Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「飯山線の旅」

2024-05-05 23:54:59 | 信州・信濃・長野県

 先ごろ久しぶりに栄村を訪ねた際に、道の駅に「飯山線の旅」が置かれていて懐かしく思った、というより「今でも発行されているんだ」、そう思った。

 長い間記してきた本ブログの中で、「飯山線」と検索しても記事は極めて少なかった。飯山線に縁が無かったわけではない。盛んに飯山線を利用した時期があった。飯山に暮らし始めた最初の冬の時期、生家からはとても車では行けない(雪が多くて、そもそも車を停められない)と思い、電車で飯山と生家を行き来した。いわゆる当時は土帰月来だったから、帰りは良かったが、問題は月曜日にどうたどり着くかだった。とてもようは日曜日に出ないと飯山まではたどり着けなかった。ということで、この試みは数回で諦めた。無理をしても飯山まで車で行って、宿泊していたアパートの裏側に、無理をして車を入れ込んだもの。とはいえ、当時の雪の量は並ではなかったので、どうしたものか、今でもあまり思い出せない。別の場所に車を停めるという方法もあったのだろうが、そういう考えは思い浮かばなかった。当時のわたしは応用力に欠けていたかもしれない。会議があった際にも、飯山線を利用して長野まで出たこともあった。回数はそう多くはないが、飯山線は何度も利用している。以前にも記したが、飯山の人たちは飯山線のことを「汽車」と呼んだ。違和感があったのは言うまでもない。最初から電車だった飯田線界隈に住んでいる者には、「汽車」と言われれば、当たり前に「SL」が思い浮かぶ。したがってなぜ「汽車」と呼ぶのか不思議で仕方なかった。

 さて、「飯山線の旅」という冊子、もちろん今風のビジュアルな冊子に出来上がっているが、すでに52号を数えている。どうも1年に1冊発行されているようで、わたしが飯山に暮らした時代はもう45年ほど前のこと。ということでそのころ発行が始まったと言える。実は当時の「飯山線の旅」を持ち合わせている。何号か手元にあるが、最初のころのものは印刷もそれほど綺麗ではない。残念ながら創刊号は持っていないが、2号を持っていた。それ以外の「飯山線の旅」には発行年が印刷されておらず、この手の冊子の欠点でもあるが、2号には発行年が記されていた。昭和48年だという。ということはわたしが飯山にいたころには既に8号が発行されていたことになる。ということで手元には7号から数号あった。昭和47年に創刊されたとしたら、現在52号なら勘定が合う。やはり1年に1冊発行ということなる。こうした冊子がウェブ上のオークションに掲載されていたりする。ここに「飯山線の旅」2号の表紙と内容の一部を紹介する。縦版は1頁を、横版は見開きの2頁を示している。A5版の冊子である。

 

2号表紙

 

先ごろ「あのころの景色⑥」でも振り返った千曲川の渡し、当時はまだ運行されていた

 

 

 

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