Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

仕事≠生きがい

2009-04-30 19:55:38 | ひとから学ぶ
 「人生を説く」において仕事≠生きがいの時代ではなくなったという関沢まゆみ氏の言葉を引用(『日本の民俗8』2009/3 吉川弘文館)した。このことについてもう少し考えてみよう。

 日常の中で生業は多くを占める。1日8時間労働としても起きているほぼ半分の時間は仕事をしているわけで、通勤時間を入れるとその比率は高まっていく。まして残業を毎日のように4時間くらいしている人がいたら人によっては起きている時間のほとんどを仕事に関わっているということにもなる。その多くを占める時間に生きがいを持てなくなったら生きている意味すら危うくなってしまう。もし仕事は生きがいではないという人が本当にいるとしたらきっとその人は仕事に関わっている時間の少ない人ということになるのではないだろうか。起きている時間の半分できっぱりと仕事と線引きが引けるとしたら、そういうことは可能なのだろう。また機械的にやることが固定化されている環境の仕事なら時間で割り切る毎日を暮らせそうだ。たまたまわたしがそういう仕事をしていないから「仕事≠生きがい」はないだろうと、思うだけなのかもしれないが、時間的な問題だけではないはずである。

 妻の日々の暮らしを見てみよう。妻は実家の農業を担っている。農業は何時から始まって何時に終わるという仕事ではない。自然相手と言われるように、しなければならにない時期があるが、それは時間を区切られるほどのものではない。だから人によって差が出るとも言え、もちろん働いただけ実入りが多くなりそうなのだろが、必ずしも見入りだけで営まれてきた農業ではなかったはず。それは生活の場である家や地域、人との関わりが仕事の時間に混ざりこんでいる。非生産的であっても必要なことと思われている作業をしなければならず、合理的でない部分が多かったとも言える。そしてそうした部分に対しての眼差しはなかなか世間が注いでいないことも事実だった。例えば屋敷周りを綺麗に整えるという意識は必ずあったはずであるが、必ずしも生産的な部分ではない。このことについては企業でも同様で、会社内に埃が舞うような環境はよろしくないということになる。整理整頓という言葉はごく当たり前なことだったが、もともとその意識があった農業空間において、こうした意識はかなりダウンしたといってもよい。これもまた人によって差はあるのも事実。話がそれたが、妻にとっては時間に制限された部分は少ないものの、ほぼ毎日が仕事であって、そこに明確な休日らしきものはない。逆に言えば明確な勤務時間もないのかもしれないが、そこにどう生きがいを見出すかとなれば、①自然とのやりとりに興味を持つ、②初物をおすそ分けする時の感謝に喜ぶ、③例年にない収穫に喜ぶ、などといったものだろうか。ようは原点には「感謝」の表現が存在する。

 品質管理と生産能力といった数的表現によって働く私たちにとっては、この「感謝」という部分がかなり忘れられていることも事実である。大量消費する時代において、商売は繁盛する。モノを売る人がいて、買う人がいて、そしてその機会は日常的なものとなっている。モノを売った側は「ありがとうございました」とは言うが、買った側が言うことはない。しかし昔からそれが当たり前でもなかったはず。行商と買い手との間にはそれほど割り切られた上下関係はなかった。日常的に財布を出して金銭で消化していく暮らしに、両者の関係は明確な上下が存在することになった。この関係は、仕事の場面でも同様で、例えば委託した側と受託した側の関係も、商売となんら変わりなくなった。ようは提供する側に「感謝」を現せなくなった時代において、生きがいという心理的な部分を補うものが無くなったとも言えるかもしれない。わたしにはたったそれだけのこと、と思えるのだ。生きがい以前の「感謝」、もちろん生きていることも「感謝」なのだろうが、心理的な部分を補うものがどんどんなくなっているということもいえるのではないだろうか。故に、わたしたちは「仕事が生きがい」と口にできなくなっているような気がしてならないわけで、実は仕事に生きがいを持ちたいと誰しも思っているはずだ。
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馬頭観音

2009-04-29 21:32:59 | つぶやき
 伊那市内のことをけっこうくまなく知っていても、今だ足を踏み入れていないところも多い。伊那市内は比較的道が狭いという印象は、ほかの地域を知っている者にとっては思うところである。それは市街地も、またそうでない農村地帯も同様である。わたしが生まれ育った飯島町は、街部はそれほど広くもなく小さなものであるが、その小さな街部も伊那市内の街部よりは道は広い。そして農村地帯へはいるとさらに道の幅が異なる。その理由は、飯島町はいわゆる昭和における生産調整のの始まった以降の国の補助事業を取り組み、全町に近くほ場整備を行った。このことは飯島町に限らず隣接する駒ヶ根市や宮田村も同様だ。水田地帯に張り巡らされた道路は、おおかたの道路が路肩から路肩までの幅が4メートル程度はある。普通車が行き違うには少し狭い感じはするが、農村で当たり前のように利用されるようになった軽トラックなら余裕ですれ違うことができる。ところが伊那市内の水田地帯の道ではそうはいかない。軽でもすれ違うことができない道がけっこうある。伊那市内では前述したような時代に、ほ場整備は部分的に行われたに過ぎず、市内の多くの地域はそれ以前の開田で整備されたままの姿を残す。そんなことが、道の狭さを印象付けるのである。


 そして市街地も段丘崖に沿って立ち並ぶ集落内は、ふだんはめったに通る必要もなく、足を踏み入れたことのない道がけっこうある。山寺の沢の川を天竜川と同じ沖積地から追ってさかのぼって行くと、この段丘崖を縫うように川は西へ向かっていく。そんな川沿いの集落はわたしには認識のなかった地域であるが、段丘崖ということもあって道は狭い。そんな段丘崖に白山社(白山社も記憶にはあまりなかったのだが、そういえばかつて焼餅踊りを見にきたことがあった)が建っている。とても太いケヤキの木が目立つ神社で目通り幹囲は9.8メートルあるという。推定樹齢 は800年というから鎌倉幕府が始まったころの年代である。この社の境内に石仏が何体か安置されている。そんな石仏の中でわたしがもっとも気に入ったものは天保9年銘がある馬頭観音である。温和な顔の上に彫られた馬頭の表現が稚拙というかなんというか、この時代、あるいは作者のイメージする馬とはどういうものだったのかなどと思いがはせる。馬頭を浮き彫りにしたサイドに刻まれた耳の表現が特徴的である。すぐ近くに天保6年の馬頭観音も建っているが、前者と大変よく似ている。おそらく彫った人が同じなのだろう。石仏群にはさまざまな年代のものが混ざっているが、改めて年代によって同じ馬頭観音でも表情が違う。寛政5年銘のある馬頭観音、これもまたほかではちょっと見ない観音さんの表情である。ちょっと見では一見不動明王と見間違う。頭上に馬頭が彫られているから馬頭観音と解るが、顔だけではそうは思わない。天保9年と寛政5年では50年近く差があるから、同じ作者ということはないだろう。作者によってイメージしているものが明らかに違うということがここから解るのだが、馬頭の耳のイメージは天保のものも寛政のものも似ている。このあたりでは馬の耳といえばこういうイメージがされていたのだろうか。

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人生を説く

2009-04-28 12:31:22 | 民俗学
 『日本の民俗』シリーズの8巻(2009/3 吉川弘文館)は「成長と人生」と言うテーマである。従来の民俗学で言うところの人生儀礼、あるいは人の一生という枠でくくられた分野である。地域や家族のあり方が変化してきている現在、このテーマを掲げるとその変化は著しいとともに、仕方のないことと理解されるだろう。しかし、かつての儀礼にしても地域社会が担ってきたものにしても、その意図は多様であるとともに、奥深いものがあった。どれほど変化しようがそこに学ぶものが多いことは誰しも感じている。そんななか、今シリーズの中でもとくに変化の描き方から意図が汲み難い内容で閉じられていると感じた一冊である。研究者の意図によってどうにでも展開されるという印象を与える事例の記述がそこにある。それぞれの場面では頷けるのだが、その展開の先に何を求めようとしているかは捉えにくい。

 関沢まゆみ氏は宮座に触れ、宮座というしきたりの変化を肯定し、そうした流れにみる現代人の試み、受容への努力に民俗を見出そうとしている。例えば一子相伝であっても後継者難から部外者を導入していくというようなことも受け入れられていかなくてはならないのが現代なのだと解る。それをまたそれぞれの年代が「世代交代」という中で意図的に変えていく努力を紹介する。変化ありきを解明していくのも民俗学の視点なのだと知る。そんななか頷くことも多いのだが、どうも民俗学らしく思いいれのような傾向がそこにあって、頭を傾げるフレーズも見受けられる。だからこそ民俗学?と言われるのかもしれないが、そんな気になった部分をいくつか拾ってみよう。

 関沢まゆみ氏は「大人と仕事」においてこんなことを言葉にしている。「それまでのような仕事イコール生きがいではなく、仕事と生きがいとを分けて考える傾向が出てきたのである」と高度成長期以降オイルショック後のサラリーマンたちの生きがい観を捉えている。ここからオイルショック前の右肩上がり時代を仕事=生きがい、その後を仕事≠生きがいとふたつに分けているが、果たしてそうだろうか。そしてその意識の変化が大人の役割、そして老いの中にどう連鎖していくかを語っているが、その最終目標は見えてこない。わたしたちが年齢を重ねる中にさざまな思いを巡らせているのは、情報の多さとその情報の認識格差が悩みを大きくしている。そもそも仕事に生きがい見出さなくなったわけではないだろう。多様な情報の中で迷いが多くなったといことではないだろうか。人々は自分のしている仕事に誰しも生きがいは見出そうとしているはずである。その上で暮らしに余裕ができたから余裕を別の生きがいに求めようとしたまでだ。確かに「一人前の大人としての、仕事と人生と家庭の意味を深く考えることが求められる時代」になったかもしれないが、それが世代と老いとどう関わるのか、理解しにくい。

 また飯島吉晴氏はあとがきの中で岩澤信夫氏の言葉(『生きものの豊かな田んぼ』日本放送協会出版 2008)を引用して「イネはいつも五葉で成長する植物でずっと成苗植えをしてきたのに、人でいえば「七つ前」の状態の稚苗を植えることが常識と化し、田んぼからはほとんど生き物が消えてしまった」と書いている。稚苗を植えるようになったから生き物が消えたわけではない。さらに「不耕作起冬期湛水をくみあわせた自然農法の田んぼは生き物の楽園となり、多種多様な生物の働きで地力が高まり、雑草もはえにくく農薬や肥料を施さなくても、そこではイネは野生本来の力を発揮し、どこよりも立派なコメができるという。諸経費や労力、環境の点からもいいことずくめで普及してよいはずであるが、農機具や農薬・肥料メーカーの利害のほか、周囲に気兼ねが多く保守的で情報に疎い農村には容易には普及していないようである」と引用を続ける。引用を多用する飯島氏の記述は脈絡はあるものの、このように不可思議な言葉をそのまま引用する。情報に疎いがためいいことずくめの農法をしないわけでもないし、そもそも「いいことずくめ」という表現には疑問符が並ぶ。最後に「われわれは、うわべだけのニセモノの氾濫する世界ではなく、大地に足をつけた本物の生き方を構築し探求していく必要がある」と締めくくっているが、岩澤氏の言葉を引用しながらこう締めくくる流れはとても理解に苦しむ。農村社会に詳しいはずの民俗学がこうも乖離した世界を描くと、そこまで綴られていたものは「何?」という印象を持ってしまう。
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上戸の横井戸

2009-04-27 12:28:39 | 歴史から学ぶ
 伊那市の中心地入舟の天竜川の端に、暗渠から水が出ている場所がある。すぐ南には小沢川の吐き出しがあり、河川の吐き出しというものはいかにもオープンなものだという印象を地方の者は思うものなのだが、前段の暗渠の口も河川であることに違いはない。大きな河川の合流部にできた町には、こうした風景は珍しいことではないが、もともと吐き出しという位置は、氾濫を起こしやすい場所であったことだろう。その吐き出しに町ができるというのも経緯はさまざまなのだろう。今ではかつての町が違う場所に移ってさびれてしまうという光景は当たり前だが、こうしたかつての繁華街が河川の合流部にできたケースは、長野県内では例は少ないのではないだろうか。もちろんこの時代の町を概観すれば、松本なども河川の合流部に近いが、伊那ほどのことはない。

 前段の暗渠で天竜川に合流する河川は鳥谷川という。一級河川ではないものの、市内をさかのぼるとそこそこの谷を形成している川である。入舟から北進すると伊那北駅の近くで向きを変えて段丘崖に溝を造って西山に向かっていく。八幡町などの住宅が密集している間は、幅2メートルほどの狭いものである。住宅街を過ぎると水田が川の蛇行に合わせて細々と住宅にまぎれて点在して並んでいて、この川の水を利用して耕作している。ところが南箕輪村沢尻に入ると、今では西天竜幹線水路の水を利用している。沢尻の鳥谷川のほとりにこの地域の草分けと言われた家の屋敷跡があるが、ここには湧水があったという。河川ではあるものの鳥谷川の水量は乏しかったようで、飲料水などに優先すれば、水田を耕作するほどの水はなかなか望めなかったという。草分けの屋敷跡のすぐ西側に、今も鳥谷川をまたいで水路橋が架かっている。この水路橋の先は横井戸であって、明治から大正にかけて造られたもののようだ。話によると国道361号のあたりまで掘られているという。水路橋でわたった水は、暗渠で水田の下を流下し、200メートルほど下った住宅の裏手の水槽に出ている。それほど多くの水田を潤したわけではないのだろうが、このあたりではこうして水田の用水を求めて横井戸を掘った跡があちこちに残る。

 鳥谷川をさらにさかのぼると、南箕輪村を出て再び伊那市に入る。「上戸」と書いて「あがっと」と呼ぶ集落が見え始めるころには、この川は幅1メートルほどの小川程度に狭まる。その川の端に大木があって、横に「水神」けの石碑が建っている。当初はなぜここに水神が建っているのかと思ったが、碑に記された銘文を読んですぐに解った。ここにやはり横井戸があったのだ。その碑には次のように書かれている。

 (正面) 水神
 (左側) 大正九年三月十六日」
 (裏) 抑モ吾等が土地開拓ヲ企テ此ノ横井戸工事二着手セシハ実二明治三十年ナリキ爾来其ノ延長六百余間ニ達シ現今約五千坪ノ新田ヲ開クコトヲ得タリ 此処二謹而水神ヲ奉祠シ永ク泉水ノ絶エザランコトヲ祈り奉ル

 故有賀熊太郎
   鈴木三之助
 故有賀菊弥
   鈴木戈弥
   鈴木宇佐蔵

 このあたりの横井戸はだいたいこの時代に造られている。その技術が入ってきて広まった時代なのだろう。1920年のことであるから、まだ今から90年ほど前のことである。碑文によれば長さ1100メートルほどになる。上戸は扇状地面に開かれた地で、用水に苦労したと言われる。この井戸を開いたことにより、面積で約1.7ヘクタールほどの水田に水が引かれた。大きな木の真ん中に穴が開いていて、手をかざすとそこから風が吹いているのがわかる。ちょうどニリンソウが一面に咲いていて、今は湧き出るほどの水は見られないが、往時の姿が思い出される。
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そもそも外郭団体は何のためにある

2009-04-26 21:26:37 | つぶやき
 昨日(4/25)付けの信濃毎日新聞朝刊に県の外郭団体への天下りの報道がされていた。県が2008年度に退職した課長級以上の職員110人の再就職先を公表したことに対しての記事である。再就職した83人のうち、再就職先が県の外郭団体だったのは35人だったという。再就職先を公表するようになって以降で最多だったというが、あくまでも公表をするようになって以降のものであって、公表が2001年だったということで田中康夫県知事時代に始まったものである。外郭団体が大嫌いだった田中康夫にとっては、天下りなどもってのほか的意識があっただろうから、その後知事が変わって以降増えていく傾向は確かにあっただろう。もちろんこのまま右肩上がりに増えていくものではなく、外郭団体への風当たりが強い中では、「たまたま」多かったという程度のものと思う。しかし、いずれにしても県民意識という面では、かつての県政に戻りつつあるというイメージを味わっている人たちは多いだろう。信濃毎日新聞であるからそれほど過激に県政を批判的に捉えることはない。しかし、多様な意見の中で県政寄りの記事ばかりでは批判で読者が離れる。となればこうした記事も逐次掲載していくことになるのだろうが、そのあたりを察知して書きたくるブログや掲示板も多い。

 それはともかくとして、外郭団体という以上は県政という組織の中では担えない部分があるから外郭団体が存在しているはず。そこに天下りがあってもなんら不思議なことではない。ただ国政の場でもにぎやかなように、渡り歩いて退職金を稼ぎまくるという物語があるからよけいに批判の的になる。しかし、県の外郭団体ではそういうことがあっても常識的なもののはず。そもそもその専門分野に働いた公務員は専門職としてその分野に顔が広いし知識もある。おのずとそれぞれの人たちにとって都合が良いことは当然で、「なれ合い」という弊害があってもその団体の存在意義からいけば自然な成り行きとなるだろう。だいたいが再就職先がまったく別世界なんていうことはあまりないわけで、できれば「長い経験を生かせる場」を求めるのも自然なこと。再就職=天下りというわけでもないし、国と違って県政においては外郭団体の存在は割り切られるようになっていることは事実だ。そもそもそれを批判するという以前に、外郭団体の必要性を責めるほうが先ではないだろうか。そしてなぜ外郭団体が必要なのかという部分の本質を知るべきである。意外にこのあたりは知られていない。

 「村井仁という悪徳政治家」などといった具合に国政から県政、そして市町村政まで「悪徳」を繰り返して叫ぶブログを頻繁にのぞいているが、そこには笑い話が毎日のように展開されている。なるほどこうして批判していくものなのだ、と勉強になるとともに次から次へと批判の言葉を重ね、批判すると「削除する」と脅迫することが常識だと思っている人がいることも時代の風だと思うが、こうした人たちが地方に増えるのもどうだろうと思う。
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松倉のイワヤマツツジ

2009-04-25 20:26:43 | 農村環境


 国立信州高遠青少年自然の家へは高遠町藤沢川沿いから松倉川に沿って上ったところにある。かつての江戸への道である金沢峠道は同じように松倉川に沿って上る。ようは古い街道沿いということになる。この川に沿って上っていくのだが、実はこの松倉については昨年触れたことがある。昨年の冬に何度かここを訪れ、大きな雪だるま三兄弟にひかれたものだ。高遠の町から車で20分余走らないとこの地には入れない。旧藤沢村は藤沢川沿いでももっとも奥の村である。ところがこの松倉の集落へ入ると、いわゆる郊外であっても廃れ気味な山間の地という印象は薄い。きっとそこそこ若い人たちが同居している集落なのだろう。だからこそ雪だるま三兄弟を見ることができたのかもしれない。

 ほぼ1年ぶりにその松倉の集落に入った。松倉川沿いに集落へ入ると、やはり季節もあるのだろうが外で働いている人の姿を何人もうかがうことができる。少し集落を上って行くと対岸の川のほとりの岩場に妻の家にも咲いているイワツツジが何株も栄えるように咲いていた。妻の実家のあたりよりはほぼ一週間近くこちらの方が花期が遅いようで今が盛りである。そこからさらに集落はずれのあたりまで上っていくが、やはり山の中にイワツツジが点在して咲いている。わたしの住むところの近くの松川町生田あたりではもう二週間ほど前がその花の盛りであった。やはり岩場のあるような場所に点在して咲いている。まだ芽吹きの始まるころのイワツヅシの姿は、点在していても十二分に山の風景を楽しませてくれる。

 用事を足して松倉川を今度は下り始めると、眼前に見事なイワツツジの群落が視界に飛び込んできた。集落の対岸のやや高い位置の山肌にイワツツジが密集するように咲き誇っているのだ。下から上ってきたときにはまったく気がつかなかったのに、集落の上から下の方に視線をやると見事な花に気がつく。「これは」と思い、集落上に高遠青少年自然の家へ向かう広い道に上る。予想していたように集落の向こう側に見事な花を咲かせる姿が構成された。妻の家の群落の比ではない。2倍、いや3倍くらい広いだろうか。これだけ群落するには手をかけているのではないかと思い、道端で働いているおじいさんに声をかけた。「いつからこんなに咲くようになったのですか」と。おじいさんいわく「自分が青年団のころ点在して咲いていたツツジに手をかけるようになった」と言う。「青年団のころといえば、もう5、60年くらい前のことですか」と聞くと、「わたしはもう92になる」という。これもまたびっくりで、とてもそのようなお年には見えない。その当時から手をかけてきたのがここまでなったということなのだろう。今では青年の衆が手をかけるということはなく、区の役員など有志が管理しているという。ここではイワツツジとは言わずにイワヤマツツジというらしい。その名の通り「こい土のところでは増えない。岩場のあるようなところで増える」という。これほど見事に傾斜のきつい山肌に群落を見たのは初めてであって、感動ものであった。

 撮影 2009.4.24(伊那市高遠町藤沢松倉)
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反応のない子どもたち

2009-04-24 19:16:46 | つぶやき
 「おはよう」と声を掛けても毎回反応することはない彼は、うつむいて人通りもない道を歩く。たまにではあるがわたしと行き会うときは、姿が見えてくると「今日は反応があるのだろうか」などとすぐに考える。うつむいて歩く姿は、あまり挨拶を交わして欲しくないという雰囲気を見せるのだが、時にははっきり聞きとることはできないが「おはようございます」と反応してくる。行き会うごとその反応は異なるが、まったく反応のないこともある。それでも反応を期待して「おはよう」と声を掛けていることも事実だ。とくに明確に反応してくれなくても良い。それが彼の思いだとわたしに解ればわたしは納得がいく。彼は近くの高校に歩いて通う高校生である。

 近所の子どもたちの通学時間とわたしの通勤時間が同じということで、行き交う子どもたちと挨拶を交わすことは頻繁である。田舎の子どもたちが「挨拶をする」というのはよく言われることなのだが、必ずしも「田舎」という限定では言いがたいものもある。以前にも触れたが「田舎」とはどういうところかという定義も問題になる。けっこうマチ場の子どもたちでも挨拶を交わしてくれる子どもたちは多い。今は「田舎」だからという前提はあまり効かなくなった。

 ふだん挨拶を交わすことの多い地元の小さな小学校の生徒。住宅が満遍なくあるわけてはなく、また点在していることもあって、子どもたちの通学路は複雑に入り組む。わたしの通勤途上に学校があり、わたしの住む地域からは駅に向かう道が学校に向かう最短距離の道である。ところが子どもたちとは行き交うのである。逆行してほかの子どもたちと集団になりながら通うため、あるいは幅の広い幹線道路を渡るのに横断歩道や信号機のあるところを原点にして通学路を設定していくからそれは必ずしも最短とはいかない。かなり遠回りして通学することも珍しくない。大人の「最短」という合理的なものとは違うのである。こんなこともあって通勤途上で行き交う場所は幹線道路沿いをはずれた住宅街の何箇所かに限定されてくる。この2年ほどこうして子どもたちと顔を合わせてきたのだが、最近の傾向がある。その傾向から必ずしも良否を求めるわけではないのだが、高校生の彼のようなあまり言葉を交わしたくないという思いが解るものてはなく、反応のない意図のわからない雰囲気を何度も味わようになったのである。このごろは顔をよく注視して目が合うようにしながら挨拶をしても何の反応もない。高校生の彼は交わしたくないなければより一層うつむき加減である。ところが小学生の無反応な子どもたちは、わたしのことを人とは見ていないように反応しない。視線すら動じない。近所のおじさんに会っても「知らないおじさん」ということになるのかもしれないが、それにしても毎日姿を見る以上、さらにはわたしの自宅から出るのが視界に入っていそうなのにそんな具合だ。同じことは学校の前の横断歩道でも何度も味わう。人を食ったような男の子たちは、挨拶をするべくもなくわたしの存在を視界にいれない。「何かが変わったのだろうか」と思っても仕方ないほど、最近そんな雰囲気を味わう。無言でわたしを避けたように行き交った高校生の彼より、小学生のそんな行動に問題をはらんでいるような気がしてならない。
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カタクリが咲く

2009-04-23 12:50:45 | 自然から学ぶ
 スプリング・エフェメラルとは春植物のことを言うらしいが、春に咲いた花が夏になっても咲いていたり、あるいは花が終わっても姿を見せているものは該当しないという。ようは春に咲いてそのまま地上から姿を消してしまうようなものを言うらしい。エフェメラルという意味は現れてすぐ消える短命な生き物のことを指すともいう。春に咲く花だからスプリング・エフェメラルとは言わないのである。


 万葉集の「もののふの 八十乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花」という大伴家持のうたで紹介されることの多いカタクリは、けっこう人気のある花である。「堅香子」がカタクリの意味だという。春の花はまだ芽吹きする前の見通しのよい空間に、そして無駄なモノがあまり見えない空間に咲くから印象が良い。きっとスプリングエフェメラルと言われる花が、夏や秋に咲いていたら、これほど印象深くないのかもしれない。逆に言えば夏や秋に咲く小さな花が、まだ枯れ果てている空間に花を咲かせたら、また見る目が違うのだろう。

 群生していれば多くの人を呼ぶことになるのだろうが、花期はそれほど長くはない。伊那市横山のなんでもない沢沿いにこのカタクリを見つけた。なんでもないことはなく、近くに群生地があって案内板も掲げられているが、このカタクリはその群生地のものではない。たまたま一株みつけたら、周辺にも幾株か咲いていた。先日のキクザキイチリンソウと同じようなもので、まず一株に目が行って、気がついたらほかにもあったという具合だ。しかし、幾株かといってもさすがにカタクリの群生とまではいかない。実は見つけたのは雨の日であった。こんな日のカタクリは写真のように花びらは反り返っていない。まだつぼみが開いたばかりという雰囲気の状態で、いわゆるカタクリらしいうつむいてはいても反り返って勢いを見せる姿ではない。同じ場所を翌日晴れ上がった空の下訪れると、意外にも前日には気がつかなかったような場所にもカタクリが咲いていた。やはり写真のような状態がいつものような反り返った状態になると目立つようになるのだ。小林正明氏の『信州花ごよみ』(信濃毎日新聞社)によれば、長野県でもの北信地域のものは紫色が強く、南信のものは色が淡いという。

 片栗粉はこのカタクリの鱗茎から抽出したデンプンを利用したことが語源になっている。片栗粉といえばてんぷらに使ったものだがそれこそ片栗粉と玉子を溶いててんぷらをしたものだ。それと風邪をひくと、片栗粉を溶いて飲んだもので子どものころはそれが大好きだった。風邪をひくと「片栗粉が欲しい」と思うほどそれは定番だった。もちろんその当時、カタクリが片栗粉に利用されていたものなどということは知らなかった。

 撮影 2009.4.21
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全国一斉という“罠”

2009-04-22 12:36:51 | つぶやき
 今日の新聞には全国一斉学力テストの問題が公開されていた。試験が行われれば翌日すぐにすべての人前に公開されるというものは限られる。高校入試や大学センター試験など公が行ったものである。今回のテスト日は当初28日だったと言うが前倒しでこの21日に行われたようだ。「前倒し」と説明されているがどうも腑に落ちない理由だ。南信地方の中学などで修学旅行と重なって21日に実施できなかった。うわさによれば日程について文科省に問い合わせたが構わないというあっさりした回答だったようだ。同様に日程が合わなかった学校は全国にあるようで、このことについて別の日に行っても全体の結果には反映させないという説明を報道で盛んにしている。ようは100パーセントという実施率なのに結果には反映されない子どもたちがけっこういるということになる。そこまでして一斉テストにこだわる必要は何もないと思うのだが、このあたりがお役所たる所以なのかもしれない。文科省の姿に世論の上でかたちばかり行っているテストという雰囲気を感じる。子どもたちのためにというよりは自らの立場とか権力のために存在している一斉テストなのだ。

 業者テストを行っている現場において、一斉テストとどう違うのかということは現場におられる教員が最も認識していることだろう。その現場の生の声はなかなか聞こえてこない。教員も公務員だけに無駄な個人的意見は口にしない。もしかしたらこんな一斉テストはほとんど用を成さないのかもしれない。犬山市が行う行わないで目立ったが、そんなことはきっと当局は意に介していないのだろう。騒いでいるのは当事者、いや当事者ではない、いわゆる実行権を持つ大人たちと子どもたちの親だけで、子どもたちにとっては迷惑な話かもしれない。

 そもそも全国共通の一斉テストにどれほど意味があるのだろう。分析されて有効利用されている雰囲気はない。ただ平均点が示され、地域ごとの差が一人歩きするだけで、そんなものに一喜一憂している権力者は滑稽なものである。むしろ専門化が示している業者テストは、一斉ではなくとも傾向や地域差は把握しているはず。同じテストを同じ日に行って少しばかり点差が現れたといってその数値だけで何が見えるだろう。専門家の方がよりいっそう詳細な補足をしてくれるに違いない。まさか文科省もこうした専門家に分析を依頼している、などということもありえるのだろうが、お役所的というのはそんなところである。全学年の中で点数の高い子と低い子が解れば何に問題があるかなどということは現場の教員には解るはず。そもそもテストなどしなくてもふだんの授業でそのくらいは解るもの。試験という場で実力が発揮できるかできないかを判断するために行うのなら共通でなくとも十分である。そして県の中で、あるいは全国の中でどうなのかなどという情報があったとしても、それを現場に繁栄することはなかなかできない、というかそこまで視野を広めて対応することは必要とも思えない。結局教育行政を行っている側がそのデータを欲しがっているということだろうか。だからこそ市町村ごとで公表する必要もないだろうし、それを求めている側は何を意図しているかということにもなる。そう考えてくると行政のために行われているデータ集めの舞台で、子どもも、そして親も踊らされているだけではないだろうか。「やるやらない」という問題に締め付けをする権力者、それに多様に反応するわたしたち。全国データに加味されず、加えて試験問題が開示されているなかで日をずらして試験を実施するという現実。もはや時間の無駄とは思わないのだろうか。
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気になる行動パターン

2009-04-21 12:34:55 | ひとから学ぶ
 人の行動パターンを揶揄するわけではないが、「またか」と言う具合に個人特有の動きを常にするのが気になることがあるものだ。それがほかの人と同じなら気になることもないが、ことなった行動パターンというのは目立つもので気になってしまうことがある。そんなことは気にするほどのことではないと解っていても、けっこうそのパターンが予測できてその通りになるとうつむいてにやけてしまうものだ。同じ会社の空間でこんなパターンの人がいる。出張するとき行き先の遠近に関わらず昼時間になる前後に席を立つのである。外出しそうなときはだれでも準備をある低度するから解るのだが、そんな雰囲気をかもし出しながら昼の休憩時間に入っても出かけないときもあるが、せいぜい20分もたてば席を立つ。ようは午後12時の前後2、30分というあたりが出かけるケースの多い人がいる。休憩時間ということもあるからその場合は一人で出張する場合に限られるが、いずれにしてもこういう席の立ち方をする人は、まれに相手側の事情などで見られるが、ほかにはいない。一度や二度ではなくそれが頻繁となれば、明らかにその行動をしようとする人の意図がそこにはあるのだろう。

 この人、席を立つときに気になるパターンをこのように見せるが、実は席に着くときにも独特なパターンを見せる。午前中姿が見えないなーと思っていると出張している。そして昼の休憩に入って12時半を過ぎたころに帰って来るのである。席を立つ際の例も席に着く際の例も、いずれの場合も昼食は外出先で取っているということになるだろうか。簡単にいえば人とは時間をずらして昼を取るためにこんなパターンになるのだろうが、果たしてそこに「ゆっくりと昼を取りたい」という気持ちがあるかないかについては定かではない。昼の休憩時間でも仕事をしている雰囲気を醸し出す人だからけして「さほろう」という意図が見え見えなタイプではない。とすれば何がその意図にあるのかということになる。普通なら休憩時間はプライベートな時間である。したがって出張するのならその時間が終わってから、また帰るのなら休憩時間が終わるころに帰るというのがパターンだろう。もちろん相手側との待ち合わせ時間の都合でそれは変化するものであるが、これほどパターン化してくると意識のなかに意図があるはずである。

 例えば席を立つとき。相手側と午後1時に待ち合わせをするとすれば、午後12時に出たのでは昼を取るのに忙しい。12時を境に前後の幅を見たとしてもいずれにしても昼を取る時間をどの程度設定しているかということになるだろう。そもそも毎回そういうパターンになるということはやはり「昼」を取ることを優先しているパターンであることに違いはない。それを証明するように、昼を取って出先から帰って来る12時半という帰社時間である。これに関してはけっこう人の心理によって異なってくるものだ。休憩時間の真っ只中ならさぼっているという印象は与えない。これが休憩時間に入ったころならすでに出先で早昼をちとったということになるだろう。勇み足的な印象を与える。もちろんたまにあることなら人には意識されないだろうが、毎回となれば印象に反映される。また、常に午後1時ころに帰るというのもあまりに通常過ぎて昼を取るために出張したと捉えられがちである。このあたりをうまくごまかそうとすればこういうことになるのだろう。

 それにしてもあまりのパターン化は逆にこんな具合に意識されることになる。普通の動きとはどういうものかということを認識した上でここまでパターン化していれば、さらに意図は奥深いものなのかもしれない。果たしてその真意は…。
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常識の範疇

2009-04-20 12:34:12 | ひとから学ぶ
 この4月から町の病院に新しく内科医がやってきた。医師不足が叫ばれる中、町は医師確保に積極的だったという。そのお医者さんが住むというのがわたしの住む集落なのだが、新年度総会にやってきて新規加入の挨拶をされた。ところが宴会が始まるとわたしの周りでいろいろそのことを口にする人たちがいた。やはり新規参入というケースでも入り方が少し違うといろいろ言われるものなのだ。そんななか、「今日は新規に加入したという挨拶だったのだろうか」という疑問の声があがり、まだ住んでいないのに本当に加入してくれるものなのかという疑問の声があがった。そう考えれば紹介した自治会の役員も、また挨拶をされた方も細かいことは述べなかったが、ふつうに聞き流していれば「入ったから挨拶をした」ということになる。ところが実際はまだ住んでおらず、これから家を建てるということなので、挨拶はあっても自治会加入はそれからで良かったのではないか、という意見が宴会の席であがったわけだ。わたしもこの自治会に10年ほど前に入ったものだから新規参入者である。その後にも何人か入っているが、それまでのケースと少し異なることは確かなのだ。

 そもそも自治会に入ることを拒むものでもないし、住んでいる以上は入って欲しいというのが自治体の意向でもある。だからこそ今回のケースでも町から自治会の方に内々に話があったようだし、自治会に入ってもらいたいということはお医者さんにも話を町の方でされたようだ。そして自治会に入れば最も付き合いが深くなるのは隣組ということになる。付き合いをしてみて良否を判断するわけではないので、入りたいという人を拒むことはないのだが、今回は普通ではなかった。現在人々が住んでいる空間からは少しばかり山奥に入った今までなら人が住み着くような場所ではないところに家を建てるというからだ。隣組の人たちにとってはそれは負担になることだろう。しかし隣組が了解すればいいじゃないかという具合に結局は隣組にその結論が振られ、ましてや町が積極的に進めた話を隣組が納得しないからといって蹴ることもできない状況下では「致し方ない」という雰囲気があったことだろう。人里から離れた場所に新規参入者が住み着くというケースはけして珍しい話ではない。噂によれば当局が積極的だったということで自宅も含めそのお医者さんがライフワークにしている研究の環境整備を当局が行うというようなことだ。事実はともかくとしてそうした噂のなかで同居するこうした集落の人たちもいろいろ思うところがあるわけだ。普通の人の参入ではないところにいろいろ言われるのはつきものなのだろうが、自治会にいたっては付き合いをしていくわけだから普通でなくとも普通に接していかなくてはならない。そのあたりがどうか、ということになるのだろう。

 そう考えると「自治会に入りたい」というお医者さんの言葉は、そもそも町が自治会に了解を得て欲しいという話の中で当人が気を使われて早くから「自治会に挨拶をしたい」と申し出ていたものであって、「入りたい、と言っているのだから拒む必要はない」といってまだ住み着いていないうちに自治会員にしてしまうところには、やはり勇み足的なこちらの判断があるようにも思うのだが、この思いはやはりそれまでに新規参入した人たちの事例によるところのものだ。特例的に受けとめて宴会席上で話題になったことと、それまでの慣例に照らし合わせるとどうだったのか、そして「今日の挨拶は何?」と少し勘ぐってしまうあたりが、逆を言えば自治会の役員の方に少し配慮が必要だったということではないだろうか。流れでいけば普通のケースではなかったため、挨拶はあったとしても自治会の加入は住み始めてからでも十分だっただろう。そうでないとしてもそのあたりは少し言葉を添えればよいこと。ところがそこに気がつかないあたりに今風を感じ取るのだが、どうだろう。

 お医者さんだからといって双方が特別視していたから少しばかり住民も違和感を覚えたわけだ。そしてそんな宴席の話題を役員に投げかければ「いろいろなケースがあってよい」ということで治められる。そして「入りたいと言っているのだからいいじゃないか」ということになるが、付け加えて役員さんはこんなことをいう。「そもそもあんなところに住むと言ったときに、もっと自治会の中で議論されてしかるべきだったものを、みんながいろいろ思っているのにそのまま進んでしまったところに問題があった」と。結局だれしも普通ではないということを認識したうえで、黙っていたところに問題があるのだが、そこに常識をどの程度当てはめるかということにもなるのだろう。例えば加入金が10万円必要とされていたとしよう。次の年からいきなり1万円で良いですと言われ、それまでに入った人たちに何も配慮がなかったらどうだろう。最近のお国のすることもこうした身近な自治組織の場合でもけっこうそんなことが平然と行われているように思う。いろいろあってよいとは思うが、その一方でそこに横たわっていた経験とか基本的事項の伝達は引き継いでいって欲しいものである。「前例に倣う」というのはとても保守的であるが、実はもっとも人々に安堵をもたらすものだと思う。せめて挨拶にやってきたお医者さんが、Tシャツ姿で「よろしく」と言う常識はあって欲しくないのだ。
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イワツツジ咲く

2009-04-19 23:01:44 | 農村環境


 ここしばらくの間手をかけていたイワツツジの花が咲いた。この花が群落して咲いている場所というのは少ない。実は群れているよりは山の中に点在しているイワツツジの方がけっこう記憶に残る。もちろん群落の方が目立つのだが、まだ芽吹きの始まったばかりの山の中に色を添えるイワツツジの色はけっこう目立つのだ。里で咲いていたイワツヅシは既に散っているこのごろ、妻の実家の裏山を彩るイワツヅシは、日陰にあるということも手伝って里よりは遅れて花を咲かせる。ところがなかなかその彩を表現することは難しい。わたしもさまざまな角度からこのツツジを捉えてみるが、なかなか「なるほど」というほどに花を表現できない。その要因は、花そのものを見ていても感嘆するほどの表現をできないところにも起因する。「里山」という空間からいけば、もっとも下に水田、ついで畑を耕し、その上には柿木の畑が展開し、さらに4段目には梅の木、そして5層目に鑑賞としてのイワツヅシが広がり、最後はヒノキの山が控える。ようは6層に分かれた空間は里山の空間を見事に見せているわけだ。しかし、この空間を「見事な展開」と表現する人はほとんどいないかもしれない。では「里山」と盛んなに口にされているがいったいそれは「どういう空間なのか」と問いたくもなる。

 あーでもないこーでもないと妻といろいろ試行錯誤してみたが、結局のところこの空間を人に訴えるほどのインパクトはなかったかもしれない。いずれにしても中山間地の一空間に魅せられているわたしたちにはなかなか自己満足に過ぎない空間とあいなっている。
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川の傍に咲く花

2009-04-18 23:19:30 | つぶやき


 伊那市西春近の細ケ谷の奥にはスキー場がある。「ある」とは言っても現在は休業している。もちろんすでに雪がないのだから当たり前のことではあるが、この冬は一度もオープンすることはなかった。スキー場を運営していた会社が見切って後継を探していたが見つからずに今冬は閉鎖されたままだった。伊那谷、ことに上伊那地域にはスキー場が少ない。かつてあった宮田高原スキー場は、スキー場までのアクセスが悪く、今の客のニーズには合わず、しばらく前に閉鎖された。その後ここの伊那スキーリゾートと、駒ヶ根高原スキー場が運営されてきたが、ここが閉鎖ということで、現在では駒ヶ根高原だけである。なだらかで比較的初心者向きと言われるが、下伊那地域にある平谷とか治部坂といったあたりに比べるとけっこう急な斜面もある。わたしは閉鎖されている伊那スキーリゾートへ初めて足を踏み入れた。スキーをしない人間だけに、この地に足を踏み入れることは今までなかった。たまたま仕事で入ったわけであるが、意外な傾斜に驚いた。今まで遠めに見てはいたが、現地に入ると印象とは違うものだ。幹線道路である広域農道から急坂を登ればまもなくスキー場となる。これほど近いところにあるから当然のごとく人工雪だった。

 この広域農道からスキー場までの急坂の周辺には住宅が点在する。南側の白沢や北側の宮の原にも点在して家々がみられる。いっきに西山の傾斜地に入るわけだが、伊那谷では天竜川西岸側にはそれほど急傾斜地はないと思いがちだが、けっこう西山の付け根にこうした集落が時折見られる。この急斜面から流れ出てくる戸沢川のほとりを歩いていたら、写真のような花を見つけた。初めて見る花であったが、どこか記憶にある。似ているのである、オカトラノオに。しかしオカトラノオの咲く季節ではない。そしてそれほど花が長くない。

 わたしはこの地域で名前を知らない花を見つけると、小林正明氏の『信州花ごよみ』(信濃毎日新聞社)を参考に広げる。おおかたの野の花はそこで見つけることができるが、この花は春の項にない。この季節、そして山付けということもあって春以外には考えられない。こんなときは山と渓谷社の「100選」シリーズを開く。「春」の項を開くとすぐにその花の名前が解った。ハルトラノオという。名前も姿も似ているが、ハルトラノオはタデ科で、オカトラノオはサクラソウ科の植物という。それぞれは無関係ということになる。別名を「いろは草」と言うらしいが、それは春早く咲くので、いろは47文字の最初の”いろは”に例えたものと言う。

 川の傍に咲くハルトラノオの姿は、とても涼しげな雰囲気をかもし出す。そして川のせせらぎの音にとても似合う花である。

 撮影 2009/4/16
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組合員と非組合員

2009-04-17 12:27:41 | ひとから学ぶ

 花見の宴で思わぬ口論が沸き起こった。労働組合の組合員と非組合員との軋轢といってよいだろう。そもそも労働組合は労働環境の改善、あるいは今で言うなら維持のために雇用側との折衝をする。協調を求められるなら、そもそもすべてのその権利を有する者は組合員になるだろう。それが皆と歩調を合わせるというものである。雇用される側がひとつになるには組合加入率100パーセントに越したことはない。よく使われる「一致団結」という旗印が、組合員だけのものではなく、雇用される側すべてに関わっていることだろうと予測される。最近非正規と正規の労働環境の格差が指摘されたが、そもそもかつてのように正規がほとんどであった環境下では、会社の中には雇用する側と雇われる側の二つの立場が分立してその両者が折衝する場が労働組合というものであったわけだ。もちろん労働組合が組織されていない会社も多かったわけで、労働組合があるということはその会社の労働環境が「良好」であるという見方ができたかもしれない。そして労働組合が組織されていれば、雇用されている側として雇用している側への正当な要求の場が保たれたわけである。

 ところが春闘などというものが見る影も無くなって久しい現在、雇用されている側がひとつでないからこそ年中行事のように繰り広げられていた春闘であれメーデーであれ話題にも上らなくなっていった。衰退という道を突き進んだ労働側の権利は、果たして組合を構えている人たちにはどう映っているだろう。にもかかわらずひとつでなくなった雇用されている側にある一部のまとまりある集団は、今までと変わりなく雇用する側と協定を結び、労働環境の維持と要求を重ねていく。かつてのように「勝ち取った」という印象を持ち得ない背景には、労働の環境が「守り」の世界に入っているということにもなるだろうし、年功序列的な昇進が減少していったなかで、求める具体像が画一ではなくなったということもあるだろう。「何を求めていくのか」というところがとても見えなくなったといっても差し支えない。この感覚はわが社のものであって、どこの会社にも適合するものではないだろうが、全体的な流れはそんな感じではないだろうか。

 さてだからこそ組合員と非組合員の違いが浮き彫りになる。組合員側にしてみれば、例えば「残業代を勝ち得ているのは組合が折衝しているからだ」と組合員は言う。とはいえわが社の場合、部署ごとに環境差があってところによっては月間100時間くらい残業をしている部署もあるようだ。わたしも会社では働いていないが、自宅持ち帰りの時間を累積すれば毎月とはいわなくともそれに類似する環境である。しかし協定で結ばれる時間は、年間でこの1月(100時間)程度のものである。人によっては10分の1にも満たない報酬しか受け取っていない。にもかかわらず「赤字」だといってさらなる仕事を要求される状態が果たして労働協約によって守られているものとはとても思えない。もちろん雇用側は管理職というものを配置して、それらを管理しているはずなのだが、これを言葉で表せば、「部署ごとで業務量を調整しているはずだ」ということになる。しかし現実は大きく異なる。労働組合はそれらを把握してその改善に躍起とならざるをえないだろうが、その原因に対して適正な要求を見出していないようだ。そうした中で組合員が「我々が勝ち得たもの」といって非組合員に「お前たちは超勤手当をもらう資格が無い」と詰め寄るのはおかど違いということになるだろう。そもそも労働組合は超勤が常態化しないよう労働環境を改善することを求めるものであって、超勤手当をたくさん払えと求めるものではないだろう。ほとんど組合員と非組合員が同じことをしているのに、非組合員に対して許された権利を剥奪しようとするのは労働組合そのものの向かうものではないし、末期的なものとして捉えられても致し方ない。

 こうしたことを口にする、あるいは思っている組合員も少なからずいるだろうと察知して、わたしは超勤手当てという権利を行使しなかった。この口論の中でわたしの言葉は彼らには納得されるものなのだろうが、そもそも納得されては困る例である。わたしの本意は違うところにあるからだ。赤字にあえいでいる会社が、何も解決策を見出せないでいる現状の中では、本来は社員も正当な報酬とはどういうものかを考えるべきだという考えを持っていた。だからこそ権利だけを行使するのではなく、自らの果たしている役割は適正なのかと省みる必要を投げかけて実践してきたまでだ。たまたま労働組合を辞めるにあたって、「もう二度と超過勤務手当てをあてにしない」と腹に決めたことから決定的にはなったが、本意は違うところにあった。どうも彼らにはそこまでさらけ出さないと理解してもらえない、あるいはさらけ出しても理解されないのだろうと、最近は思うようになった。「もらえるものはもらえ」というのは常道なのだろうが、これほど皆があえいでいる中で、あいも変わらずその意識を持つのはどこか抵抗があるのだ。

 そんな口論のあった矢先に、昨日の日記に綴ったように、久しぶりに権利を行使する。これをわたしは超過勤務手当とは考えない。データー復旧代金と割り切ることにしている。

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データを失う

2009-04-16 12:25:10 | つぶやき
 先日ポータブルのハードディスクをみごとに机から落下させた。毎日家と会社のあいだを持ち歩いている、いわゆる四六時中持参しているデータノートといったところのものである。見方はいろいろあるだろう。公務員であれば情報漏えいを起こさないためにもとくに個人情報的なものを社外に持ち出すというのは業務上許すべきことではないだろう。同じことは会社にも言えるのだろうが、持ち出しができないというのなら、会社に住んでいなければ仕事はクリアーできない。そんな状況を告発されても困るはず。となれば仕事を持ち歩くということになってしまう。それを禁止するというのなら、会社にそれ相応の対価と環境を要求しなければなるまい。したがって暗黙と言うか、持ち出していないという前提で日々は過ぎている(わたしの仕事では個人情報はほとんど扱っていない)。

 さて、そんなHDを落下させてすぐに「壊れたのでは」と焦る。見事に落下させたから助かっていればありがたいが、9割がた壊れているだろうと察知した。そして当然のようにドライブは読み取りを行わない。「初期化しますか」というメッセージもなく壊れ方の程度は大きいとすぐに思った。ポータブルのものはいくつも持っていることから今までにもそういうことに遭遇する可能性は多かったのだが、落下させた記憶もあるが、今まではPCに搭載されたHDがなんらかの障害にあって動かないということはあったものの、明かに原因がはっきりしていて読み取りが効かなくなるという経験はなかった。どうしても動かないHDの内容を諦めたり、あるいは壊れてしまった一つのファイルを諦めたりということはあっが、10ギガを越えるデータを拾えなくなるという経験は始めてのこと。さらにはその重要部分はこの3ヶ月ほど業務で集中してきたもので、それは現場調査の生写真であったり、あるいは莫大な資料から拾い取った過去データであったりした。例えば現場でのデータを再度回復させるには、再度その現場を歩かなくてはならない。それほど重要なものをバックアップもせずにふだん持ち歩いていた自分の責任と言うことなのだが、この3ヶ月ほどというもの、その余裕さえないほどさまざまな事情とそれらの仕事に追われていた。これを再現するとすれば、3ヶ月とは言わないまでも、時おり他のPCへコピーしていたデータを解析しながら1ヵ月ほどの時間を要すとみた。もちろんその期間を要しても、現場データは回復不可能ということで、完全な回復とはいえない。

 浮かんだのはいわゆるデータ復旧のサービスである。会社にいるコンピューターの担当に聞いたり、会社の少しばかりオタクな人に聞いても、そうしたサービスは認識しているが、いまだかつて実際に依頼したことはないという。検索してみるとそうしたサービスが山ほどあることから、そうした中のどこを選択すればよいかというところがつかめればと思って聞いたのだが、身近にはその経験者はいなかった。とりあえずピックアップした会社へ電話をすると、詳しく様子を聞くとともに説明もしてくれるのだが、そうした会話の中に何度も他社との違いを訴える言葉が散りばめられる。そんな言葉はいらないと思うのだが、だからといって他を選んでいても、きっと会話にはそんな言葉が登場するのだろう。検索した限りではその料金には幅があって、状態によって違うし、比較にはなかなかならない。おおよその金額というものもばらつきがあるがそれほど大差ないという印象。もっとも無くした側にとってみれば、前述したようにどうしても必要だと思うものならいくらかかっても回復したいという弱みがある。この状況下では、何が適正なのかも判断できない。

 たまたま最近が納品時期であって納品されていたこともあり、当面すぐに使うデータは少ない。もっといえばしばらくなくても問題がない時期だったことだけは幸いした。詳細に診断してもらわないと実際の料金は解らないということで、一発ピックアップの会社に依頼した。頻繁にPCを壊す経験があるから、HDの梱包材も所有している。送ったモノが到着するとまもなく返事が来る。やはり壊れ方の度合いが悪いようで、料金は最大で25万円近いという。状態から成功報酬という。いずれにしてもこれが高いか安いかはそのデータのバックアップ度によるが、最近は納品期ということもあって大事な部分がしてなかった。ノーとは言えない事情だから「依頼」とあいなった。すべての必要データが完全なのかどうかはチェックしようがないが、成功報酬の基準になると思われる絶対必要なデータは復旧できた様子。

 一応出先の上司に相談するが、費用を出せないこともないという雰囲気はあったが、いずれにしても自分の失敗であることは事実。自らにある権利でこの金額を埋め合わせられる方法を一つだけ持っていた。それは今は放棄している残業代である。結局無くしたデータを回復しようとすればさらなる時間外業務をすることになる。それならまったく利用する予定の無い残業代をあてれば、上司にも迷惑をかけない。一応その対応の仕方を提案すると了解してくれた。どんなにやっても制限される協定時間内でなんとか支払える。もともと消えたデータを作成するためにすでに200時間余を時間外で働いている。もう一度消してしまうわけにはいかないが、この経験を戒めとして(今までも気にはしていたのに起きるときはこんなもの)、データ管理をしていかなくてはと今は思っている。
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