Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ローカル線のこれから

2009-06-30 12:24:56 | つぶやき
 鉄道という縦割りされた空間は、JRという会社の管理空間であって、部外者には入れこめない空間である。ようは車が往来している道路とは大きく異なる。しかし、どちらも公共性の高い空間であって、その空間を個人的に利用するのは制限されるべきものなのだろうが、やはり鉄道と道路は全く異なる。道路の端で無人市を開くことはできるが、鉄道敷の駅のホームでそれをすることはできないのだろう。そもそも駅にしか停まらないのだから、駅ではない場所で開いても何の意味もない。そして駅のホームはそれほど広い空間ではないから、そんな場所で店を開くなんていうのも簡単にできるものではない。そもそもろくに客の乗っていない空気だけを運んでいるような飯田線のホームで物売りをしたところで買う人はまずいない。だからこそKioskですらめったに販売店を置かないのだ。

 かつてわたしの生家のあった駅には、駅を降りるとそうした乗客が立ち寄るような店があった。もちろん乗客だけでは商売にならないから、地域の住民も少なからず利用していたのだろうが、その店で売られているものはタバコと菓子、そして気休め程度の日用品だった。いわゆる一銭店的な存在だったのかもしれないが、いずれにしても駅前にあった店はその店一軒だけで、町の中の店ではなく、田舎にぽつんと看板もなく開いていた店であった。そういえばおばさんが同じ町内の別の地区に住んでいて、そこへ行く際も最寄の駅で電車に乗ると、二つ目の駅で降りて行った。電車とホームの間が数十センチも空いているような駅で、そこで降りて急坂を降りて行くと、四つ角に店があった。その店は電車を利用する人だけを対称にしているというよりも、むしろ地域の人たちを対象に食料品などを扱っていたから、わたしの家のある駅に比べれば店の構えも大きかった。そんなこともあってのことだろうが、数年前そこを通った折に飲み物を買った覚えがあり、「まだ営業をしているんだ」と思ったものだ。

 無人駅の多い飯田線の駅にも、こうして近くに店がかつてはあったものなのだが、今では多くの店が姿を消した。電車のマニアに限らず、電車でゆっくり旅をする人に、けして駅を降りて近くで里のものを手にしたり、購入するという人は少ない。よくテレビの旅番組ではそうした設定で沿線を紹介したりするが、あんな具合に電車を利用して地域に足跡を残すケースは稀な人だろう。

 ふと駅に電車が停まるごとに思うのは、そこに地域を知ることのできるスペースがあったり物を売る人がいたら楽しいということだ。実情はそんなものではないのだろう。わたしは全国のほかローカル線のことは知らないが、ローカル線の沿線でまるで道路を走っているようにその地域に触れられる路線があったら乗ってみたいと思う。単なる地域の足としての鉄道ではなく、もっと旅の想いをめぐらしてくれるような鉄道があっても良いと思うのだが…。特急クラスでないとない車内販売やもっといえばガイド役でボランティアが乗り込むなんていうのもある。JRという巨大な権力の主がそんなことを許してくれるはずもないが、例えば分割民営化された路線で、赤字覚悟でもっと楽しい路線を描いたら、きっと観光目的の乗客が増えるのではないかとわたしは思うし、地域も大事にしてくれるのではないだろうか。そんな楽しいローカル選を知っている人はぜひ紹介して欲しい。
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忘却の蓄積

2009-06-29 12:25:56 | つぶやき
 この土曜日突然県内の知人から電話があって、「今近くにいる」という連絡が入った。かつて「遙北」という同好会を組んでいたときの友人である。わたしの場合友人と言ってもそれほど何度も会っているわけでもないのにそう呼べる人がけっこう多い。いや「多い」というのは間違いで「多かった」の方が正しいかもしれない。そうした知人の中に亡くなった方が多い。年配の方たちにそういう人たちが多かったから自然と高齢で亡くなった方が多くなる。かつては自らそういう人たちにアプローチし、親交を重ねていく気力があったものだが、今はそうした余裕も気力もなくなってしまった。歳をおうことはそういうこと、なんていう説明をしたら年配の方たちにも、また自らと同じ世代の人たちに失礼だろう。かつてはそうした思いをしなくとも自由にいろいろできる身分だったというのが正しいのだろう。

 友人とわたしは同世代、年配で病で亡くなった方を介して知ることになった。30年近く前のことである。その亡くなった方が会社の中の歴史に興味のある人たち数人をまとめていて、付き合うようになった。とはいえ前述したように会ったことは数えるくらいである。亡くなった方の一周忌に会った以来の再会である。数えてみるともう10年を過ぎている。もちろん会うだけが交流というわけではないので、電話や手紙などの通信は行なっていた。同じ県内であっても彼は上田ということで、南信とはやはり縁遠い。わたしも最近は県内すら移動しなくなっている。かつてなら趣味の話で盛り上がったのだろうが、同世代ということもあって子どもの話が中心になる。娘さんはコスプレの服を自ら縫って、自ら描いた漫画を売りに行くという。将来は漫画系へという希望があるというから目標に向かって進んでいるようだ。わが家の目標もなく漫然と日々を送っている息子とは違う。

 今ではネット上にいくらでも情報が満載されている。先日の熱中人ではないが、その道の専門でもなかった人が、誰も目をあてなかったことを蓄積していくことで、そこらの学者でも認識していないデータを持つことになる。それができる時代背景もネットのもたらしてものなのかもしれない。それがなかった時代に比較すれば、そのデータの蓄積度を計るのにもネットの検索は良い方法となる。この時代だから、ある程度は情報量によってその認識度が計読み取れる。今回の円筒分水工熱中人とわたしとでは15年ほどの世代差があるのだろう。かつてという言い方をよくするように、わたしはろくに勉強もせずに外に向けてけっこうアピールしていた時代があった。その時代にネットというものがあったら、わたしの人生ももっと変わっていたのかもしれない。日々綴っているこうした日記も何十年という蓄積ができあがり、さらには熱中人にも値するほど、さまざまなデータ蓄積により熱心になっていたかもしれない。しかし、アナログ時代のデータは、ペーパーで埋もれてしまい、どこに何があるかはっきりしなくなる。それどころかこうしてすぐにオープンにできるという即効性がないから、結局書き留めずに記憶から飛んでしまった情報は大量にある。ようは忘却の蓄積をしてきたようなものだ。この時代を羨んでいるわけにもいかないが、記憶が飛ばないようにせいぜい過去を思い出して書き留めるだけである。
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「農のあした」から②

2009-06-28 20:07:40 | 農村環境
「「農のあした」から①」より

 有賀功さんは前回触れた四つの農家が農村が担ってきた役割をおさらいすれば、団体営農(営農組合・農業生産法人・大農家・営利会社など)ではこうした機能を担えないのではないかと言う。「この問題は、子供の教育にも深くかかわります。幼い時から暮らしの中で生き物の成長・成熟、家族の勤労を見、またみずから仕事を手伝って育つことにより、生命の尊さ、人の生活の実相を体得することか、良識ある国民をつくって来ました。これと同じ効果を、別途に企画して求めようとすれば、莫大な経費が必要になるでしょう」と言う。こういう視点は認識されているものではあるが、重要なものという捉え方はなかなかされてない。それは現金を稼ぐことが生きることとなった現代において、日々の暮らしにも最低限の収入がないと先を語れないという余裕の無さがあるだろう。トータルに見れば確かにそういうことが解っていても、だからといってそれに代わるもの、代わるシステムとはどういうものかという議論はないし見えもしない現代である。

 有賀さんはこれからの農家の姿をこんな風に予想している。「大農家はいずれ法人になり、いずれにしても団体・組織の支配する世界になるので、農家のいる所はなくなるかに見えます。しかし、日本農業の低収益性と、季節による労働の繁閑の偏りから、団体・組織も常勤サラリーマンを多数抱えるわけにはいかず、土・日曜や季節限定の労働参加が普通になるでしょう。すると、そういう需要にこたえる働き手の生活形態としては、今までの形に近い兼業農家が最もふさわしいわけで、こういう位置づけの「農家」が最後に少数残って、長続きするかも知れません。ただ、この段階の農家は、これまでの農家とはかなり様相が違う、言わば農家色が薄まった農家になるだろうと予想されます」と。このあるがさんの予想する世界で「農家」とはどういう定義なのか、今と同じものなのかははっきりしない。今と同じものとすれば、農業をしているからといって農家ではなく、職業として農業を行っているだけの事で「農家」ではないように思う。例えば企業に勤めるような農業人に収穫の感謝祭もないだろうし、百姓正月もありえないのではないだろうか。稲刈りが終わったからといって鎌休みもないし、辰の日に稲を植えてもなんら不思議ではないかもしれない。有賀さんは農家をなくすな、そして増やした方が良いという。もちろん「農家」の定義というものはあるが、その定義では計れない時代がやってきているともいえる。そもそも「家」という字はサラリーマンにはつかない。「商家」というものはあるが、今やその商家も絶滅危惧といえるだろう。ようは家人が構成する職業、家の者皆が関わって成り立っている職業だからこそ「家」が当てはまる。江戸時代における「武家」もまた総合的な個人ではない仕組みの存在である。「家」というものがなくなってきたこの時代において、農の世界に「家」を取り戻すことはもはや出来ないのかもしれない。
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円筒分水熱中人

2009-06-27 22:35:13 | ひとから学ぶ
 今日のBS2の熱中時間には金山さんという円筒分水熱中人が登場した。ふだん気にしている番組でもないのに、放送時間前に認識していたのにはわけがある。先日西天竜土地改良区に岐阜県の曽代用水土地改良区の人たちが視察にやってきた。その視察の場にわけあって同席した。それまでまったく知らなかったのだが、曽代用水にも円筒分水工があったという。しばらく前にそれは無くなり、今は電動で分水する施設に変更されたと言うが、それまであった円筒分水工はずいぶん大きなものだったようだ。金山さんの説明に従えば、全面溢流式というもので、円筒の上を越流して落ちるもの。円周の比率によって分水するのである。曽代土地改良区にとっては自ら水利区域に円筒分水工があったということで、この円筒分水工に興味があったのだろう、西天流土地改良区を訪れたのである。その席に同席するということで、少し円筒分水を検索していたら、ご本人のページに熱中時間に登場するとあって番組を知った。グッドタイミングというか偶然のような話である。

 西天流の円筒分水工については今までにも水利のことも含めると何回か触れてきている。ちょうど以前にも触れた円筒分水工を見ていただいたが、きっと曽代用水のものよりはずいぶん小型のものだろう。分水している水量そのものが少ないから当然施設も小さくなるということになる。

 さて、世の中にはいろいろな熱中人がいる。金山さんの円筒分水熱中歴は5年というから、それほど長いものではない。しかし熱中する人たちは毎週のようにこうした施設を回っているのだろう。その蓄積は長くはなくても一気に増えていく。見事なものである。わたしが気になった熱中人に触れたのはこれで二人目である。しばらく前に盛んにここでもとりあげた廃村の熱中人であるHEYANEKOさんに次ぐ金山さんである。けっこうわたしの関係している分野にそんな人たちがいると、ずいぶん身近に感じるものだ。番組では高森町の竜西土地改良区の管理している円筒分水工を訪ねるところを取材していた。金山さんは分水工を撮るだけではなく、そこから下流まで水路を追うのも趣味のようだ。そして七つ道具なんだろうが脚立を取り出してそこに上って写真を撮影していた。実は円筒分水工を撮影するには脚立は必需品なのである。全容を高い位置から撮影するには、地上に立ったままだとなかなか表現できない。とくに西天流もそうだが、分水工の周囲にフェンスが廻らせてあるとどうしても邪魔になってしまう。だから脚立が欲しくなるのである。

 西天流の円筒分水工は紹介されなかったが、ここに三つほど紹介しておこう。


■1号乙分水工
 辰野町羽北保育園の脇にあるもので、見た目はけっこう新しく見える。昭和初期に造られたというものが多いが、円筒の蓋に飾りがないだけに近年補習されたもののよう。円筒の直径は3.4メートル。


■7号分水工
 中箕輪の藤森さんというお宅の南側にあるもの。円筒の天端が額縁風に飾ってある。これは昭和初期のもの。ずいぶん痛んでいてそう遠くないうちに改修されるかもしれない。円筒の直径は4.5メートル。


■30号分水工
 南箕輪村の北沢さんというお宅の北側にあるもの。扇形であって円筒という名前からすると少しばかりイメージが異なるが、けっこうこういう形のものも多い。二重三重に側水路が連続していてその筋の人には好みかもしれない。
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無知ではないと思うが

2009-06-26 12:50:11 | ひとから学ぶ
 ばかだろうが田舎者だろうが地域エゴだろうが言われれば良い、という具合に先日「迂回したらいい」で述べた。リーダーたちとして何が益になりうるかを考えるのは当たり前のこと。批判などは誰にでもどんな状況でもあるもの。とくにこれだけ世の中が口すべりな状況になってくると深い知識などなくとも、そして深い思いなどなくとも言葉は発せられる。しかしそのいっぽうで口にしてはならないことというものもあって、同じ話し合いの中にも表裏が見え隠れする。役所と住民の話し合いなどというものはそんな駆け引きがあったりする。いや役所だけではないだろう、どこにでもある。果たして本意は、あるいはその裏に蓄積はあるのかと思っても、答えは鸚鵡返しのように進展しない。これもまた日本人らしいといえばそういうことなのだろう。

 長野県議会でやはりという感じにリニアに関する質問がいくつか出ている。リニアに惑わされて大事なことを失わないようにという言葉もある。むしろ南北横断鉄道を整備して連絡し易いようにした方がよくないかといったもの、また並行在来線として中央線や飯田線が廃止の道をたどるのではないかというような危惧。知事の答弁はいずれも表面的なものであって、「本当にその程度の意識なのか」と問いたくなるような内容である。冒頭でも述べたように、益を考え何を言われようと主張すれば良いといったが、何も前方が見えずにただ主張していても結果は得られない。知事も含めリニアに対して、実はそれほど重視していないということなのかもしれない。そもそも平行在来線と捉えられたらどうするのかぐらい頭の中に入れてBルートを主張するのなら良いが、人事のように「今は何も解らない」というようなことしか言わない。ふだんの議会の答弁もそれほど深いやり取りがないのだからこんなものなのだろうが、だからこそ表に無い蓄積があるのだろうと想定したくなるのだ。以前にも述べたが県議会こそ何の役割があって、何を県民のためにしようとしているか見えないところである。こんなものが必要なのかと思うのは当然であって、市町村議会で道州制に反対している人たちが多いようだが、こんな県議会を見ていると、県をなくして道州制にした方が無駄な場面が省けると思うのだが…。

 さて、知事の認識のなさはもちろんだが、横断鉄道を整備しろとか飯田線の複線化をしろとか言うが簡単には言えないことだとわたしは思う。そしてそれらを網羅して知事たちはBルートを主張しているとわたしは思いたいのだが…。飯田線の距離は200キロほどある。ローカル線では最長というのはよく知られている。数年前から駒ヶ根-小町谷間に鉄道の下をくぐりぬけるアンダーパスの道路の工事をずっとしていて、いまだ完成していない。予算付けが少ないのかもしれないが、既存施設を利用しながら拡張工事をすることの難しさは、新設するよりははるかに高い。既存在来線に併設して複線化するとしてもその工事は高度なものになるだろう。ましてやただでさえカーブが多く、軌道の耐力もそれほどない路線をそのまま利用して高速化などというのもなかなか難しい工事である。全線を複線化するとしたらリニアに匹敵するほど金がかかるかもしれない。まさか飯田まで複線化すれば良いと考えているのならこんな袋小路に駅を造るメリットはない。飯田線はJR東海、それより北はJR東日本という分割の駆け引きもある。そのくらいは認識して実益のあるやり取りをしてほしいものだ。
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それでも当選する人

2009-06-25 12:19:07 | ひとから学ぶ
 遠い地の話なのでそれほど興味もなかったが、「またか」のようにインターネット上のニュースに登場してくるので、少しのぞいてみた。これは鹿児島県阿久根市でのことである。現在の市長は二期目であるとはいうものの、初当選は昨年の9月のこと。まだ一年にも満たないのにすでに二期目なのである。かつての長野県知事と議会のもめ事も群を抜いた異常さであったが、それを上回るほどの市政停滞である。詳細まで追いかけていないが、ブログ市長と言われる竹原信一市長が市職員との対立を前面に出したことに始まるようだ。最近は市職労の50m2の事務所の退去を命令して対立が深まっている。そもそもブログに市の職員の悪口を書いて、市民の共感を得るなんていう手法はいかがなものだろう。わたしもこの日記に会社の悪口のようなことを書いているが、わたしの場合は実権の無い者が言う場もなくほざいているだけのこと。しかし市長ともなれば立場は全く異なる。いきなり身内のことを掲示板に告発しているようでは収拾がつかなくなるのはあたりまえで、信頼のおける市政には至らないとおもうのだが、再選を果したというのだから、市民はそれが正しいと思っているのだろう。

 市職労に出て行けと言っている理由は「市役所の過剰な人件費を削り、給食費無料化や保育料補助など福祉政策を充実させる」という公約に沿ったもので、職労の事務所を市民の税金で維持している空間には必要ないという考えなのだ。これに喝采を送る時代になっているのも公務員のつらい時代を映し出している。身近でも公的施設内で職員が飲み物を飲んだらそれは適正な場所に自ら処分することという環境になりつつある。そのうちに個人のものは持ち帰れということにもなりかねない。昼をとったらそのゴミを役所内のゴミ箱には捨てない、といった具合に。そのくらいならもっと言わせてもらえば、排便したら持ち帰れということにもなる。それら個人の排出物は税金で処理されている、ということになる。ここまできたらもう驚きの世界である。そもそも報酬の中身とは何かということにもなっていく。排便費用1ヵ月いくら、ゴミ処分料1ヵ月いくら、という具合に給与明細から引けば良いなんていう意見も出てくるだろう。それでもって、例えば阿久根市の懇談会での要望「市の行事について、市職員は振替や時間外でしているらしいが、ボランティアで頑張ってほしい」なんていうのはこの竹原市長なら頷くかもしれないが、到底働いている者には受け入れられなくなるだろう。働いている者の権利などほとんど剥奪されていく。それでもって、竹原市長はブログで「辞めさせたい市議」の実名アンケートをとったり、全職員の給与を匿名で市ホームページなどで公開したりと人の心を踏みにじるようなことをやる。まともな市役所になるはずもない。

 近ごろはトップが代われば大政奉還のごとく空気が変わることが目立つようになった。そしてこんな阿久根市のような事例をみていると、そのうちに市長が変われば職員も総入れ替え、なんていうことが起きかねなくなる。あくまでもトップは変わっても組織を実働させている人々は変わらない。その変わらない人たちをどう導いていくかが問われるものなのだが、今やそうではなくなりつつある。

 騒動になっていることから大きな市なのかと思えば人口は2万4千人ほど。近くに同じような規模の市がないかと見渡したとき駒ヶ根市が浮かぶ。駒ヶ根市は人口3万4千人で阿久根市よりは1万人ほど多い。面積は駒ヶ根市166km2に対して阿久根市134km2と少し駒ヶ根市が大きい。しかしそれほど変わらないといって差し支えないだろう。そんななか阿久根市には小学校9校、中学校4校、いっぽう駒ヶ根市には小学校5校、中学校2校である。ホームページを見ると市長の交際費執行状況というものが公開されているが、これを「見事」と思うか「くだらない」と思うかである。そもそもこんなことを公開する手間が必要なのかと思うとともに、学校のことはその一例で、ほかにやらなくてはならないことがたくさんあるのではないだろうか。実働する職員と上手くやれないでどうするという感じがしてならない。
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「農のあした」から①

2009-06-24 12:27:25 | 農村環境
 「長野日報」において「農のあした」という連載をしている。南箕輪村北殿の有賀功さんというもと農林中央金庫森林部長だった方が「日本から農家をなくすな」と題して連載のトップを飾った。有賀さんが見てきたものはほぼわたしの見てきたものと等しいと共感する部分が多い。つきなみなことではあるが、農家の担ってきたものとは何かを有賀さんの言葉を借りて、まず振り返ってみよう。

 まず農家が担ってきたもの四つを取り上げている。

 一つは「農業生産の維持・拡大」というものである。「少し前まで日本の農家は、どんな条件が悪い所でも、およそ耕せる限りの土地は耕し、栽培が可能な限りの季節は何度でも作付けし、ありったけの労働力を使って生産を挙げて来ました」と言う。今の水田農業はまさに現代的な政策の産物であって、広大な土地は1年にたった一度だけ利用するために存在している。コメ農家が規模拡大に次ぐ拡大で工場空間のごとく均一化されていったことは言うまでもなく、その最たるものは乾田化というものだっただろう。乾田にすることにより機械化が可能になるし、作業コストも下げられる。そして減反政策の中では転作させるための条件整備という名目を一手に負った。かつて開田を目指していた土地改良は、一瞬にして転作のためのものに変わった。そのころからだろう、水田の利用方法が画一化、均一化されていったのは。よく言われる棚田風景と言われるが、確かに水稲が植わっている姿が景観として評価されるのだろうが、はたしてそれは長い時間そうした姿を見せ続けてきたかというとそうではないだろう。平地農村の水が豊富なところでは水田耕作が容易だっただろうが、山間地域にあっては水か無くて今のような景観(先般「景観」について触れたので、あえてここでは「景観」を意識的に使わせてもらう)さえ古き時代には望めなかったこともあるだろう。まずは生産が優先された時代である。工夫できる限り工夫されて、狭い土地でも多くを生産してきた。無用の長物のごとき耕作地と化している現代とは意識も何もかも異なっていたといえるだろうが、それは戦争と同じくそれほど昔のことではないのである。

 次に「包容力」という表現で「社会の安全装置の働きをしてきた」と農村のことを取り上げている。「農業に不作や思わざる損害は避けられず、農家はそれに耐える準備と心の強さをがないと経営を続けられません」といい、そうした心の強さは先の大戦で戦災者や引揚者の空腹を包容力で補ってきたというのである。また「老人・子供の一人前でない労働力や、ちょっとあいた時間という断片的な労働力も役立てることができます」とその柔軟性のある社会に「包容力」と名づけているのである。そしてこうした問題を抱えたとき、団体営農、いわゆる営農組合や農業生産法人のような組織的営農やもっといえば今後期待されている企業参入組にしてもそうした包容力はもっとも苦手な部分だろうというのである。

 三つ目に挙げているのは「農業の多面的機能」という最近よく耳にするものである。食料等の供給という部分だけではなく、国家社会に対しての機能を果たしているというもので、その例として国土保全とか洪水調整、水源涵養といったものはごく一般的に知られたものである。そして「ここで大切なことは、これらの機能は、農家が日々生業を続ける中で自然に果されて来た、ということです」と言う。まさにその通りで、それは意識的にされてきたことではなく、ひたすら生業を続けることがそのままそうした連鎖を招いていたわけである。現代におけるさまざまな意図的活動は、本来そのようなことはしなくても継続されるはずだったのだ。

 最後に「国民の心性、教育」というものである。「自然・生き物を開いてとする農業によって、日本人は独特の心性を形造ってきました。これもいちいち話すと長くなりますが、物事をよく観察し、自分の目と頭で判断する、相手を思いやる、ひとと仲良くする、勤勉、自立、物事の全体をみる、また長期的にみる、等々です。高度成長期に日本的経営の優れていることが協調されましたが、その基礎はやはり日本農家の長年の蓄積にあったと考えられます」と言う。いまさらながら何を、という意見もあるだろうが、日本人と区切らずともわたしたちは生活の中で多くを学び、それは一生涯の糧にして生業にも社会の一員としても役立ててきたことは確かなはず。ところが今は生活の中で学ぶものがなりわいにしても社会の一員としても役に立たなくなってきたといっても差し支えない。それほど生業は生活から離れたものになってきたといえるだろう。

 続く
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自分の描く風景

2009-06-23 12:26:33 | 農村環境
 「「景観」とは何か」より

 毛利文陽氏の景観意識調査結果から述べているが、伊那市西箕輪での結果にもう少し触れてみよう。毛利氏は自然性、眺望、親しみやすさといったものが評価を高める要因になると説いた。いっぽう人口構造物が見える景観に対しては評価が低くなる。自然でなくてはならないという意識そのものが「景観とは何か」へ後戻りする。そもそも景観とは人の手によって操作される風景といってもよい。とすれば人の手の加わった形で捜査される風景の中で、こうした評価によってそれらは選択されていくものなのだろうか。やはりこの意図にはどうしてもなじめないものがある。もちろん既存の景観を維持していこうという中から、地方によっては発信し始めるわけだが、だからといってその意図がこのような分析の上に成り立った操作で創られていくのは、むしろ地方を画一化していく恐れすらあるわけだ。前回も述べたような地域性とは何かと問う際、画一的な景観イメージを当てはめてしまうことは危険なことなのである。確かに眺望とか自然性といったファクターを持って、地域を紹介しようとすると、トリミングされた画像よりも広がりのある空間の方がよその人に対してのイメージ表現はし易い。しかし景観によってよその人にアピールする必要があるといってしまえばそういうことになるのだろうが、自らの地域を維持しようと言う考えに打算的なものは取り入れて欲しくないわけである。またそういう画一的イメージでないと「景観」では無いと思ってしまうのはとても残念なことなのである。

 地域らしさを示す因子を持った景観には農地や宗教に関するものがあったという。それらは評価は低くなかったものの、眺望や自然性といった因子のものよりは高く評価されなかったと毛利氏も述べる。ようは「景観」を考えるのなら、住民にとっても景観というものどう捉えるか学ばなければならないのではないかと思えてくるのだ。

 毛利氏の論文が掲載された『伊那路』629には合わせるように「身近な地域の調査~西箕輪ウォッチング」という西箕輪中学での社会課授業の取り組みを水上俊雄氏が紹介している。学習して思ったこととして生徒の言葉が取り上げられているが、盛んに「きれいな景色」とか「景色がいい」という言葉が登場する。もしかしたらここに書かれる前段の授業のやり取りが抜け落ちてしまっているために感じるのかもしれないが、では「きれいな景色」とはどういうものかと共通認識、あるいは個々の認識は定められていたのだろうか。大人も含め、わたしたちは情報化という社会に引かれてしまって地域の姿をもっとトータルに見つめなくてはならないと思う。もちろんこの誌面上から感じたものであって、きっとそうした背景も十二分に煮詰められているものだと思うが、こうした活動表現は、あたかもわたしたちの共通概念に集約されて紹介されてしまうことが多い。

 さて、わたしは電柱とか家とか、そしてそこに登場する人々のいる風景が好きである。そういう写真が撮れる人がうらやましい。ところが人のいるところでカメラを構えるというのは勇気のいることで、やたらに人にカメラを向ければ嫌がれる。そして意識しない写真を撮ろうとすれば、結局こちらを意識させないようにしなくてはならないわけで、そういう環境は作りづらいのである。あなろぐちっくさんの日記は写真で綴られるページで、けこう人のいる風景が多いという印象を持っていた。そこでずっと過去へ向かって検索していくが、実は印象ほど人は写っていなかった。そして気がついたのは、さすがに撮り慣れた人だとは思うのだが、写しだされた人は多くは後姿なのだ。この方が写真としておさまりが良かったり、プイバシーという面で良好なのだろう。人だけではない都会の姿も景観という言葉は似合わないかもしれないが人の世を映し出す風景だ。あなろぐちっくさんの「RD-1」に掲載されている写真にわたしは引かれる。また「親子遠足」にある写真は飯田市座光寺て撮られたもの。わたしはこの風景に電柱がいらないとは思わない。人の生活の中にわたしたちは居る。その人の生活とそこに造りだされた風景に、わたしたちは親しみを持って、そして「景観」などというものに惑わされない自分の風景を描くことを忘れてはならないのではないだろうか。


※以下は「あなろぐちっく」さんの写真から
「四谷」
「親子遠足」
「R-D1」
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総務省のドラえもんポケット

2009-06-22 12:25:29 | つぶやき
 下伊那郡内の各町村で「定住自立圏構想」における協定が議会で可決され始めている。実はその議決において、どこの町村も共産党議員だけが反対票を投じるとというかたちで可決されている。19日に下條村が可決して、これで1町2村が可決に至っている。下條村の反対意見をみると「『中心市』の飯田市主導になり、町村自治が守られるか分からない。慎重に時間をかける必要がある」というものである。

 地方紙自治に少しでも興味のある人はその内容を少しでも解っているのだろうが、おおかたの一般住民には何のことかさっぱりだろう。そもそもこうした動きは国が働きかけるものであって、それも一般住民に対して投げかけているのではなく、自治体に対してのようは補助金を飴としてちらつかせているようなものなのである。わたしの町でも「道州制につながるのでは」「対等性は保てるのか」といった内容を町長に投げかけた議員がいた。これもまた共産党議員である。

 では「定住自立圏構想」とは何なのということになる。町のHPには次のように紹介されている。

○私たちが住んでいる飯田・下伊那地域は、雄大な自然の中で独自の文化を築きあげ、古くから交通の要衝として栄えてきました。最近は三遠南信自動車道、リニア中央新幹線といった新たな動きがあり、地域発展の可能性も期待されます。しかし、少子高齢化、人口減少、地域経済の低迷など厳しい社会状況の中で、この地域を持続的に発展させ、後世に引き継いでいくことは容易なことではありません。
○国も同様な状況で、広範な支援が期待できなくなる中、それぞれの市町村が単独で生活機能を整備していくことは難しくなることが予想されます。
○定住自立圏構想は、圏域の中心となる「中心市」と「周辺町村」が必要と
する個別のテーマごとに、1対1の協定締結を積み重ねていくことで相互の
利益を生み出していきます。市と町村がそれぞれの特色を活かしながら、生
活に必要な機能を「集約とネットワーク」の考え方で役割分担し、自立した
生活圏域を構築していくものです。

というものである。わたしなりに解釈すれば、平成の合併が収束宣言の後、とくに小泉時代に締め付けを受けた地方に対しての補足的な政策と言ってよいのだろう。この政策も最近辞任劇で話題になった総務省の企みである。わたしたちの生活空間を左右するような政策を発信する、実はわたしたちに最も身近な省といっても差し支えない。合併も総務省、もっといえば合併以前に動き出していた広域連合という企みもこの省である。今回の定住自立圏構想というものを総務省のHPから探ってみると、やはりと言う具合に三大都市圏ではなく地方を優先した政策である。その政策の内容の中でいくつか気になるものを拾ってみる。「医療」という分野を見ると「病院と診療所の役割分担による切れ目のない医療の提供、地域医療を担う医師の育成や派遣、ICTを活用した遠隔医療その他の医療を安定的に提供できる体制の確保等に向けた連携」とある。良く受け止めれば最近の医師不足の中で、中心市が医師を確保して周辺自治体へも医療サービスを展開していくと取れるが、悪く取るとただでさえ中心市の医師が不足している中では役割分担という名目で中心市以外にある病院はサービスを切られる可能性もある。そして「宣言中心市等における人材の育成」という部分で「宣言中心市等における外部からの行政及び民間人材の確保」という考えを当てはめていくと、周縁部が中心市のために役割を担わなくてはならなくなるという印象も浮かぶ。

 もちろん悪く取ればということで、交通網に関してみれば、現在は自治体ごとにバス路線を巡回させていたりしていて、空っぽのバスが走っているのが実情である。広域的な取り組みでそうしたことが解消される可能性は高い。地産地消という考えも広域的な方がより材料の提供は広がる。ただ広域サービスという名の下で集約されてさらなる周縁部の過疎が進むということが予想されないわけではない。地元の議員が「道州制につながるのでは」などということを言ったが、そんなレベルよりももっと身近な部分で問題を孕んでいる可能性もある。もっといえばなぜこうも総務省は次から次へと広域的行政に向けた施策を引き出しから出してくるかということである。広域連合とどう違うのという疑問を誰でも持つだろうし、合併と、そして今回の定住自立圏構想とどこがどう整理されているのかと問われればそれを答えるられる人は少ないだろう。簡単に言えばこうした飴を用意してそれに飛びつく魚たちを待ち構えているようなものなのだ。もちろん財政難の中で、補助金が欲しいと思っている行政関係者が多いのだろうが、そんな飴に飛びついてしまったせいでこんな世の中になってしまったことをみんなどこかで知っているのに、結局は金に弱いのである。飯島町町長がこの定住自立圏構想に対して議会で問われ、消極的姿勢を示した。その中で「スタートしている下伊那地方での協議をみると問題も多く、慎重な対応が必要」と答えている。実はこの中心市の用件に飯島町が属している上伊那南部地域だけでは当てはまらないというのが本音なのだろう。中心市宣言の用件に「人口が5万人程度以上であること(最低でも4万人を越えていること)」というものがある。ようは上伊那広域圏でないとそれを満たさないわけで、住民サービスという連携から考えると上伊那では合意できない内容になるだろうし、同じ地域に二つ以上の市が存在していれば同じような駆け引きが生じてしまうはずだ。

 さて総務省の次なる引き出しには何が入っているのだろうか。

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 ちなみに総務省のHPでは「広域連合とは」という答えを記載している。そこには「広域連合は、様々な広域的ニーズに柔軟かつ効率的に対応するとともに、権限委譲の受け入れ体制を整備するため、平成7年6月から施行されている制度です。 広域連合は、都道府県、市町村、特別区が設置することができ、これらの事務で広域にわたり処理することが適当であると認められるものに関し、広域計画を作成し、必要な連絡調整を図り、総合的かつ計画的に広域行政を推進します」とある。 この後合併問題に直面した市町村は、広域連合の取り組みは何だったのかと思ったことだろう。そして合併騒ぎが終わった。わたしの町ではこの定住自立圏構想に医療分野で期待しているのだろうが、前述したように中心市主導で逆にサービス低下にならないことを祈るだけである。
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河野義行さん

2009-06-21 19:38:34 | ひとから学ぶ
 昨日テレビ信州のスペシャル番組で「あなたならどうする 討論!始まった裁判員裁判」という番組が放映された。わたしは「死刑」判断はしないという河野義行さんは、松本サリン事件において犯人扱いされたことでよく知られている。奥様は長年の看病もむなしく松本サリン事件最後の死亡被害者となった。河野さんは、自ら「わたしには裁判員の依頼が来ない」というほど死刑廃止を主張する。ウィキペディアにおいても「オウム真理教の被害者にしては珍しく、死刑に対して慎重な考えを持っている。理由として、オウム真理教の被告人を死刑にすることで、「殉教者」になることを恐れていること、殺人を起こす人が刑法の規定を理解した上で殺人を犯しているわけではないことを挙げている。また、麻原彰晃のことを「さん」付けで呼び「教えは間違っていた」と声明を出してほしいと著書の中で訴えている」と説明されている。

 わたしは河野さんのことはあまりよく知らない。しかし、河野さんのことばにはけっこう納得させられる。一冊も河野さんの著書を読んだことはないが、好きな人の1人である。その言動には宗教者並みの悟りのようなものも伺えるが、わたしは特定の宗教を信仰しているわけでもなく、宗教に対して特別な思いは何もない。ただどんな宗派に属している人のことばであっても、わたしの心を打つ言葉にはその背景はどうあれ支持したいと思っている。それを「いいとこどり」と言う人もいるだろうし、八方美人と言う人もいるかもしれないが、だからこそ特定の宗教はもちろんのこと、いまだここはと思うような政党にも遭遇したことはない。

 河野さんは番組の中で犯人を恨んでばかりいれば自分は不幸になってしまうから、そういう捉え方は自分はしない、と言うようなことを言われた。きっとそれが故死刑に対しても肯定しないのだろう。被害者遺族の気持ちを考えれば「死刑も当然」と言う世論が強いなか、河野さんのように実際の被害者が死刑に対して慎重な考えを持っていることは、少し明かりを感じる。そもそも被害を受けようとも、犯罪者を恨んだところでどうにもならないというのが現実である。当事者じゃないからそんなことが言える、などと批判されるだろうが、人を恨めば自らも不幸に陥る。「しょうがない」という言葉をわたしはよく使うが、殺人に「しょうがない」はないだろうが、とはいえ、亡くなった人はけして帰ってこない。その現実をどう受け止めるかということである。世の中には不幸な人たちはいくらでもいる。しかし、だからといって自らその不幸の中で悔やんでも仕方が無いのである。

 田中康夫前知事が冤罪被害者の河野さんが長野県警糾弾の先鋒になることを期待して公安委員に任命されたが、田中知事と対立して公安委員を更迭されたことがあった。「悪」は悪であることは間違いないが、だからといって白黒はっきりした世界は必ずしも幸福をもたらせてくれない。きっと河野さんはそんなことを理解しているようにわたしは思う。自らの冤罪に対しても「当時の捜査において他殺と断定できなかった事はやむを得なかった」と判断したことも、河野さんならではの判断である。間違いが無くなることはないが、間違ったことを素直に認め、謝り、そして経験を積んでいくことが人間の学習力だと思うのだが、実はこのことをわたしたちは最も忘れているのである。例えば民主党前党首小沢氏に対して政治による警察の介入と批判する民主党は、やはり「認め、謝る」ということを忘れているわけであって、けして自民党を批判できるような党でないことは十二分に解るわけである。もちろんだからといって自民党も同じコトを何度も繰り返してきたわけで、こういう例は政治に限らず日常の出来事として毎日繰り返されているわけである。そういう意味では河野さんの捉え方こそ、わたしたちの世の中に浸透してほしいものであるとわたしは思っている。
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用悪水路

2009-06-20 19:43:43 | つぶやき
 わが家の北側には小さな水路がある。夏場は時に枯れたりするからいわゆる灌漑用の用水路ではない。用途は周辺の湧水あるいは排水を集めて下流へ流している排水専用のものと言えるだろう。排水というとどこか汚さが通じるように、この世の中では下水と等しいほどの厄介者ということになるだろうか。だからというわけではないが、この水路敷は登記上「用悪水路」という地目になる。「排水」ならまだしも、いよいよ「悪」ときたものだ。土地登記上の地目には21種類がある。あまり聞きなれないものがあるからこんなにたくさんになるが、通常の農村でもせいぜい田、畑、宅地、山林、原野、雑種地ぐらいが一般的で、あとは墓地、境内地、ため池、公衆用道路に前述の用悪水路が加わる。水気のある地目としてはため池か用悪水路くらいしか浮かばないのである。ではなぜ世の中にたくさん存在する用水路なのにこの「用悪水路」という地目がそれほど耳慣れないかというと、用水路なり排水路なりは古くからあったもので国有地の「青線」と呼ばれているものがほとんどである。ところが開発の時代を経て新規に設けられた水路に対しては地番が振られることになって、そうした水路は「用悪水路」と名づけられていったのである。青線が国有地ならこうした後に登記されてきた水路は個人のものであったり、自治体のものであったりする。明らかに多くの人々のためにあるものなのに、個人の土地として登記されて「用悪水路」とされていることも多いのである。事実、わが家の北側の水路も、わたしが家を登記した際にはまだ個人名の土地であった。後に町に寄付されて現在は自治体所有物ということになっているが、これらも明治事時代の古い公図のままだったら、用悪水路などという地目で登記されずに、大きな畑の中にただ水が流れているだけの形上の水路のものの個人の土地の中を勝手に水が集まって流れているというものになっていたのかもしれない。たまたま国土調査と言われるものが行なわれ、土地が明確化されたことによってこの「用悪水路」が登場したわけなのだ。

 当初「用悪水路」という地目を目にした際、「これは排水路であって、用水路は「用水路」という地目があると思っていた。ところがそんな地目はないのである。この「用悪水路」についてはこう説明されている。「灌漑用又は悪水排泄用の水路」である。ようは灌漑用と排泄用両者を用悪水路」と言うのだ。確かにどちらも用を足すだけの意味のある水路ではあるが、灌漑用に使っている水路に対して「悪水路」という表示はどうも納得がいかないのである。先日も会社の登記関係の仕事をしている先輩と話していて、「なんで用悪水路なの?」という会話をした。わが社の場合は排泄用の水路に関わった仕事もしているが、多くは灌漑用の水路に携わっている。そうしたなかでこの「悪」と呼ばれる名称に出くわすとどうも気分が良くないのである。その先輩も「そうだよね。ただの「水路」で良いのに何で「用悪」なんだろうね」とその名称に疑問符を投げた。21種類も用途別に地目があるのならせめて「用」と「悪」を別々にして欲しかったものである。ただでさえイメージの悪い都会での用悪水路が、農村でも同様に呼ばれるのはやはり気分は良くないわけである。
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「景観」とは何か

2009-06-19 12:41:19 | 農村環境
 毛利文陽氏は『伊那路』629へ「住民の選好景観から見る、これからの景観施策への提案」という論文を掲載している。これは伊那市西箕輪地区における調査からのもので、専門的な分析を行っている。調査の方法については専門外のわたしたちにはまったく意味不明なものであるが、そこから導かれた結論というものについては違和感を抱く。そもそも景観とは、そして景観保護とは何かについて納得しできるイメージをそれらの言葉から描けないでいる自分である。

 そもそも景観とは何か。景観法というものはあるがそこでは景観についての定義づけはされていないという(ウィキペディア)。地理学の分野で利用されていた用語で使われ始めたのはそれほど古いことではないようだ。言われて見ればわたしのこどものころにはあまり使われなかった言葉かもしれない。いわゆる景観を乱すという意味での派手な看板や人工物に対する制約を持たせるような意味で使われ始め、今やずいぶんメジャーな言葉になってしまった。しかし、では「風景」とはどう異なるのか。風景写真ということは言うか景観写真という言い方はしない。そもそもこの用語には人工物を対象にした人の手のかかった空間を指して言っていることになるだろうか。とすれば農村において「景観」という捉え方をして景観条例を設けることの意味は何だろうか。

 毛利氏の西箕輪地区での結果を紹介しよう。ここでは紹介できないが18枚の写真を使って住民からアンケートを採っている。その評価因子として①地域の固有性、②眺望、③親しみやすさ、④自然性という四つだと述べている。またその因子の景観に対する寄与率をあげており、地域の固有性は21.5%、眺望が16.1%、親しみやすさが15.9%、自然性が3.6%ということだったようだ。ここではその18枚の写真を掲載できないが、対象者の中で最も評価の高かったものは、A.大清水川の管理道路を中心に西山を望んだもので道沿いには水田と河岸段丘沿いに山林が映し出されたもの、B.上戸の水田地帯から南アルプス方面を望んだ遠景、C.中条の西山の林道を中心にその両側によく整備された林が展開するもの、D.吹上の西山の途中から南方を望んだもの、これら4枚だったという。それらは自然性や眺望といったところに惹かれていると思われ、毛利氏も「良い景観と決定付ける大きな要因は、地域らしさ以上に、良い眺望が望めるかということが強く起因している」と考えている。さらにB,C,Dといった写真の背景には自然的というキーワードが当てはまるとも言っている。

 いっぼう評価の低かったものを見ると、E.大萱のセンターラインある道路に家が建ち並び電柱の建っているもの、F.中条の水田地帯の背景に民家があるもの、G.羽広から南アルプス方面を望んだもので前面にビニールハウスが映ったもの、H.大泉新田の荒廃地が映ったもの、I.吹上の道路と用水路をセンターにおいて民家があるもの、J.大萱のグランドとそこで遊ぶ子どもの小さく映るもの、K.上戸のセンターラインのある道路を前面に背景に経ヶ岳が映ったもの、L.羽広集落内道路を真ん中に両側に生垣と電柱が映ったもの、以上八枚である。ここに地域性に関する得点が低いというが、写真を見てそこからどう地域性を認識するかということに繋がる。果たしてそこには地域性がないのだろうか。ここから地域とは何か、地域性とは何かと対象者に問いたくなるのだ。ようは大きく展開された明らかに誰が見てもそこに映る対象背景がどこかわかるもの、例えば南アルプスが映っている、あるいは広域的な広がりのある地域が映っていれば地域性があって、狭いエリアを対象としたいわゆる近景的なものは地域性が失われるという意識に、その問いが生まれてくるわけだ。だからこそ「景観」とは何かと問うことになる。被験者と捉えている毛利氏にとって、この対象者にとって「景観」とは何かと説いた、あるいは問うことをしてみたのだろうか。大変専門的な調査方法を説明された後の結果の内容には、あたかも結果ありきから導かれた答えが解かれているようで違和感を抱くわけだ。

 続く
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ツバメが巣をかけることの意味

2009-06-18 12:22:59 | 民俗学
 吉田保晴氏の「伊那谷のツバメ類」(『伊那路』629 上伊那郷土研究会)に教えられることがあった。伊那市東春近の事例をいくつか紹介している。「ツバメが来ぬようになるとその家は貧乏になる」「ツバメを殺すと運が悪くなる」「ツバメが来て巣をかけると縁起がよい」というものだ。ツバメを吉凶の鳥として捉えているもので、同様のことわざは全国にあるようだ。このことについてはわたしも子どものころから親に言われ、また自分たちでもそういう言葉を友だちと交わしていたようにも思うので珍しいことではないのだが、吉田氏は「衰える家にツバメは巣をつくらない」ということわざの証明をしてくれている。中川村四徳でもかつて「ツバメが巣をかけないようになると貧乏になる」と言われていた。ところが今四徳に行ってもツバメの姿は見ないという。また旧高遠町芝平へ鳥の調査に行った際も、ここでツバメの姿を見つけることはできなかったという。四徳も芝平もわたしの日記では何度となく触れてきた地区である。四徳は昭和36年の梅雨前線豪雨災害、いわゆる三六災(「さぶろくさい」とか「さんろくさい」と言われて伊那谷で災害のことを語ると必ず出る災害の名前である)で全戸移住した地域であって、現在人家はほとんどない。人家のないところに巣をつくるはずもないのかもしれないが、いっぽう芝平も全戸移住した廃村である。四徳とちがって芝平は家が今もたくさん残っているが、それでもツバメの姿を見ないというのだから、まさにことわざどおりということになる。

 『長野県史民俗編』の資料から南信と北信の事例を次にあげてみた。□は天候に関するもの、○は吉凶を占うものである。

 南信(長野県史民俗編第二巻(三)ことばと伝承)
 □つばめが低く飛ぶと雨が降る。(押出)
 □つばめが上空を飛ぶと風が吹く。(大島山)
 ○軒のつばめがいなくなると死者が出る。(上槻木)
 ○つばめが巣をかけに帰ってこなくなると火事か変わりごとがある。(大池、払沢、下蔦木、中坪、大島山、座光寺原、金野)
 ○つばめが家に巣を作ると良いことがある。(小坂、南大塩、大池、立沢、小沢、青島、北割、大草、越久保、金野、木沢、押出)
 ○つばめが巣をかけにこなくなると悪いことがある。(若宮、北割、木沢)

 北信(長野県史民俗編第四巻(三)ことばと伝承)
 □つばめが勢いよく飛ぶと晴れる。(戸部)
 ○つばめが家に巣を作らなくなると死者が出る。(四角面、中川)
 ○つばめが来て下手な巣を作ると不吉だとして心配する。(富倉)
 ○つばめが巣をかけなくなると災難がある。(小境、北永江、上赤塩、柏尾、沓野)
 ○つばめが家に巣を作ると良いことがある。(日方、三水)
 ○巣をかけていたつばめが急にいなくなると悪いことがある。(堀之内)

と言う具合である。ほぼ同じようなことが南と北で拾ってみても言えるわけだ。長野市桐原では「滅びる家は鳥もこない」ということも言われている。前述したように廃村になった村には鳥も来ないということにあたるわけである。もちろんツバメが人の暮らしに密着している鳥だからこそのことである。「つばめが急にいなくなると悪いことがある」というものがある。巣を作っていたツバメが突然いなくなるということはある。蛇にやられるのである。家にいる蛇だからこの場合はだいたいアオダイショウである。ツバメの巣を狙っているアオダイショウを祖父や父が追いやっていた姿が記憶にある。さすがにアオダイショウは家の守り神という言い伝えもあって「殺す」というところまでいかなくても、けっこうダメージを与えたこともあったように記憶する。家の守り神より大事にされたツバメということになるだろう。

 吉田氏は天候に関する説明もしている。飛翔している虫を食べるツバメが低空で飛ぶということは虫も低空で飛んでいるということ。湿度が上がると虫も羽が重くなって高く飛べなくなるということだ。「つばめが低く飛ぶと雨が降る」というのはその通りのことということになる。

 さて、「雀孝行」という昔話は全国にあるようだ。『ウィキペディア』によれば「昔昔、燕と雀は姉妹であった。あるとき親の死に目に際して、雀はなりふり構わず駆けつけたので間に合った。しかし燕は紅をさしたりして着飾っていたので親の死に目に間に合わなかった。以来、神様は親孝行の雀には五穀を食べて暮らせるようにしたが、燕には虫しか食べられないようにした。」というもので、前にも紹介した『長野県史民俗編第二巻(三)ことばと伝承』にも昔話として南信濃十原の荒井センヨさんの語りが紹介されている。次のようなものである。

 すずめとつばめがおってな。つばめは親様が大変だっちゅうたら、お化粧ばっかりしとったってよ。ここらをきれいにぬぐう、ここらに紅をさす。そして飛んでっただよ。そしたら死んじゃっておらん。まあ死にめに会わんとゆうわけだな。
 それからすずめはな、親がな、大病だっつったらろくに支度もせなあし、飛んでったってよ。それだもんで、あのうすずめには食べるものをさずけてくれた。
 つばめは、きれいに化粧していて親の死にめに会わなんだって。きれいな鳥じゃないかえ、つばめはきれいな鳥だ。それだもんだでな、虫ばっかりさずけたって。弘法様がな。昔の話な。今でもそうだよ。親が大病だっつったら、早く飛んでかにゃあかわいそうだよ。本当はな。

 「竹富島の昔話」というものも検索していたら見つかった。全国にある話のようだが、確かに人の食べ物を狙っているすずめの方が高級といえるのだろうが、鳥そのものへの思いは、前述したようにツバメに軍配があがっている。
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迂回をしたらいい

2009-06-17 12:32:06 | ひとから学ぶ
 このごろリニアの説明会なるものが開かれていて、そのものは直線ルートの説明会だという。盛り上がっている人もいるだろうが、まったく地域外の話と思っている人もいるだろう。これまでにも何度も触れてきたが、ボッケさんが描く長野県を避けるルートなるものも、実はわたしの望むところだ。このままさらっとルートが決定すればよいが、なかなかそうはいかないだろう。ますます長野県はバカだ見たいな言われ方をするのだろうが、今までにも述べてきたようにバカだと言われようがけして無知な望みではない。何度も言っているように、そもそもJR東海が自費で造ると言わなければ、国のプロジェクトとして「遠い昔の話」ほど時が経たころに実現に至っていたであろうリニア。きっとその際にも直線という意見が強まっていたかもしれないが、いずれにしてもそもそも論であって、今に始まった話ではない。そしてさらにいけないのが長野県南部の人口が薄いというところに問題があった。そこに自費で駅を造れなんて言われるとさらにいけない。そこまでして県民益があるのかと問われるとなかなか上手い答えは出せない。地域エゴと言うが、そもそも地域エゴの塊が県というものである。それを上手に操るのも容易ではない。もちろんそうした地域エゴは長野県だけにあものではなく、全国どこにだってあるだろう。同じことがよその地域に起きても、同じ議論かを巻き起こすはずだ。

 すでに直線ありきの様相を呈してきた中で、ますます長野県をバカ呼ばわりする人たちが増えるだろう。そんなことに耳を傾ける必要などない。主張は主張として曲げるべきものでもないだろう。主張があっても通らないことはあるし、簡単に主張を曲げて「直線で良い」などということもない。通らなくて結果的に直線になったからといって、その代償を求めたって良い。そのくらいの政治判断があったって良いし、それを地域エゴの「悪」のように言う方がエゴの塊である。自分の家を壊そうとされて黙って見ている者はいないはず。以前にも述べたように表示したボッケさんからいただいた図でも解るように、直線というのなら富士山の下を貫けばよいこと。それが出来ない理由に象徴としての富士山、そして活火山としての富士山というものがある。では南アルプスなら良いのか、と問えば誰も耳を傾けはしない。ずっと自然に満ち溢れていた南アルプスも、シカ害に右往左往しているうちに、もっと大きな痛い話を突きつけられる。誰もそれを言おうとはしないあたりが、富士山と南アルプスの違いなのだ。いずれにしても長野県を通るんだからいいじゃないか、という簡単なモノではない。何度も言うが例えば飯田線を高速化と言ってもどれほど高速化しても現状では諏訪地域から飯田まで1時間を切るようなことはできないはず。伊那―飯田でもやっとではないだろうか。アクセス用のノンストップ便を組んだとしてもむしろその方が迂回ルートより金がかかりそうだし、そんなものを地域住民は受け入れられない。



 さて図はボッケさんから借用したものへわたしのルートを書き入れたものだ。緑がボッケさん、赤がわたしのものである。実は直線と言いながらけっこうCルートだって曲がっている。前述したように山梨県内にある実験線を利用した場合はどうしてもこうなる。実験線を造った時からAやBルートを想定していなかったのかもしれない。ボッケさんは長野県だけを通らないように迂回させたから曲がりが多くなってしまったが岐阜県も通らずにルートを決めれば赤いルートが浮かぶ。各県一つの駅なんて言っているからこれで必ず一県は減ることになる。静岡県内のこんな山の中でも駅が欲しいということになるだろうが、この方がトンネルが多くなるのだろうか。争いごとを避ける意味でも真剣に考えてみたらどうか。
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なぜ流行った本棟造り

2009-06-16 12:36:08 | 民俗学
 「霧深き土地」で触れた『伊那』973における伊那谷研究団体協議会2008年シンポジウム報告。民俗分野では松上清志氏が「飯田下伊那地方の住まい」と題して報告をしている。その中で少し気になったのは中南信地方といわれる長野県中南部に多い本棟造りについてのことである。松上氏は「本棟造りがいまもって飯田下伊那にあるわけですが、新しい家でも、こういう型の家を建てるお家があります」という部分である。新しい家というのをどの程度までを新しいと言うか明確にはされていない。ごく最近建てられた家で本棟造り形式のものをわたしは見ていない。松上氏は「本棟造りへの憧れ」と述べているが、果たして今の時代にあって憧れがあるのかと聞かれるとノーとしか言えないような気がするのだ。ちなみにウィキペディアでも述べているように本棟造りに厳密な定義はないと言える。あくまでも切り妻造り妻入りであって、緩い勾配の屋根というのが特徴である。おそらく大きめな部屋が取れるというあたりが農家に取り入れられた理由で、さらに屋根裏が大きく保てるあたりが養蚕と関わったのだろう。

 実は新しいという表現には今から数十年という時間的なものがあるようにわたしは思う。わたしの生家の周辺でもこの本棟造りの家で新築した家が、昭和50年代ころまで見えた。母の実家は今住んでいる地域にあるが、確かに本棟造りであって、昭和の終わりころ建てられたもので、本棟造りとしては比較的新しい事例といえる。しかしそれ以降その形式は消えていく。ようは農家が農家でなくなったころからこの形式が消えていったのだ。誰が建築主だったかによるのである。そのころまでは兼業化しつつもまだまだ農業が主体だった人たちが家を建てる際にこの形式が取り入れられた。しかし、その後建築主が完全なサラリーマンとなると、本棟は嫌われ始めたのだ。ではなぜかつての農家が本棟の家を建てたのか。そのあたりは流行りというものもあったのだろう。誰かが造ると倣うという農村特有の芋ずる方式である。またそれほど住居に対して今のような強い合理性を求めたのかどうかというところに疑問符の出るところだ。果たしてかつて本棟造りを憧れたという時代の農家の主たちは何を見ていたのか、むしろそのあたりに興味が湧く。かつて本棟造りの家はその地域で象徴的な豪農という印象が無くもない。だからこそ憧れということになるのだろうが、それだけのこととは思えないものが戦後の家造りにあるのではないだろうか。松上氏は「平屋造りで申請して建坪は少なくて、実際は二階がある」ということを利点と言っているがこれは違法申請にあたる。この表現はいかがなものだろう。まだ建築士というものが地域に少なかった時代、その地域の特徴ある形式が、聞き伝えられて流行ったと言った方がよいだろう。むしろこの造りを戦後の事例としてあげていくと、数としては限られ年代に特徴的に現れるはずだ。事実本棟造りはは中信と言われる松本周辺に比べると南信ではかなり少なかった形式とも言える。にもかかわらず戦後になってこの形が一時的にずいぶんと建てられた。おそらく戦後本棟造りを採用した人たちが、あるいは次世代が、次に家を建てる際、本棟造りの家を建てることはないだろう。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****