へ物を下げて、後、茶を供へて年取りを終る。
 夕食にはソバ、或はニカケを作り、前の様式で神仏へ供へ、各神仏へ燈明を上げる。燈明は燈蓋皿へ燈心を二本入れ、燈し油を注ぎ、マッチで點火する。

というもの。年取り魚は鰤で、粕汁である。鰯の尾頭付きもつけられた。

 

風三郎さま-『伊那路』を読み返して㊵

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続“蟹鰯柊”

2020-04-08 23:07:02 | つぶやき

“蟹鰯柊”より

裏口に貼られた“蟹鰯柊”

 

 “蟹鰯柊”を先日記したが、不在だと思っていたこの紙が貼られていた家を、数日後にうかがったら老夫婦が顔を見せられた。きっとあの日も在宅されていたと思われる。貼られていた紙は数年前のものという。「おじいさんが身体を悪くしたので、今はしていない」と奥様は言う。家の主が「蟹鰯柊」の行事をされていたよう。もともとは阿智村の方から来られたというから、阿智村の方では「蟹鰯柊」の習俗があるのかもしれない。現代と違って、昔は家の主が行事を担うのはふつうだった。したがって女衆にはわからないことが多い。

 一昨日話をうかがった女性には、井水(用水路)のことを聞いた。すでにご主人は亡くなられているような様子だったが、「わたしは井のことはわからない」と言う。こういう言葉を冒頭に聞くことは多いが、細かく聞いていけば女性でも解ることはある。しかし、例えば井の賦役のこと、水利権のこと、金銭的なこと、となると体験していないので女衆ではわからない。こういう世界は今もなお、男の世界なのだ。とはいえ、「昔のこと」を聞いても答えられない時代になったと、最近は痛感することが多い。今年に入って盛んに足を運んでいた過酷な現場は、地元の人たちでもその実態が不明な水路だった。「水を滅多に止められない」故なのだろうが、水路の状態はもちろんだが、過去の改修履歴などの記録がないというし、「誰かご存知の方はいませんか」と聞いても「いない」という。いわゆる現代史の部分なのだが、このことは以前にも触れた通り、記録がこれほどされる時代なのに、過去の記録が残っていないのである。行政には保存期間というものがあって、一定期間を経ると廃棄されてしまうものが多い。近年は建物改築という機会に廃棄、あるいは行き先不明になってしまう書類が多かった。例えば昔のままの建物で、さらに保存する空間に余裕がある団体は、ずいぶん昔の書類が残っていたりする。日記でもよく触れた西天竜などは典型的な書類が良く残っている団体である。わが社でも事務所を移転したり、あるいは保存空間が満杯になると、過去の書類を一斉に廃棄したりする。「残しておけば良かった」と思うこともよくあること。

 さて、“蟹鰯柊”について少し話をうかがった。貼る場所は神棚、裏口、便所といった入り口があるところだという。もちろん節分に行ったものだが、「周囲でもするんですか」と聞くと、「やっているんじゃないのかな」と言われる。しかし、古そうな周囲の家をうかがったが、貼ってある家はなかった。この家では当たり前のようにやっていたことなのだろうが、実はこの家だけだったのかもしれない、やっていたのは。

 このお宅を再度訪れることになったのは、もちろん業務上でのこと。実は家の裏側に用水路があって、その水路の行き先がよくわからなかったので聞こうとしたのだ。この用水路の下流域では大事な水源とされているが、このお宅にとっては用のない水路のよう。しかし、屋敷より高いところを流れていて、コンクリートで固められているが漏水しており、漏水した水は屋敷の下を潜って表側の石積の下に湧き出ている。おそらく漏水のせいなのだろうが、水路内に仮設パイプが敷かれ、それを防ごうとしている。聞けばおじいさんが自らしたものだという。どうもコンクリートで固めたのも「おじいさんが元気だったころ」にしたもののよう。大事な用水路なのだから、水路の関係者が対応するべくところなんだろうが、屋敷内ということもあって、おじいさんが自力で行ったという。見るからに悲惨な状況なのだが、それ以上余計な情報や、感想を、わたしは口にできなかった。

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“蟹鰯柊”

2020-03-30 23:30:09 | 民俗学

 

 「かにかや」については、今年も2月4日に「令和2年“節分”」で触れた。このときのことを『伊那路』の3月号に報告させてもらったが、その際に、下伊那郡松川町の旧三州街道沿いを中心に、いまもって「かにかや」をする家が見られると記した。

 人さまの家に、ただそれだけを確認するために入っていくのは、この時代にあっては躊躇する。訪問販売か、あるいは泥棒か、などと思われるのも嫌なもの。そのいっぽうで今は留守の家も多く、むしろかつてより人さまの家へ足を踏み入れても揉め事になることは少ないのかもしれないが、いずれにしても他人の目もあって、家ばかりではない、田んぼの土手さえも、無断に立ち入るのは気がひける。ということで、玄関が敷地外から望める家を中心に「かにかや」が実施されているかどうかを確認するくらいがせいぜいなのだが、とりわけ仕事の都合で人さまの土地へ立ち入ることは、仕事柄よくあること。そうした際にも注意深く余所見をして、「この家はどうだろう」などとうかがうことは、わたしにとって副産物のようなもの。

 ところが人さまの玄関など、はるか彼方で、なかなか見られないという地域もある。ようは散居であって、さらに家までの誘導路が長い家が多い地域。まさに飯島町にはそうした家が多い。いわゆる私道が長いから、その道を歩いていると不審者と、傍目からも見られる。したがってなかなか様子がつかめない地域のひとつである。

 さて、飯島町のことではないが、今日松川町の電車道より東側のエリアで仕事で歩いていると、写真のような貼り紙を物置の玄関上に見つけた。在宅されている気配がなかったので、話をうかがうことはできなかったが、旧三州街道沿いよりははるかに東に下る。立地からして、ここに居を構えてそれほど古いというわけではないが、それほど新しいというふうでもない。戦前か戦後あたりだろうか。段丘崖だから、とても湧水の多い地域で、古くから人々が居を構える環境は整っていたではあろうが、大昔からあるという家ではない。

 「蟹鰯柊」と書かれているが、昔風なら逆に読むのだろうか。「蟹柊」については以前「続々〝かにかや〟」で触れた。それこそ旧三州街道沿いの高森町上市田で見たもの。そこにさらに「鰯」という感じも追加されたものだ。3寸角ほどの紙片に書かれて貼られているが、その真ん中にだけ糊付けされており。それが何枚も重なっている。見た感じ、せいぜい5年分くらいだが、最前に貼られているものが、今年のものかどうかは変色具合からはっきりしない。雨風の当たらないところだから、一点貼りでも何年分も重なって残っているのだろうが、「蟹鰯柊」は初めてだったので、少しばかり心が躍った。やはりこのあたりには「かにかや」の習俗が、まだまだ残っているようだ。

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令和2年“節分”

2020-02-04 23:48:00 | 民俗学

 昨年の節分には「節分に“燻す”」を記した。節分の行事をここ数年追ってきたが、今年は仕事が忙しいため、事前準備もできなかったが、ここ数年来様子をうかがってきたところでは、「かにかや」を今もって実践しているのは、松川町中心だということはわかってきた。そして意外にわたしの住んでいる周辺でもそれは行われている。いっぽうで上伊那南部では今のところ見たことがない。

 ここ数年来毎年行っていることがわかっていた近所の家に、翌日に節分を迎えた2日、節分の日に見せてもらおうと依頼にうかがった。すると、「明日の朝貼るので、今夜書く」という。今年は2日が日曜日だから早めにやるのかと思ったら、その理由がわかった。近所に住んでいながらまったく知らなかったことだが、松川町上片桐にある竜泉寺では、節分会が行われるのだという。それも節分に時間帯を4回ほどに分けて地域別に行うようで、かなり盛大なのだという。地元である竜泉寺界隈は最後に行うようで、毎年夜になるのだという。ようは、毎年3日の夕方は節分会を訪れるため忙しいので、「かにかや」は朝行うのだという。それだけではなく、3日に炊いたご飯粒を糊にして貼るので、自ずと炊けた朝に貼るようだ。わたしの生家では、3日の夕方、豆まきの前に行っていたので、てっきり夕方やるのが当たり前だと思っていたらそうではないのである。

 危うく今年は書くところを見られなくなるところを、「これから書くところだった」というので安堵。カメラを取りに行ってくるまで待ってもらい、写真に収めたものが写真である。毎年15枚ほど書くという「かにかや」は中折を切って用意されている。蔵や物置があるわけでもないのに15枚とは「多い」と思い、「どこに貼るんですか」と問うと、玄関や裏口はもちろんだが、屋内の扉という扉に貼るようで、縁側にある物置の開き戸にも昨年のものが貼られていた。入口ならどこにでも「貼る」という意識をされているようだ。

 ちなみにこのお宅、地域ではまだ2代目。ようは先代がここに家を建てられた。もともとは南信濃出身だという先代であるが、仕事の関係で飯島町七久保に長く住まわれていたという。その際に地元の風習を実践されるようになったようで、ここに家を建ててからも続けてこられたという。玄関には「かにかや」とともに榧の葉も一緒に掲げられていた。毎年のことであるが、節分会が終わって帰ってきてから木戸先で匂いの出るものを燃やしているというので、翌日夜にも「見せて欲しい」とお願いしてお暇した。

 

 ということで、節分の夜、午後9時前に再びうかがって燃やすところを見せていただいた。藁苞のようにした中に髪の毛、榧、こしょう、そして昨年貼られた「かにかや」の古いものを入れて燃やされた。匂いの出るものを燃やすのも、子どもの頃からやっていたことだというが、近所の人たちもやっているかどうかは「わからない」という。「〝かにかや〟」に県内の「かにかや」事例をとりあげたが、近在の事例をあらためて拾い上げてみると、

○夕方小さい紙切れに「カニ・カヤ」と二行に書いて、戸間口、戸袋・倉の中・便所・厩などに貼る。節分の夜鬼が来てこれを見て、カニとカヤと違う、へんだと思案しているうちに夜が明けるという。あるいは、カニが鬼をはさんで、びっくりした鬼がカヤカヤ騒いで逃げて行ってしまうともいう。藁で作ったツツッコに髪の毛・いろりの鍵の煤・胡椒を入れ、その上に火のオキを置いていぶす。悪臭で鬼が逃げるという。ツツッコに入れる物はまちまちで、榧の枝を入れる家もある。年取りは取勝ちといい、大正月と同様の御馳走。豆を妙る音が鬼に聞えるように檜の葉をパチパチさせて、火箸で妙って神棚にあげておき、夕食後おろして豆撒きをする。表座敷から裏座敷と順に「鬼は外・福は内」と唱えながら撒いて、最後に土間から外に向って撒く。この後豆をつかんで三度目までに自分の年の数だけつかめばいいという。撒いた豆をその晩拾うと鬼が逃げない。豆はとっておき初雷の時食べると雷が落ちない。(飯島町七久保)

○「かに・かや」と書いた紙札を各出入口に貼り、榧の枝・田作・唐辛子・女の髪の毛を籾殻と共に、藁のつつっこに入れて門口で燃やす。厄病災難を去って福を招くという。夕食に鰯で年取りをして豆撒きをする。(中川村片桐)

○節分の年取りで神棚にお燈明御神酒をあげ、お頭付をあげる。節を重んじた昔ほ節分を本当の年取りとした。縦三寸横二寸位の紙に「かに・かや」「かに・ひいらぎ」「賀仁」などと書いて、床前のわき・神棚の下・戸口・土蔵の扉などへ鬼が入らないように貼る。主人がこれを貼り、夫人が「ごもっともだ、ごもっともだ」と唱えて歩く。防ぎの加仁・加屋だと呼んでいる。田作りをススキの串にさして戸口にさす。鰯の頭・唐辛子・髪の毛・榧の実等を籾ぬかに入れ、門口で焚きいぶして鬼を追う。柳沢では藁つとに入れて燃やす。節分の豆は杉や槍の青木を焚いてパチパチ音をたて、火箸でカラカラ音をたてて妙る。(中川村南向)

○二寸四方位の白紙へ「かに・かや」と書き、各戸口の柱や神棚に貼り、夕方になると煤・髪の毛・胡椒を藁のつつっこに入れ、戸口で焼いていぶした。(松川町上片桐)

といった事例が見られる(いずれも『長野県上伊那誌』民俗篇上 上伊那誌刊行会 昭和55年 696-698頁から)。上片桐の事例もあげられており、当時の姿を実践されていると言える。

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「おさんやり」⑥

2019-09-03 23:50:30 | 民俗学

「おさんやり」⑤より

 

 

 フネのことである。

 現在使われている枠となる柱は、平成26年に新調されたものという。フネを壊すという意図からすれば、昔は枠も毎年新しく用意されていたと思うのだが、そのあたりについては『南小河内区誌』には触れられていない。柱には補強材として金具がはめられていて、上下にそれぞれの柱をつなぐ板(「貫」という)を差し込むための穴が開けられている。四方に上下2枚の板が通されることから、幅20センチ弱の8枚の板がそれぞれの柱を繋ぐように組まれる。この板は地区内にある製材屋さんが昔も今も用意するという。板を柱に通すと、板が柱から抜けないように、込み栓が差し込まれる。前掲書によると、フネを壊した際に、込み栓のついた部分を手に入れれば「運がいい」と喜ばれたという。こうした組立ては棟梁の指導によって行われるようで、板には当年の当番棟梁が墨入れをするという。柱と板が繋がれて組み立てられると、帆木がクロスするように片面に2本使って両面計4本縛りつけられる。帆木は、両脇の柱の上下と、クロスさせた真ん中の柱にも括られるが、現在は荒縄を使ってぐるぐる巻きのように縛られる。この縄の巻き方は和服の襟と同様に右前で手前が上に来るように巻くのだという。左前にすると死に装束になるのでしてはならないという。

 帆木の先端と先端を結ぶように芯に麻縄を1本入れて荒縄9本を縒り合わせたものを使う。その真ん中には御幣が取り付けられる。さらに帆木には笹が巻きつけられる。

 さて、壊す様子を見ていて思うのは、頑丈に組まれているため、なかなか壊せないということ。枠は再利用されることから、まず帆木などが外されると、枠と板を外すことから始めるのだが、これがなかなか外れない。枠は再利用するため、なるべく傷つけないようにするいっぽう、板は打ち壊すがごとく槌で叩きのめす。正反対の両者がつながっているから、壊す方も気を遣う。だからなのだろう、なかなか分解できないのは…。

 分解が終わると、村人は破片を手にして家に帰る。帰ると、すぐに玄関脇にこれを掲げる人がほとんどのよう。魔除け、災厄除けとして戸口にものを掲げる例は、長野県内にはそう多くない。以前記した節分のカニ柊は全国的によく知られたものであるが、伊那谷中部に分布する「かにかや」、また角大師をやはり節分ころに掲げる家は、伊那谷中部から南部にかけて多い。壊して、言ってみれば神送りしたものを拾って持ち帰り戸口に掲げる。戸口に掲げる例としては、珍しいモノかもしれない。

終わり

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「明治時代の正月行事」-『伊那路』を読み返して④(「かに」に関して)

2019-05-07 23:28:58 | 民俗学

「明治時代の正月行事」-『伊那路』を読み返して③より

 六日年の記述に次のようなものがある。「朝食前に蟹を書く。中折を小さく切り、神々や戸口毎に、炊たての飯粒で張る。縁起の為か賀荷・加荷・嘉荷・可仁・加仁などといろいろな文字を用いる」と。前回も触れたように、原信喜氏は上伊那郡南箕輪村大泉中宿家の正月行事を明治30年ころにさかのぼって回想している。「かに」のことは節分に関して何度か以前触れた。コトバンクには「六日年越し」について次のように記している。

正月6日に行われた正月行事の一つ。神年越し,女の年越し,馬の年越しなどという地方もあった。この夜の行事は大みそかに似たものが多く,麦飯を食べ,沢がにをちがやの串に刺して戸口にはさむ地方,「蘇民将来」と書いた札を戸口に張る地方や,ひいらぎなどとげのある木の枝を戸口に差したり,かに年取りといってかにを食べ,その鋏を戸口に差したりする地方もある。またこの夜,翌日の七草粥に入れる七草をまな板に載せ,神棚の前で包丁でたたきながら,「七草なずな,唐土の鳥と日本の鳥と,渡らぬ先に…」などと唱える行事は,東京でも近年まで行われていた。

 いわゆるいくつかある年越しのひとつになるが、習俗としては節分に似ている部分が多い。別称「かに年」とも言われるところも多く、この「かに」について独創的な展開をされているのは野本寛一氏である。野本氏は「生きもの民俗再考―サワガニ・ヒキガエルを事例として―」(『伊那民俗研究』25)において、環境民俗学の視点から、サワガニに関する習俗に焦点をあてている。事例としては節分に多いのは言うまでもないが、六日年に関する「かに」の事例もいくつか紹介されている。柳田國男が『信州随筆』の中で触れた「信州ではこれを六日正月、或は又蟹年とも名づけて、蟹を捕って来て門の戸に打ちつけ今ではその代わりに紙に描き蟹の字を書いて貼って置く習俗が、意味は判らぬなりにひどく目につく」という文も引用している。ようは長野県に特徴的だと言っているわけだが、さらに古くは天明4年の菅江真澄の『いほの春秋』にある、「いにしへ、かにを串にさしやじりて、やにさすわざも待りしが、いまはたえたると、ふるき人のかたりぬ」も紹介している。これは現在の塩尻市の小正月行事について記したものという。すでにその時代にあって「いにしえ」のこととしているから、ところによっては、ずいぶん昔に廃れた習俗ということになる。野本氏はもともと実物のサワガニを使っていたものが、サワガニの絵になって、さらに「かに」という文字に転換してきたと説いている。そしてサワガニの文字化標示について「「六日ドシないしは節分に標示する民俗がいかに特殊で個性あるものであるかがわかる」と述べている。ここからサワガニの採掘時期などを探りながら、年取りや節分における「かに」表示の意義に展開している。

 実は以前、飯田で働いている際に、会社にサワガニを唐揚げにして差し入れてくれる業者があった。パックにたくさんのサワガニが綺麗な色を見せて詰め込まれていたのだが、毎年差し入れてくれる時期があって、サワガニを捕って食べる習俗がこの地にあることを思い出した。とりわけ昆虫食については長野県独自のものがあるが、サワガニについてはあまり注目されていないが、確かにサワガニを食べる習俗も現存しているわけだ。野本氏独自の展開に教えられたところは大きい。

 いずれにしても、明治30年ころも文字の「かに」を書いていたことが、うかがえる記述である。

 

続く

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大久保の「口頭念仏」を訪ねて・後編

2019-02-11 22:50:47 | 民俗学

 以前「2月8日の行事を飯田市にみる」において次のように記した。

櫻井弘人氏は、第2回伊那民俗研究集会において、わたしの発表内でこのこと(「伊那谷のコト八日行事」というネーミングには違和感がある)について触れたことに対して補足を行った。文化庁には「飯田の」と名称を付して欲しいと願ったものの、聞き入れられなかったという。

 これまでにも何度か記してきたことだが、飯田市周辺で継承されているコト八日行事は特徴的で、さらにその周辺で行われている念仏のみの行事とは様子が異なる。例えば現在実施されている安曇野のオフネ祭りに関する選択無形民俗文化財の調査においても、穂高型のオフネとそうではないオフネを明確に分けて扱うことで共通認識を持っている。あくまでも穂高型を対象に捉えようというもの。これは選択無形民俗文化財の性格によるところで、調査する側が一定の基準を設けて区分けをするのも許されること。そういう意味では、飯田市周辺のコト八日行事と、具体的に言えば上伊那で継承されているものとは一線を引いても良かったはず。もちろん調査をする範囲として大きく扱うのは良いが、実際の行事内容を把握していない者が選択したと言い切れるほど、この選択は曖昧な事例に影響を与えているかもしれない。

 例えば前編でも触れた駒ヶ根市のホームページだ。「大久保のコウトウネンブツ」について「指定…国・記録作成等の措置を講ずべき無形の文化財(平成23・3・9)」と紹介している。大久保の口頭念仏が本当にコト八日行事なのかどうかについては、詳細に調べてみないとはっきりしたことは言えない。だからこそ選択無形民俗文化財なのだが、駒ヶ根市はこれを「指定」と標記している。確かに現在は2月に行われる行事だが、同ページでは「昔は節分の前日」と実施日について記している。昭和62年に同地区の中村文夫さんが記した口頭念仏の説明には、「おいしい味付けご飯に豆腐の入った味噌汁、イワシ(メザシ)、煮物…」と念仏後の食べ物について記している。イワシは節分に食べるものとしてよく知られている。ものによっては「豆腐汁」と記されていて、コト八日の食べ物と捉えられなくもないが、よく聞くと「豆腐汁」ではなく「味噌汁」だったと言われる。そして同説明には実施日のことは触れられていない。これは復活にかかわられた中村さんがまとめられたもので、そこには昭和62年から数えて「13年程前私が分館長のとき青少年健全育成会の事業の一つとして復活したいと思い始めたのです」とある。ようは昭和49年ころということになる。

 また数珠について前編で触れたが、書置きの中に手書きの次のように記されたものがあった。

口頭念佛用数珠について、先年大久保各常会にて行っていた口頭念佛も一時期とりやめたためにこの数珠を東伊那小学校へ寄附をし今日まで保管されていた来たが、この歴史的行事を続けていくためにも必要な品物のため小学校へお願いをし大久保自治組合に返品をしていただきました。紐等を直し今後永く行事が続くことを願い備品の一つとして保管してください。
平成15年2月 大久保自治組合長、大久保分館長

 この記録を見る限り、文化庁のまとめた『伊那谷のコト八日行事』の記載は間違っていると思われる。

 さて、地元でこれまで分館長を務められた方が書き記され、引き継がれている文書の中には、国の選択無形民俗文化財にかかわる説明をされているものがある。それら内容をうかがうと、「伊那谷のコト八日行事」として文化財に指定される旨のことが書かれていて、地元でもそうした説明をしていることがわかる。しかし、前掲の文化庁の報告書においても、調査対象にはされているが、コト八日行事と明確に言えるかどうかについては曖昧な書き方をしている。繰り返すが、「コト」とは何か、もう一度触れてみよう。

 コトとは節(せち)の国語的表現で、歳時の折目の意味。折目には多く神祭が行われるのでコトは祭事(神事)の意味も含み、また労働の折目に設けられる休み日のこともさす。(『日本民俗大辞典上』632頁)

 ようは「コト」と「八日」は別の日であり、あえて「コト八日」という以上2月8日、あるいは12月8日に限定された行事と言えるだろう。もちろん飯田市周辺では2月8日を中心に引き継がれるように展開する行事があって、日を追って実施される例があるが、これらは明確にコト八日行事と言える。ところが大久保の例は、現在のところはっきりとコト八日行事と断言できそうもない。上伊那においては「寒念仏塔」が夥しく建立されている。寒が明けるころに念仏の成就を願って建てられたとも考えられ、かつてこの地域で寒念仏が盛んであったと予測できる。寒が明けるころ、ようは節分のころである。そして上伊那には彼岸に念仏をするところも多かった。とりわけ大久保の場合中断していた時期があるだけに、コト八日行事のひとつとして扱うには早計だとわたしは思う。

 さて、この日は総勢18名によって念仏は唱えられた。昔にくらべれば子どもが減ったとはいえ10名を数えた。復活後は大久保一つにまとめられ、新たな口頭念仏が始まったとも言えるが、とはいえ確実ではないことを伝えてはならないと思う。

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大久保の「口頭念仏」を訪ねて・前編

2019-02-10 23:57:07 | 民俗学

 

 かつて「コト八日を探る⑨」で触れた駒ヶ根市東伊那大久保のコートーネンブツを訪れた。コートーネンブツを「口頭念仏」と記しているのは、数珠を納めている箱の表書きからわかる。なぜ「口頭」なのか聞いてみると「口頭伝承」からきているようだ。ようは口伝えに継承されてきたことからそう言われる。箱はだいぶ擦れているが、それほど古いというわけではない。同じ筆跡で「大久保分館」と書かれていることから、公民館分館が主催するようになった際に作られた箱だろうか。

 大久保では戦後昭和26、27年ころに最後まで残っていた本村の念仏も途絶えたという。そもそも大久保には北から田甫、本村、門前という3つの集落があった。それぞれに念仏があったと言い、はっきりしないが集落ごと実施日には違いがあったようだ。最後まで残っていた本村において、昭和45年から50年ころ、公民館分館が主催して念仏が復活したという。中断するまでは集落内の家を当番で回していたと言うが、復活後は最初から集会施設で行ったという。当時の箱の中に数珠を納めていたが、その後その数珠がなくなってしまって、念仏の途絶えていたところの数珠を譲り受けて今の数珠となっているようだ。ただし、文化庁のまとめた『伊那谷のコト八日行事』(文化庁文化財部伝統文化課 平成27年)には、「戦後一時途絶えた時に、数珠が行方不明になり、再開時には念仏が途絶えた地区で数珠を譲り受けようと探しに行った」とある。再開時に関わった方によれば、当時は昔の数珠があったといい、この調査報告とは異なっている。文化庁の報告書では本村の宮北修治郎氏よりの聞き取りで構成しており、複数の聞き取りをした様子はうかがえない。実際に子どものころ経験したことについては正確なのだろうが、再開後の聞き取りは曖昧な部分があるかもしれない。

 曖昧といえば実施日のことである。再開時に関わった方に聞いたところ、最初から2月8日ころ実施したと言うが、『伊那路』第38巻5号(平成6年)に下村幸雄氏が「大久保の口頭念佛」と題して報告した際には、「3月6日」と実施日を記載している。このことについて再開時の方にお聞きすると「ずっと2月8日ころやっているはず、それ(『伊那路』)が間違いではないか」と言われる。さらに以前にも記した通り、かつて別々に行っていた時代には、3月に実施していたという話も聞いた。また駒ヶ根市のホームページ「大久保のコウトウネンブツ」には、「昔は節分の前日常会(集落)単位で当番の家に集まって行い、村中廻って歩いたと云われており、その後「白飯」「豆腐の味噌汁」「いわし」がつきものの食事をとったとのことである。」と記載されている。「節分の前日」とあり、コト八日ではないのである。さらに曖昧と言えば、同ページに「伊那谷の南部を中心に残る節分に伴う「コト八日行事」は、2月8日あるいは9日に、コトノカミオクリあるいはオクリガミ、カゼノカミオクリなどと呼ばれる行事が行われ…」とあり、節分との混同が見られる。

 もう一度確認するが、再開時に関わられた方によると、明確に「2月8日に実施した」と言われるが、コト八日についての認識はまったくなく、あえて言うなら「事始め」のことは認識はされていたが、それがコウトウネンブツと関係しているとは言われなかった。

 さて、実際の行事を記しておこう。現在は2月8日前後の日曜日に行われているようで、主催するのは育成会だと言われるが、公民館分館と言った方が正しいかもしれない。なぜならばこの念仏を仕切られているのは分館長だった。ご存知の通り、分館の役員は毎年変わることから、念仏のことをあまり知らない人が多い。今年も念仏のやり方について主催側の方たちは分からず、毎年参加していると思われる方にやり方を聞いておられた。もちろんかつては子どもが中心に行われていたから子どもが最もわかっていたはずなのだが、今は主導するのは大人である。午前10時に念仏は始まった。

 かつては香炉に立てた線香1本が燃え尽きるまで念仏を続けたと言うが、長すぎるため、今は線香を半分に折って火を付けている。とはいえ、半分でも燃え尽きるまでには数え切れないほど数珠が回されることになる。数珠は右回りに回され、2箇所に木札が付いていて、それが回ってくると額にあげて念ずる。輪の中には年長の子が鉦を叩き音頭をとる。そして「コウトウネンブツ、ナンマイダー」を延々と繰り返すのである。線香が燃え尽きると分館長の合図で終りとなった。

続く

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ヒイラギのこと

2019-02-06 23:11:15 | 民俗学

 『長野県史民俗編』(第1巻(一)から第4巻(一)「日々の生活」)には、屋敷図が掲載されている。4冊で12枚だからそれほど多い事例ではないが、この屋敷図には、屋敷内に植えられた樹木名も書き記されている。事例として取り上げられているだけに、その地方の農家の代表的例と言えるのだろうが、当然のこと、屋敷が広い家が多い。その中で唯一、旧東筑摩郡四賀村中川金井の小宮山家の例に「ひいらぎ」が見える。南向きのホンヤの南側にクラがあり、その裏手になるのだろう、さまざまな樹木の中に柊が植えられている。

 屋敷内に植えられる樹木について、同書の中で特別に項目を立てて記したものはない。したがって地域的に屋敷内の樹木にどういうものがあったかについて知る由はない。本文内に「屋敷内にある森や林」という項があるが、そこに「ヒイラギ」は登場しない。

 『長野県上伊那誌民俗篇上』(上伊那誌刊行会 昭和55年)にもあまり詳しい記載はないが、「屋敷内の植木」の中の「その他の植木」内に「柊」の文字は見えるが、特別に記載されるほどのものではない。

 実は我が家にも柊の木が1本植わっている。亡くなった母が「屋敷に1本はあった方がよい」と言ってもらったものだが、好かないが仕方なく植えたものだ。なぜ好かないかと言えば、葉が尖っていて「痛い」からだ。さらに雑草を手で取る際に、柊の枯れた葉っぱは、枯れていても尖っていて、触ると「痛い」。ようは扱いやすくない木なのである。葉に棘があることで、「魔除け」とされるのはよく知られているようだ。「防犯目的で生け垣に利用することも多い」は、ウィキペディアにも記されている。棘のある木々を魔除けとするのは、そもそも人も寄り付きたくないから意図がわかるだろう。節分に門口にそれを掲げなくとも、既に日常から屋敷への侵入をを防ぐ意図で生垣にする人もいるという。とはいえ、扱いづらいから生垣に柊を見ることはほとんどないが、実際のところそんな家があったら、鬼どころか泥棒も入らないだろう。「かにかや」の「かに」は蟹、「かや」は榧とすれば、いずれも寄り付きたくないもの。もちろん全国的に分布する蟹柊も同様である。

 この節分に、周囲の様子をうかがったが、同じ自治会内に複数戸、今年も「かにかや」を玄関戸脇に貼り付けた家があった。そのうちの1軒は柊に鰯が掲げられていた。来年はそうした家を訪れて話を聞きたいところだ。ちなみに、以前紹介した中川村沖町で唯一と言われていた「かにかや」は、今年は実施されなかったという。今後も実施される確率は低い。

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節分に“燻す”

2019-02-04 23:39:10 | 民俗学

 

 「かにかや」については以前に何度か触れた。この節分前後には「かにかや」の検索数がとても多くなる。いまもって「かにかや」を検索する人が多いということは、「かにかや」をしている人もある程度いる、ということなのかもしれないし、かつて行っていた「かにかや」を思い出して検索される方もいるのだろう。

 一昨年節分後に訪れた松川町大島の大場さん宅を今年訪れてみた。あらかじめ時間を確認しに訪れると夕方暗くなるころとお聞きし、あらためて午後5時ごろうかがった。「続〝かにかや〟」で触れた通り、大場さん宅では節分に4つのことをされる。まず冒頭にも触れた「かにかや」である。あれから2年も経っているということもあって、当時新聞報道時に行事の中心を担われていたお孫さんも、こうしたことをするのには少し恥ずかしさが出てきたよう。あえて訪れたわたしのために写真のモデルになっていただいたが、2年前とは気分的に違うようだ。「かにかや」と書かれる和紙は、幅5センチ、高さ6センチ角ほど。ずいぶん昔に貼られたものが蔵の戸に残っていて、大きさはまちまちだが、平均的には今年使われた大きさくらいだろうか。聞けば息子さんが子どもだったころに貼ったものが今も残っているという。数えれば半世紀以上になる枚数が残っているから、当たり前かもしれない。3世代前のものまで残っているといってもようのだろう。とくに外的要因がなければ、1世紀くらい残っても不思議ではないと、蔵の大戸を見て思った。ちなみに貼られた紙に書かれた文字は、すべて「かにかや」であった。蔵の大戸、物置への入口の戸、もちろん玄関の戸、といったように戸のあるところにはすべて「かにかや」を貼るようだ(わたしの子どものころもそうだったから、珍しいことではないが)。ようは鬼が入ってこないように、という意味である。

 「かにかや」とは別に玄関の戸の脇には鰯と柊が飾られた。柊の枝に鰯の頭が3つ刺されていた。柊は屋敷の中に植えてあり、その枝が使われるという。そして今回見たかったのは、匂いの出るものを燻す行為である。コトエブシなどといって松本あたりでは盛んに同じような行為がコト八日に行われたと言うが、このあたりでは節分に行う。以前にも触れたが、コト八日行事が盛んなところでは節分の行事が希薄で、節分の行事が盛んな所ではコト八日行事が希薄だという印象がある。藁の束の両端を折り返して包んだようにしたところに、玉ねぎの葉やとうがらし、にんにく、ムシを入れる。昔は髪の毛を使ったと言うが今は入れない。船のように作られたツツッコについて、呼び名はないという。これを焼くことについて、先代からは「鬼退治」と聞いたという。「鬼ヶ島に鬼退治に行くぞ」といってこれを持って行って焼いたという。実際は、風呂を炊くオキをツツッコの上にかけて焼く。暗くなって焼くと、小さい子どもは「鬼が逃げるぞ」と言って怖がったという。

 節分の日の行為4つ目は、どこでも行う豆まきである。

 近在における節分の事例を拾ったものは『松川町の年中行事』(松川町教育委員会 昭和46年)くらいだろうか。そこに記載されている事例をいくつか引用してみよう。

〇(「かにかや」について)鬼(悪魔、いろいろの悪いこと、悪い病気、災難)が家の中に入ってこないようにするためである。
 かにははさみで鬼の目をつき、かやは榧と書き、火にくべると目が痛い程強い煙が出るから、これで農作物の病害虫を防ぐというまじないらしい。
 また、かにははさみで切り、ひいらぎやかやは葉のとげで鬼をさす意味だというところもある。
〇鰯の頭の部分だけを竹の串にさして、つばきをかけながら囲炉裏ばたで焼き玄関の横にさしておいた。鬼が来るとこのように首を取って火あぶりにしてしまうぞと見せしめにするのだと、年よりから聞いた。
〇かに・かやの紙のかわりに、ひいらぎまたはかやの木の小枝の先へむしたつくりの頭をさしたものを使う家もあった。
〇本物の蟹やかやや、ひいらぎの葉を門口にさしたのを略して紙に字を書いてはるようになったのだという。
 これらの意味について、蚊よけのため、虫よけのためということもいっているところもあった。
〇かに・かやの意味は、昔宮中で煤はらいのことを「かにはらい」という。節分は旧暦の新年を意味するから、この「かにかや」は去年一年の悪魔をすっかり払ってしまう意味とも考えられるという人もいる。

〇藁でつつっこを作り、中へこしょう・かみの毛・すす・(たつくりを入れるところもある)を入れ、夕方門口でいぶす。

 「かに・かや」について「紙のかわりに」という例もあれば「略して紙に」という例もあって、どちらが先か、という議論になるが、両方実施する家もあることから、紙に書くのが略された形、という見方が常識的かもしれない。

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