Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ダンボール犬

2009-05-31 23:51:41 | つぶやき


 「ミックスという種」で触れたように、我が家ではなく、妻の実家にやってきたシロ。ところが妻の役割である犬の面倒。とっくに今ごろは妻の実家の庭で番犬になっていたはずが、その目論見はしっかりとはずれて、今だ毎日シロは妻の実家と我が家を毎日行き来している。その最たる理由が「小さい」というものだ。娘は中型犬から大型に近い大きさ。とてもこんなに小さな犬の面倒は初めて。そんなこともあって娘をいただいた方にいろいろ教えてもらったが、それにしてもなかなか大きくならない。スピッツとパピヨンのミックスということで、娘ほどにはならなくても、そこそこ大きくなると予測していた。ところが3ケ月経っても大きくならない。3ケ月目のその日、ようやく1.1キロになったシロは、数日後二度目のワクチン接種に向かう。ところが獣医さんには「小さすぎるから」といって二度目のワクチンは打ってもらったものの、「もう一度4ヶ月目にワクチンをしましょう」ということになった。大きな出費である。いまさら他人に面倒を見てもらうわけにもいかず、すっかりなついた我が家にとどまっている。

 妻はいつまでこうして毎日行き来すれば良いものか、と悩んでいて、実家ではほかの犬をと思案中。実家では山付けに家があるため、獣の害が著しい。ハクビシンには犬の糞が効くといって、畑の周辺に娘の糞を置いている。身体が大きいから当然糞も大きい。それをしっかりと溜めて置いてあるのだから結構獣には臭う様子。このところずっと妻の実家暮らしが続いたこともあって、この1年ほどはハクビシンの被害に合わなかったという。それだけに実家で亡くなった太郎(前の犬)の代わりが必要なのだ。父が引きずられるような大きさでは困ると言って少しばかり気を使ったおかげで、すっかり小さな犬がやってきた。それでもこれほど大きくならないとは、親からは想像ができなかった。まるでチワワクラス。獣医さんにたくさん食べさせるようにと言われ、餌の量を増やしたものの、身体が大きくなると言うよりずっしりしてメタボ気味。これではむしろ身体に悪そう。

 なにより小さすぎてとても外では飼えない。ということで我が家ではとても考えられなかった座敷犬状態。洗濯物の干し場としている利用しているサンルームが土日の暮らしの場。わたしが在宅していれば実家に行かずにわたしの仕事が増える。3ケ月を過ぎるとどんどん大きくなるなんていう話を信じているものの、最近は食欲もおさまってきて、いよいよこのまま身体は大きくならないのかという感じ。それでも1.5キロまで増えたが、身体の大きさに見違えるほど変化があるわけではない。ダンボール犬は、敷き詰められた新聞紙や広告の上に何度も何度も催す。○けられた新聞紙の山は、申し訳ないが燃やしている始末。毎日がシロの世話で追われている。
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世界遺産という香り高い文化活動

2009-05-30 23:27:01 | 自然から学ぶ
 「伊那谷自然」143号は「高山植物・希少野生植物の現状と保護」というシンポジウムの報告である。片桐勝彦氏は中央アルプスで高山植物の保護活動をされている。①「植物や風景の写真を撮るため、保護ロープを越えて進入したりカメラの三脚を立てるカメラマンが多く、植物を損傷している。また、進入しなくても撮影目的の植物だけに目をやり、足もとの植物には無関心で踏みつけている例も多い。(中略)圧倒的に多い観光客への対策が課題である」と言う。小林正明氏は同会の現会長である。絶滅危惧種に指定されているニョウホウチドリのシカ害について②「生育地に保護柵を設置するしかありませんが、それも見通しが立っていない状態です。私はニョウホウチドリ以外にも希少種が、人知れず消えていくことがあると思われ、不安でなりません」と言う。

 ①は保護しようとする側にとってみればよく見えるものなのだろうが、許された観光者にとっては無理もないことであって、だからこそ片桐氏は「地道に啓発活動と指導注意を行い、モラルを訴えてきた」と言う。しかし、観光という権利に対して「指導注意」という意見はどう観光者に聞こえるだろう。認識のない間違いはたくさんあり、そしてその認識を与えようとする動き、なかなかそれは一致しないものだろうし、なかなかうまくはいかないほど人はそれぞれかもしれない。そして②にいたっては結局希少種を保護しようと言うのが誰しも前提になってしまう。「足もとの植物」が希少だから保護しようとするが、果たして希少とは何だろう。

 シンポジウムをまとめた北条節雄氏は「本質を突く言葉」として白旗史朗氏の「一本の草の命を守ることが高い文化活動である」と、塩沢久仙氏の「高山植物を傷つけることなく、未来に残していくことは将に今を生きる私達の香り高い文化活動」という言葉を紹介している。そして「この本質に立って南アルプスの高山植物保護がなされるようになったとき、地元住民は世界遺産を話題にする資格が得られたと自覚するべきである」と言う。わたしにはどうも解らない言葉である。香り高き文化活動がないうちに「世界遺産」と口にするなということなのかも知れないが、わたしには「世界遺産」が香り高い文化活動の先にあるものだとは少しも思わない。もちろんそこまで解っていて北条氏は語っているのかもしれないが、別に捉えるとそう捉える人もいなくはない。「人々の文化的意識の高揚」と言うが、それは保護活動ということなのだろうが、わたしは自然保護がという以前の意識としてそこに暮らすことの事実を意識せずしてそれだけで文化的意識とは思っていない。
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趣味では維持できない空間

2009-05-29 12:37:37 | 農村環境
 先ごろ「「遊びの百姓」に農業は救えない」にコメントをいただいた。「年金百姓や趣味の農業でいいのではないでしょうか。それでも生産量は少しは増えるわけですから」と。おっしゃる通りで、そうした人たちにも細々とした農業の一翼を担ってもらっていることは事実。ただ言えることはそういう農業はほんの一握りであるということである。

 先日も妻の実家で草刈りをした。基本的に土日しか行えないわけであるが、こうした農業が底辺にあって今の農業を支えている。ある意味でそうした農業を本人たちが「趣味なんです」と口にしたとしても本音は全く異なり、致し方なくやっている部分も多いことだろう。わたしも人には「余暇」とか「楽しみで」などと口にすることはあるが、本音にはそのようなものはない。誰かがやらなければ途絶えてしまうという気持ちがあって、土日は農作業になる。背の丈以上の段差のある土手の草を刈り、梅畑から柿木の下まで刈っていく。非生産的という雰囲気もあるが、草を刈らなければ病気が出ることもあるし、どこかで生産に繋がるという気持ちがないとなかなか草は刈れない。

 わたしの家の周りを見渡すと、ただただ荒れている畑の草だけを年に何度も刈っている光景を見る。なぜ刈るかといえばそのままにしていては管理をしていないと見られるし、荒れ放題にしてしまうとますます手がつかないほどになってしまう。これが水田ならそれほど手がかからない。もちろん機械を購入して、あるいは主たる作業を委託してやったとして、その収入は差し引きすればほとんどない。ようは畑は水田に比較すると面積当たりの収入は作物で大きく異なり、また手間も異なる。ところが水田に水稲を栽培するのはそれほど大きな差が収入にも手間にも出ないということになり、たとえば水田を持っている人たちがすべて畑作物に転換すれば手間もかかるが収入も多くなる可能性は大きい。にもかかわらず草刈りだけして何も生産しない畑が増えるかというと、手間が無いということである。耕作できない土地をそのままでは修まらないといって管理する。しかし何も生産されない。そんな環境であれば、買ってさえしてくれれば売りたいのはやまやまなのである。もちろん住宅や町近郊であればそうした実入りを打算的に選択しようとする農家があるだろうが、基本的に山間地域やなんでもない農村地帯同様にそうした行為が選択できないとしたら、皆がみな同じことをしたに違いないわけである。そういうところも減反と関わってきている。もし減反政策がなかったら、もう少し耕地の減少は抑えられていたのではないだろうか。なにより減反をしたところで作る作物がなければ、荒廃させるしかなかったといってもよい。農家の子どもたちはすでにサラリーマンになっている以上、農業で生計を立てるという気持ちは無くなっていたのだから。だからこそ手間のかからない水稲を自由に作付けさせていた方が耕作地という空間的な農業は維持されていたに違いないとわたしは思うのである。

 荒れ果ててもなんとか維持しようとしている多くの農家が、実は農村の多くの空間を保有している。こうした人たちが農業を見放したからといって責められるものでもない。しかし、いずにしても一握りの人たちのささやかな暮らしを捉えて「新たな民俗が生まれている」というような捉え方をするのは適正ではないとわたしは自ら農業に携わり、自ら農村の姿を見てきて思うのである。

続く
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繰り返される日々に

2009-05-28 12:25:30 | ひとから学ぶ
 電車の中と会社と、そして自宅。ほぼ同じように日々は繰り返される。電車で通わずにマイカーで通ったとしてもさほど見える世界は変わらない。ようは本人がいかなる意識を持つかというところで日々の動きに変化は生まれる。逆に言えばくだらいことにくだないことを考えでもしない限り、なかなか思いつくものが見えないというのも問題なのかもしれない。そのくだらない出来事に意図を見出そうとするから、日々の繰り返しもなんとなくではあるが、変化が見える。何をくだらないことを、と思うがそんなことを繰り返しながらわたしの日々は過ぎていく。

 3年目を迎えた電車通勤。先日新しい定期券を購入した。もう半年もすると自家用車の車検が切れるが、この2年の間車を通勤に利用しなかったおかげでまったく距離がのさなかった。車検の際に夏タイヤで持ち込んだら「このタイヤでは車検が通らない」と言われて冬タイヤに換えてもらって車検を通した。もちろんすでに春を迎えていたからすぐに車検の通らなかった夏タイヤに交換したが、そのままそのタイヤを今も利用している。なにしろ車検以来3千キロ程度しか乗っていないのだから。このままずっと同じ生活なら車の維持費はずいぶんと少なくて済む。これぞ流行の「エコ」なのだろうが、同じことはいつまでも続かない。

 3年目ということで、電車内の顔ぶれもこの春で模様替えとなった。いつもわたしが座ろうとしているあたりに乗車していて、わたしの座るポジションを制御していた公務員らしき男性は、市役所の職員かと思っていたらこの春から姿を見せなくなったからもう少し広域的な公務員だったのだろう。男性と同じ駅で降車した同じく公務員らしき女性も、この春から姿が見えなくなった。彼女はよく窓越しにケイタイで風景の写真を撮っていた。いっぽう利用を始めたころに乗っていた車両で毎朝顔を合わせた女性は、わたしが乗る車両を変えたため顔を見ることはほとんどなくなったが、帰宅の電車で稀に顔を合わせる。朝はずっと同じポジションに乗っているのであろう。彼女は明かに公務員ではなさそうである。高校生は毎年入れ替わっていく。それでも3年間は通うわけで、同じ顔をずっと見ている高校生もいる。日記でも何度か触れた松本まで通っている男子高校生は、必ず文庫本かノートを開いてうつむいている。盛んに勉強をしているノートをも見る限りそれほど難しいレベルのものではない。きっ出来が悪くて遠くの学校に通っているのだろうが、その必至さにいつも気を惹かれる。この春で姿を見せなくなったいっぽう新たに毎日のように顔を合わせる人、人。人を見つめながら彼は、また彼女は何を思う、とまた日々が繰り返される。
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逃れられない敷かれたレール

2009-05-27 12:56:00 | 歴史から学ぶ
 「再生の条件」は毎日新聞の特集記事である。5/25付朝刊で扱われたのは、国営農地開発事業である。「残った巨石と借金」というタイトルで福島県雄国山麓地区の事例を紹介している。国営事業で行うということはそれだけ大規模な地区でなくてはならない。現代ではなかなか農民の意見がかみ合わないが、まだ農地神話が盛んに語られた時代にあっては山が農地に変わるということはとてつもなく夢のあるものだっただろう。1971年に着工されたということは昭和46年のこと。ちょうど減反政策が始まった年である。きっと話が持ち上がった際には開田も可能だというくらいの話はあったのだろう。まだまだ米がすべてみたいな農業だったのだから当たり前のことで、誰しも希望を持ったことだろう。ところが減反政策が始まると、もはや開田は許されなくなった。ただでさえ減反をするというのに、水田を増やそうなどという行為は全く逆方向であるからだ。19歳で農業を継いだという物江康平さんは、まもなく召集令状が届いて戦争に行く。引き揚げると例のごとく不在地主扱いだったのかあるいは農地改革という名の下か所有水田は減らされた。この事業によって減らした水田を取り戻そうとばかりに賛成しただろう。

 1976年完成予定が遅れて1993年にやっと完了という。平成に入ってからである。すでに農業を取り巻く環境は大きく変わっていた。もちろん減反の年に始まったというのだから、そこまでたどり着く間にも、受益者である参加者は複雑な思いで事業の姿を見ていたに違いない。そして造成された土地は石ころだらけで農業には不向きだったとなれば、なかなかその状況たるは予想を遥かに越えるかもしれない。900ヘクタールのうち63ヘクタールが放棄されているというが、よくそこまで耕作をしているとも視点を変えれば見て取れる。いわゆる補助事業で開発したものだからという事績の心があって続けられてきたものだろう。「何のための開発だったのか」と問えば、農水省は「事業はあなたたちがやりたいと言ったからやった」という答えが返る。いつものことであるが、農業にかかわる事業は受益者負担が伴う。それがゆえ事業は自らの要望だというのが基本的な共通認識である。しかしながら、一度走り出した車をなかなか止められないとも事実で、そんな事業は話題になるものをあげただけでもいくつもある。なかなか思うようにいかなかった責任は、だれのものでもないのである。

 昭和60年代のことだった。わたしも国の造成に比較すればとても小さな農地開発に少しばかり関わった。事業主体だった担当は開田してはならないのに少しばかりであるが水田を増やした。それが会計検査院にばれて見事に補助金変換をするという結末だった。5年余前のこと、会計検査院が来るからといって待機させられた現場に久しぶりに立った。農地とはとても思えないほど草が生え、すでに小さな木が生え始めていた。予想ができなかったわけではないが、「やはり」と思いながら眺めたかつての仕事の舞台の成れの果ては、きっと山に戻るのだろう。水田とは違い、傾斜のきつい畑の成れの果ては多くはそんなところに行き着く。いっぽうでは30゜を越えようかという急斜面で農業を営む地域もある。思惑通りにはいかないのは、農民の心が一つではないからだ。何もこうした事業が無用だったとは言わないが、確かに現在を見る限り無駄もあったということになるが、それは結果であって誰しもこんな姿を見越して始めたものではない。
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色分けされた世界

2009-05-26 12:30:04 | つぶやき
 近くに横断歩道が見えていれば、そこまで行って横断歩道を渡ったかどうかは定かではない。必ずそうした行動をとると言い切れる人は少ないだろう。わたしの運転する車の後方にパトカーが走っているのは気がついていた。そのパトカーが横断歩道ではない場所で渡ろうとした歩行者に向かって「横断歩道を渡ってください」と拡声器で流す。横断歩道がすぐ近くにありながら、そうではない場所を渡ることを戒めているわけだが、都会ならいざ知らず、地方の街中なら道幅も狭く、どこでも渡れるという気持ちを歩行者の多くは持っているだろう。県の出先機関のある街中で、職員が横断歩道を渡らないといって苦情を言う人もいる。最もな話で認識さえしているのならわざわざ横断歩道の見える場所でありながら、そうでない場所を横断するべきではないということになるだろう。

 そもそも歩行者優先とは言っても、結局は車優先社会である。弱者は歩行者、強者は車という図式には変わりはない。金持ちは強者で貧乏人は弱者というものと変わらない。どれほど弱者をカバーしようとしても合理的な関係を築こうとすれば強者>弱者にならざるを得ない。これを覆そうと弱者優先とは言っても、自ずと社会のすう勢には負けてしまうものだ。この場合、優先して世の中に存在していた歩行者が上位だとすれば、どこを歩いても大手を振れるはず。にもかかわらず広々とした道路のほとんどを占有しているのは車である。そしてわざわざ歩行者を保護する意味で横断歩道は誕生した。ようは空間は分離されているわけでもないのに、共有しているスペースに歩行者の空間を設けたわけである。そういう意味では分離されている歩道はともかくとして、側線の引かれた路肩を歩くものだとされるのもかなりの強制というものである。車にとってはセンターラインさえなければ「左側を走る」という決め事はあっても、右側にそって走ったとしても違反ではない。ところが人はそういうわけにはいかない。違反とはされなくとも、そもそも道の真ん中を歩いていたら事故に会ってしまう。もちろん弱者に対しての比重は高いものの、常識敵的に捉えれば「真ん中を歩いていた」などというと運転手に対して同情は高まる。何度も言うが、共存している道路では車優先なのである。そして冒頭の話に戻る。

 そもそも秩序を守るべく警察にとって、決められた範囲内のルールを求めていくのは当然の業務である。そして彼らは強者となる。ルールを職務の中で訴えることのできる人たちはかなりの強者とみてとれる。そして道は車のために拡幅され整備されてきた。その構図をみれば当然のこと車のためのものであり、人が追いやられるのもしかたのないことである。しかし、どれほど強弱に差が出ようと、それぞれには秩序を守っていくという意識があってよいもので、車と人が共存できないものでもないはずなのだが、人間社会では明確な色分けをしなければ秩序を守れなくなった。とはいうものの、どこにでも横断歩道ができ、どこにでも信号機が付けられるというものでもない。すべてが強者論理でなされる世界なのである。

 どのレベルなら横断歩道を渡る意識が持て、どのレベルだと無視するか、人それぞれの意識の中にある秩序とも言えるが、途方もなく延々と続く車の列を前にすれば、誰しも「横断歩道はないか」と意識し、見渡す限り車の姿が見えなければすぐそこにある横断歩道も無視されることだろう。色分けされた世界では、いつしか自らそうした判断をしなくなるということだろうか。それとも弱者のわがままとしていつまでも色を混ぜていくのだろうか。
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波紋

2009-05-25 12:35:17 | 自然から学ぶ


 ため池に限らず水辺にはトンボがたくさん飛んでいる。水辺といっても流れの激しい河川はちょっと遠慮されるが、流れが穏やかな場所なら良好ということになるだろうか。

 暖かかったこの日、ため池を訪れると水面にメダカが上がってきていた。どんよりした空の下では水面まで上がる姿はそれほど見ないが、日が当たり水面の温度が明かに上がっているだろう環境ではメダカたちにとって水面は心地よい環境のようだ。ふとそんなメダカを追っていると、岸辺にトンボがとまっているのが目に入った。トンボはチョウと違って、なかなか人の気配には敏感だ。だからとまっているトンボの姿をカメラに納めようとしてもなかなか思うようにいかない。少し身体を捩ってとまっているトンボが際にいたわたし感知せずにとどまっていることに、すぐに様子が普通とは違うというのは解った。手を伸ばし捕まえようとしても逃げはしない。{飛べないのだろうか」と捕まえ見るがどこうがどう問題なのかはわたしには知る由もない。例のごとく{飛べ」とばかりに投げてみると、ばたつきもせずそのまま低空飛行をして水面に落ちた。そのまま動きもしない。「まずい、悪いことをしたな」と思うものの、すでにわたしからは手の届かないところである。

 子どものころトンボの尻尾を切って草を差し込んで飛ばしたことを思えばむごいことをしたとは思わないが、本人にとってみれば岸辺で留まっていたものをわたしのせいで大海に放たれてしまった。どちらもそうは変わらないものかもしれない。しばらくすると翅をばたつかせ始めた。飛ぼうとしているのか岸辺まで舟を漕ぐように移動しようとしているのか、しだいに水面上を移動し始めた。しかし大海、そして穏やかなものの少しばかり水面を風が吹く。なかなかばたつかせる努力は報われない。

 水面にはトンボの作った輪状の波紋が広がる。水面を移動する昆虫たちが少し動いただけでもこうした輪状の波紋は生じるものだが、さすがにばたつかせているトンボの波紋はその空間だけを見るととても大きな波を作る。同じような動きで同じような間隔での振動は、見事に輪を幾重にも折り重ねたように波を起こす。ため池という水辺でこうした波紋を見るのことはそうはないこと。ひと時をそんな波紋を追い続けた。

 この日、ようやくかぶれが完治しそうななか、再び土手の草を刈った。すでに伸びてきた葉の様子でかぶれる木かそうでないかは判断の効く時期になったが、地面から少しばかり伸びたその手の木、いやまだ丈からゆけば草といっても良いものだろうが、そんな草を刈ったところ完治しそうな腕や足の同じ場所が再びかぶれ始めた。よほどかぶれには弱いのだと自ら悟る。飛び散った草の汁が顔に飛んでいたことは認識していたが、まさかという思いはそのとおりとの不安を解消せず、帰宅後かゆみがおさまらない目尻をかく自分がいた。
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減員とともに荒れてゆく

2009-05-24 22:20:01 | つぶやき
 「わが駅の散らかりよう」で述べたように、最寄の駅はゴミがよく飛び散らかっている。最近それが目立つようになったのも何かの理由があるのかもしれない。「最近ますます乱れてきただろうか」思わず口に出た言葉であるが、妻はこう言う。「今年から定員が減ったから」と。160人が120人に減員された。いくら境界域の高校とはいってもそれは郡の境界であって、県境域ではない。だから受け皿としてはいくらでもあると思うのだが減員させられる。詳細は知らないが、長野県の高校は今統合問題の最中にある。いずれ生徒数が減員していくのは解っていることから高校の統合となる。高校の適正規模がどれほどのものかは知らないが、現在の長野県内の高校を見ると、320人という定員が最大である。通学区は東西南北に分けられていて、それぞれの学区に320人定員の高校があるかと思えばそえでもない。第1通学区と言われる北信地域には1校もない。第2通学区の東信に3校。第3通学区の南信に2校。第4通学区の中信に2校である。とはいえ四つに分けた地域で勘定するとさほど気にならないが、東信は上田地域、南信は飯田地域、中信は松本地域に限られている。いつも定員オーバーの中信ならともかくとしてそことは明らかに環境の異なる飯田地域に320人定員の高校が二つもあるのはどういうことだろう。

 そもそも飯田という郡内での一極集中的な意識がこうした歴史を育んできたのだろう。とはいえ、だからといって人気校と言うべきか中心市街地校と言うべきかそんな高校はそのままで周縁地域の高校の定員が削られてきた。基本的には長野県では120人というラインが一つの目安のようだ。それを下回るような学校は統合という話にもつながる。120人ということは3クラス。320人の8クラスに比べたらずいぶん違う。いわゆる人気校というのは地域の進学校ということになる。そして不人気校はどちらかというと荒れているという印象すらある。減らせばますますそうした受け皿的要素が強まり、その一方で人気校のレベルは下がる。こういう定員をあてがう県教委の考え方というものはどうしても理解できない部分がある。私立校のように採算を重視するとか、儲けようという意識があれば解るが統合問題で揺れている中での定員減の方向性とは、果たしてこういうもので良いものなのだろうか。

 そういえばわたしの卒業した高校も、当事よりは2クラスも少なくなった。そしていよいよ統合と言う。統合は仕方ないとしても、どうも高校の特色と言うか意図というものが見えてこない。小規模校がますます意図の見えないものになっていくことは言うまでもないが、だからこそ意図ある高校の配置とバランスというものが大事になってくるのではないだろうか。
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公務員のはなし

2009-05-23 23:25:03 | つぶやき
 長野県職員労組のチラシを見た。「夏季一時金凍結に係る交渉」というものである。この不況下にあって公務員が叩かれるのも仕方のないことだろう。そんな意味でも人事院勧告で国家公務員の夏季一時金が0.2ヶ月凍結されたと聞いて、「それだけなの」と思う一般人も多いことだろう。そして同じようにその流れはピラミッドのすそ野の方まで伝達していく。組合側が「国が0.2月凍結したので県も準ずるというのは納得できない。地域経済に与える影響も大きく、現在の経済を一層冷え込ませるものとなる」と言うのも解らないでもない。そもそも公務員は景気の良いときも悪いときもなく行ってこいという境遇がある。だから不景気だからといって「給与を下げろ」と言われるのも心外だろう。そのくらいは国民も解ってあげないといけないのだが、とはいえ公務員が「お役所」という看板の元、気楽な人生を送っているという印象は多くの人が持っているだろう。それでもって生涯が同じように過ぎていくというのなら、税金で生活している人たちに勢い不満が募っても致し方ないということになる。

 わたしはこんな風に思う。せめて不景気なら公務員はたくさん消費して世の中のために金を使えと。ところが公務員はけっこう堅い。金持ちはなかなか財布が固いと言うが、公務員も金持ちなのか同様に固い。人間堅いことは良いことだろうが、その堅さが後述するような不可解な意識を生んでしまう。

 さて、「人事院総裁あてに脅迫文書」というニュースが先日流れた。それを扱ったページの掲示板には公務員叩きの言葉がたくさん並んでいた。「公務員の給料は今の半分くらいが妥当だ。血税を湯水の如く無駄に使っているんだから、そりゃ銃弾くらい届くだろ。いまどきロクにパソコンも使えず、ろくに仕事もしないで、定時で帰って、それで、年収800万、900万の役所の連中がどれだけいる?」とか、「公務員(特に国家公務員)は一般企業の社員と比較して、何かと優遇されている。この不況で一般企業のサラリーマンは不安を抱えながら、安い賃金で家族を支え自社を支えている!その上に高額な公務員の給与を税金という名で支払い、公務員の生活も支えている。。。公務員って地域の為、経済の為に、今こそ身を粉にして働けよ!!」といったもの。わたしには国家公務員のことは解らないが、きっとピラミッドの上に上っていくほどにおっしゃる通りだとわたしも認識している。そしてすそ野の方にいる山間の村役場の職員は同じ公務員でもびっくりするくらい違う。この構造のいけないのは、親方日の丸状態の頂点組が、くだらない調査なり複雑な補助事業を仕組んで、無駄な事務作業を末端に増やさせていることだ。たとえば住民本位の仕事をしようとしても、くだらない事務をばらまくから住民のために働けない。なにより「下にー、下にー」と事務を継いで行く中間帯などは「こんな人たちいるの」と思うこと盛んである。そんなポジション、わたしに言わせると地方整備局とか地方農政局のような国家公務員の出先組とか県庁職員、そしてそこからさらに中間渡しをする県の出先。まるで言い継ぎゲームのようなもの。それでもって地元への説明だと言って何人もぞろぞろやってきて「何でこんなに人数が来るんだ」みたいなことをいくらでもする。本当に必要なことだけやってもらえば、明らかにこんなに公務員はいらないと思うのだが、これが公務員に言うと烈火のごとく叱られる。彼らには必要だからという必要がなぜ必要かなどと説明する気持ちなどないのだ。

 先日2007年の1世帯あたりの平均所得が、前年に比べ10万6千円少ない556万2千円で、平成に入ってから最低額だったという報道もあった。児童のいる世帯だけでみると691万4千円だったという。学校教育法でいう満6~12歳の学齢児童なのか児童福祉法でいう満18歳未満の者なのか定かではないが、後者とすれば我が家は該当する。とすれば我が家は平均以下ということになる。そう考えるとけっこう多い夫婦そろって公務員は、わたしにとっては高額所得者になる。とはいえ公務員でなくても高額所得者は山ほどいるわけで、単純に公務員を恨めしく捉えるのはおかどちがいというものだろう。ただ、何度も言うが、無駄なことをやって趣味のような仕事をしている公務員は削除してほしいものだ。
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「いつもの」選択

2009-05-22 12:38:22 | ひとから学ぶ
 地方の交差点で車が溜まるようなことのない交差点はともかくとして、交差点というのは思惑というか人間の思いの様がよく現れる空間である。

 わたしが市役所に会社から向かう道には常のルートがある。おそらく現在わたしが在籍している出先の中でこのルートを定番としている人はいないかもしれない。かつて飯山に暮らしたころ、自宅から飯山までの約180キロをノンストップで走り抜ける業を考え出していたわたしには基本的な考えがある。①信号機で停まらざるを得ないことを考慮すると、なるべく信号機のある交差点を通らない。②信号機が赤になりそうならその段階で減速をして次の青までのろのろと走る。③信号機同士の連鎖を熟知する。などといったものがあった。もう30年近く以前ことであるから信号機が少なかったことも事実。そしてわたしが飯山に向かうのは夜中だったから、そういうことも可能だったということでもあり、今同じことをしようとしてもできないのかもしれない。もちろん当時は高速道路といものはなかった。同じルートを同乗したことのあった上司はこんなことを言った。「よく信号機のパターンを知っているな」と。何度も走っていれば慣れてくるのは当たり前のことなのだが、さらにそれを熟知していてどう走れば停まらないで済むかということを何度も試したものだ。そこから考えるようになったのは、今右折しようとしている、あるいは直進しようとしてもなかなか進まない交差点で何をすべきかというものである。こんなことは誰しも考えていることなのだろうが、そこには性格というものが現れる。

 昨日市役所から会社に戻る「いつもの」道。天竜川を渡りふだんなら右折する橋際の交差点。橋が狭いと右折禁止にしても良いくらい右折車のせいで渋滞する。信号機が青になって、そして対向車が多ければ場合によっては先頭で右折しようとした車くらいしか進行できないケースも稀にある。もちろん車は橋をいっぱいに埋め尽くして繋がる。この橋を渡るか違う橋を渡るかは見通しの良い堤防際の道を走りながら選択する。「いつもの」道あてもケースバイケースでそれは変化する。かつてノンストップで飯山まで走った人間にとってつくまらない信号停止は避けたいものだ。ようはここに信号機では停まりたくないという誰しも持つ意識がある。そしてその橋を選択したとしても対向車の直進車が多ければ、右折を諦めて直進するということも五分五分くらいにある。それはわたしが右折しようとすることで後続車に迷惑をかけたくないという意識である。思いやりとまでは言わないが、渋滞にいらいらをしてきた運転者の1人として、そのくらいの配慮は当たり前だと考えている。そしてこの日、その交差点に入った際には十分信号機をパスできるという計算があった。ところがまさに先頭車が右折をしようとし、そして後続車もすり抜けられそうなのにもたもたしていてほとんど進行することなく歩行者用の信号機が点滅を始める。直進車が途切れて何とか先頭車は右折して行き、わたしもパスできたのだが、右折した車はその後ふだんわたしが利用しようとする狭い道に左折して行った。もちろん我がままなやつとまでは言わないが、できれば避けたいと思う「いつもの」の行動なのである。通常とっている行動であっても回避できるケースがあれば選択をする余地を頭の中には持つ、そんな行動が実は「いつもの」ことではなかったために大事故に遭遇したとしても、それこそ運と言うものではないだろうか。「いつもの」ことてはないことで人は時に後悔することもあるが、あくまでも選択したのは自らのことである。そしてそれがわたしの意識の中にある後続に迷惑をかけないという人への配慮のためであっても、けしてそれを後悔の理由にしてはいけないのである。

 この日その交差点を直進したのち、次の交差点で右折した。やはり直進車がいたため、交差点内で待っていると、すでに信号機は黄色になっている。しかしながら直進しようとするおばさんはなんのためらいもなくやってくる。「わたしが右折できないんだけど」と思い右折の意識を見せると、見事に睨まれた。まさに人間の思いの様である。
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「この時」

2009-05-21 12:33:00 | つぶやき
 「欲しがりません、勝つまでは」と言う言葉まであった戦争中から敗戦と共に目指すものは一転した。これほどの変化は、もちろんその国の思想の実権を持っていた人たちの敗戦であって政治の変化ということにもなるだろう。かつてあった敗戦という変化はとても大きなものであっただろうが、それほどの変化がこの安定の世に望まれているわけでもない。しかし熟成した社会で何事も変化がなく、それこそ二世がはばを効かせる時代にあって変化を求める人々が多くなっても不思議ではなかっただろう。自民党が政権を逃した細川政権誕生から既に時は経たが、いってみれば今の政権抗争が拮抗するような状態への一歩だったとも言えるだろう。しかし、二大政党制というアメリカ風を求めさせた背景にも明らかに報道の仕業があっただろうし、今や報道は民主党への政権交代を期待しているきらいが強い。それは今でないとその道は閉ざされるがごとく「この時」を逃さないというものであるのかもしれない。

 確かに政権交代が可能となった今では、両者を比較して政治を選択できるという期待性は高まっただろう。かつて自民党一党支配だった時代に、どれほど他党を支持しても、世の中の風はさほど変わらなかった。もちろんそこには安心感というものも確率的に高く存在していたのだろうが、だからこそそれを突き破ろうとする人々も登場する。ようは長い支配は続かないものという歴史から教えられたものがそこには現れるのである。

 そういう意味で今回の民主党代表辞任劇は、「この時」と誰もが認識した上での常識だとされるのかもしれないが、果たして「この時」であるのかどうかは一国民の判断ではなかなか見えてこないものである。代表選に勝った鳩山氏に対してのインタビューの中でも問われたものであるが、「代行」を小沢氏が要求したのまかという問いがあった。そもそも代表を降りるということはそのまま降格して役職に就くという思想では普通はないはず。そのくらいなら何のために辞任するのだということになる。これも誰しも突いていることだろうが、代表と言う看板でなければ西松建設問題を理由に{怪しい」という懸念を払拭できるという逃避的言い訳に聞こえてくる。説明責任さえ果たせば代表のままでもけして国民は不支持とはならないだろうに、それができないということは黒であるという証明でもある。それを看板の序列を変えただけで逃げてしまう、あるいは国政の変化のためというやはり説明不足名騒動は、なんともいえない「この時」の企みの中に沈んでいるようだ。

 信濃毎日新聞の5/20朝刊に「「代行」小沢氏が要求」という囲み記事があった。岡田氏は代表選で鳩山氏に敗れた16日の夜「自宅に戻り、映画「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」のDVDを見て一人涙した。社会変革を志した若者たちが疑心暗鬼から同志殺しに走っていった連合赤軍の歴史を振り返り「代表選のどこが足りなかったかを考えた」という。どんなに反発があっても、党のまとめ役である幹事長職を打診されれば受けたいと岡田が決心したのはその時だったかもしれない」と書かれていた。嘘のような話であるが岡田氏はなぜこのDVDを選択して見たのか、それがなぜ公になるほどわざとらしく物語化されているのか、「この時」はそれほどやってこなくてはならない時なのか。そしてそれほわど国民は企てに乗せられないと解っていないのか。などという滑稽な物語にさらに右往左往する「時」がやってくるのだろうか。
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わが駅の散らかりよう

2009-05-20 19:01:27 | つぶやき
 関西への修学旅行が中止され、新幹線が空っぽで東京をから大阪まで走るというニュースを聞いた。運営している方にとってみれば大きな痛手なのだろうが、集団で行動する団体といえば今やそのまま学生というイメージをたてられる。現場直行のこの日、駅にやってきた電車はいつもと1時間違いである。こんな時間だから空いていると思うのだが、考えてみればわたしが通勤で目的の駅に着く時間とほぼ同じ。ということは最も混雑している時間帯と言えるのかもしれない。その通りやってきた電車は満員である。ただし、わたしの乗車する駅が最寄の高校がある。ということでここでその満員状態が解消されることは容易に解る。停車して約1分。ようやく高校生たちが下車した。2両編成の電車に残ったのはわずか2人だけである。見事に一掃された車内は、いきなり平日の真昼間の様相に変わった。さながら高校生たちの貸切専用列車という具合だ。1時間前の風景もさほど変わらないほどこの駅で高校生が下車するが、これほどの車内の景色変化はない。そして下車した彼らは、そして彼女らは、1時間前と同様にだらだらと学校に向かって乱れた姿を、しかもどことなく列を成していく。ほぼ平均的にどこの学校よりも姿に乱れを感じ取る。そして平均的に「あの高校にだけは行きたくない」と言われる所以となる。

 この日、駅の構内への誘導路に入って行くおばあさんを前方に見かけた。わたしの乗る電車に乗るかと思いきや構内のホーム移動用の踏切を渡って反対側に歩いていった。無人駅の構内は電車に乗るためにだけではなく、歩道として利用される。そんな一場面である。おばあさんは構内に散らかっていた空き缶をおもむろに蹴飛ばしたかと思うと、メイン通りから脇へと蹴りやった。次にはパンでも包んでいたのであろうビニールをまた蹴っている。わが道に散らばるゴミが目障りだったに違いない。それらのゴミがもちろんのこと、この駅を利用している高校生の捨て散らかしたものであることはいうまでもない。散らかっているゴミが日々違うところを見ると、誰かが拾っている。清掃活動をしている同じ高校の生徒の業なのか、それとも近隣の人たちの業なのかは知らない。いずれにしても毎日利用している者として、少しはこうした活動をしなくてはならないのでは?、などと思わざるをえないほど、今や駅構内を小奇麗にしてくれる集団はない。



 晴れ上がった車窓から望める中央アルプスの山々には、さまざまな雪形が現れる季節である。窓の開かなくなった電車から窓越しにそれを捉えるのも簡単ではない。この時間帯は窓に反射するものもなく比較的は思うように撮れるものなのだが、そう思って構えるものの、窓を流れていく線路際の建物を避け、また線路に沿って垂れ下がっている電線を避けているとなかなかこれも思うようにいかないものなのである。ようやく南駒ケ岳の摺窪鉢カールに五人坊主の姿が見え始めてきたこのごろである。

 撮影 2009.5.20
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「日本製」

2009-05-19 12:30:55 | つぶやき
 時間などあまり気にしなくてもよい環境に暮らしているから、それほど時計が必要というほどではない。しかし、電車に乗るようになってからはけっこう時間を気にすることは多くなった。必ず毎日行き来する電車の時間は記憶からはずすことができないし、その時間に近づけば時計を何度も見ることになる。実はそんな束縛を好まないのは誰しも同じなのだろう。電車に乗らなかった時にはほとんど気にしなかったことが、増えるわけだから煩わしいと思って当然のことである。

 先日、そんな時間を気にするために利用している腕時計の秒針の動きがぎこちなくなった。今でも町の片隅にある時計屋さんに持ち込むと「電池だね」とあっさりと言われた。電池を交換してそれほどたっていないという印象があったから電池のせいだとは少しも考えていなかった。長く使っていていわゆる老化によって電池を消耗する抵抗が大きくなっているようだ。オーバーホールすれば改善すると言われたが、すでに電池を交換してからのことだったからとりあえず次の交換時期まではこのまま利用する。時計屋さんが言うには前回交換したのはちょうど1年ほど前のことという。さらに1年ほど前に交換しているからほぼ1年ごとになっているようだ。一般的には2年は持つといわれているようだから確かに寿命が短くなっている。オーバーホールすればまだまだ大丈夫と言われるから次回は忘れずにいなくてはならない。

 腕時計とはいっても腕にはつけていない。いつも左側のスラックスのポケットに入れている。さすがに小銭と一緒にポケットに入れていたら傷だらけになるだろうと小銭をよく入れる右側ではなく左側に突っ込んでいる。こんな使い方をしている人も珍しいだろう。もともと腕につけるのは好きではなかったこともあって、若いころには持ち歩かないこともあった。時間が知りたければ「今何時」と周囲の人に聞いたものだ。今でも時間を聞かれることはあるが、昔に比べればそういう会話は少なくなった。今はほとんどの人がケイタイを持ち歩いているから、時間を人に聞かなくても解るということなのだろうか。腕時計などというものを見なくなっても仕方のないことである。

 さてわたしの所有している腕時計は会社に入って15年のときにいただいたものである。もう15年ほど利用していることになるだろうか。時計の必要性がそれほど無いということもあって、わざわざ腕時計を買うなんていうことはまずない。このまま動きさえすれば一生ものになるのかもしれない。そう考えると年老いてくると長年使っているものがけっこうある。暑くなったと思ってシャツ1枚で通っていたら急に霜が降りるほど寒くなって上着を着るほどでもないと思って綿のベストを引っ張り出した。着るのはしばらくぶりだが、なかなか着る機会がないものである。まだ20代のころに購入したものだからそれこそ30年近く利用している、というか所有している。まったく利用しなかった年がその半分くらい、いやもっとあるかもしれない。利用しなかったからそれほど痛んではいない。だから古臭ささえ感じなければ十分今でも利用できる。着るものはぼろぼろになってもさ「作業着に使えるから」といってなかなか捨てないものだ。だからけっこう古いものを所有している。それでも人前で利用できるものはそれほどないものだ。このベストの縫製を見ると「日本製」とある。懐かしい表示である。今では「made in ○○」という表示が普通で○○製などというものはない。もちろん前者の○○の中には「china」とよく入っているのはご存知のとおり。「日本製」という表示をみるほどに、よりいっそう捨てがたい品物になるのは間違いないのだ。
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「死」と「活」をめぐる生の葛藤

2009-05-18 12:50:58 | ひとから学ぶ
 「仏教は、生活問題ではなく、生死問題をどうすればよいか学ぶのである」と真宗大谷派『善勝寺報』528号で説明している。言うまでもなく今や寺は特別な存在ではあるものの、教えを伝えるという機能は働かなくなった。その原点に「生活」ではなく「生死」の教えがあるとすれば無理もないことである。今生きている者たちにとって、生死よりは生活が最重要な課題となる。とすれば生死を考える以前に、まず現在の生活を成り立たせなくてはならなくなる。同報の中でこの「生死問題」について「人間に生まれると、どんな人でも、歳を取り、病に冒されて、やがて死んでいかなければならない。いわゆる自分の生老病死をどう受け止めるかを学ぶのである」と言う。確かに生活の真っ只中にいて、どうすれば世の中を渡り歩いていけるか、儲けを出すことができるか、偉い人になれるか、などと考えている間にはなかなか考えの及ばない「生死」だろう。しかし、介護問題が溢れかえるように、兄弟が減り、家意識がなくなった現代においては、生死問題に直面している人を身のまわりに抱えている人は多いはずである。しかしながら現実的にその問題を自らの精神の中で解消しようとする余裕はなかなか生まれない。なぜならそれほど現代の時は早く流れ、次から次へと自らへ課題が降り注ぎ、また「生活」のために担わなければならない日々がやってくる。それを仏教が「救ってくれる」などと思えないのも仕方のないことなのだろう。

 そのいっぽうでは宗教へ心を奪われる人も少なくないのだろう。地方の落ち着いた空間に、忽然と現れる宗教系の建物も珍しくはない。考えてみれば若い世代、とりわけ受験に追われ、就職に追われ、人間としてのいわゆる「成功」を目指そうとしている世代をこの仏教の教えに照らせば、どう考えても別世界といえる。あたりまえのことで、もっとも「生死問題」とはかけ離れているのだから…。しかしながらその流れから溢れたのか漏れたのか、外れた者たちにとっては、考えられなかった別世界へ流れていく。そのひとつが救いを求めた教えの世界ということになるだろうか。「生死問題」という仏教に向くよりは、「生活問題」を説く教えに若い人たちが走るのも選択といえる。しかし、実は「生死問題」とはいえ、仏教は生死を扱っているいわゆるあの世のための教えだけではない。どこか無宗教化したわたしたちは葬式という現代風に言えば迷惑なものを仏教にトレースしてきたきらいがある。神のように生活をするために願うものは、{祭り」という願いや感謝を表現する機会があり、人々の生活問題と隣り合わせにあった。神道系の葬式にとって変わられようとする背景も、単純に経費だけの比較だけではなく、そうした身近さというものもあっただろう。仏教の代理店、あるいは営業所とも言えるだろうか、いわゆる身近にある寺が怠ったつけは(もちろんすべての寺ではないが)、とても大きなものとなって、寺院の退廃を招いていくことになるのだろう。
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田植えもいろいろ

2009-05-17 22:30:22 | 農村環境
 金曜日は久しぶりに生家の田植えを手伝った。今年は最も大きな長辺百メートルを越す水田がすべて転作ということで、植えられた水田は7反余程度。形状が矩形ではない水田があって手間取ったものの、1日で田植えは終わった。1枚の水田が大きいと何から何まで規模が異なる。1枚3反を越えるような水田はあっという間に田植えは終わる。もちろん機械も大きいし長辺が長いから苗を運んだりする脇役の仕事は大きくなる。そこへゆくと妻の生家はまったく異なる。大きくても1反程度という大きさで、小さいものは2畝3畝といったものだ。それでいて傾斜のきつい地形だから畦畔は大きい。さらに等高線に沿ってうねっていたりすれば矩形の水田とはわけが違う。




 さてそんな妻の生家の水田の田植えはまだ先のことであるが、近所でこの土曜日に田植えをしていた。ご覧の通りどこにも平行ラインがない不均一な水田である。それでも田植え機は必需品で、手押しの田植え機で植えられる。そして植えられた水田に家族皆で入って植え直しというものをする。田植え機とはいっても完璧ではない。欠株が出ることもあるし、隅は植えにくいから隙間ができ、そんな箇所手で植える。道を挟んだところには田植え機ではとても植えられないような水田が、手で植えられていた。幅1メートルを欠きそうな水田である。代掻きだって機械というわけには行かないから手で行われる。これだけ小さな水田は有名な姨捨の棚田にもないし、この近在で著名な棚田にもない。稲刈り後もほぼ沼田化しているから一年中水がついている。そんな環境のせいか植えたばかりの水田にはツボ(タニシ)が生息している。けっこう育っていて味噌汁に入れても、また煮付けてみてもものになりそうなくらいだ。

 妻の生家にも小さな水田があった(今も地目上は水田であるが)が、今は耕作していない。車が入って行けないような場所だから無理もなく、小さいという条件よりも道がないという条件の方が現代においては重要だということになる。

 生家では昨年田植え機を新調した。1年にたった1日のための道具だが、周辺ではどこの農家も同じようなもの。そこへゆくと妻の生家では機械植え時代が到来して以降、一度も田植え機というものを購入したことはない。もともとがサラリーマン農業だったこともあっておんな子ども、そして老人が主体の農業だった。だから機械を購入してまで行うというだいそれたことはしなかった。親戚にその部分だけを依頼したり、専門に請け負ってくれる人を頼んだりしてこなしてきた。規模が違うとすべてが違うということである。自ら機械を所有していても乗用の田植え機を利用している家は妻の生家の周りには一軒もない。そこへゆくとわたしの生家の周りでは歩行型の田植え機を利用している農家は一軒もない。幅1メートル、長辺でも数メートルなんていう田んぼは、わたしの生家の周りでは蹴飛ばされてしまいそう空間なのである。

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