Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

坂戸橋周辺の記憶

2010-04-08 12:34:34 | 歴史から学ぶ

撮影 2010. 4. 4

  「分水工を探る」余話において尺貫法に触れて以降、尺貫法が利用された時代に造られた施設について書いてきた。前回も取り上げた中川村の坂戸橋について、もう一度記憶をたどってみよう。以前にも触れたがわたしには「坂戸橋遠足」なるものが分校時代の記憶にある。写真がないかと探してみたが見つからなかった。もちろん当時はどこの家にもカメラがあるというものではなかく、写真といっても先生が撮ってくれたもの。当時から坂戸橋といえば桜が綺麗なところだった。そして橋を渡ると坂戸旅館という旅館があった。橋ができた以降に開業されたのだろうが、建物が残りそこに暮らしている方がいるものの、残念ながら旅館は廃業されている。桜の季節はもちろんのこと、「坂戸峡」と言われるだけに天竜川を眼下にし、旅館業を営むには好ポジションなのだろうが観光客が訪れるほどの魅力はなかったのかもしれない。そもそも村の中心からは少し離れているということもあって、かつて地域の旅館を支えた土建業者など仕事目的の人たちにも敬遠されたかもしれない。そしてこうした民業を圧迫したのは自治体が関わった宿泊施設の完成である。どこの村でも似たかよったかのことが行われて、小さな旅館は消えてなくなっていった。もちろん利用者にとっては綺麗で低価格の施設は有り難いことではあるのだろうが。以前中川村で細々と旅館を続けられている方に話をうかがったことがある。その際、「今度利用させていただきますね」と言うと、「気を使ってうちなんか使わないでいいに」と言われてしまったことを思い出す。今の人たちのニーズを知っているからこそ、そしてもうそこまで投資できるわけではないことも解っていての言葉だったのだろう。

  坂戸橋の脇を通っている国道153号は、わたしの子どものころはまだ今ほど広い道ではなかった。北からは小平から急坂を下って「坂戸橋」の交差点に至る。この記憶のころはまだ信号機はなかったが、国道はこの交差点を過ぎると、急峻な地形を縫ったようにカーブが続き竹の上を経て小和田へ進んだ道はちょうど天竜川の河原の中に広がる水田地帯のど真ん中で道が止まっていた。まだその先の牧ケ原トンネルが開通していない時代のことである。飯島駅を発車した伊那バスのバスは、与田切川を渡ると本郷の段丘際の日陰道を通って小生沢川を迂回しながら渡り、小平から坂戸橋に至ると坂戸橋を渡って大草(大草とは現在の中川村役場のあるあたりを言って、南向とはかつてあった南向村をイメージしている。ようは大草<南向ということになるだろうか)まで通じていた。そしてその先は松川町伊那大島駅までつながるいってみれば旧南向村の人たちのための足だったわけである。毎日本郷の日陰道を通るバスを目にしていたのが、わたしの子ども時代の記憶である。そしてそのバスは必ずこの坂戸橋を渡って行くのである。そのバスを毎日見ていたのに、そのバスに乗って坂戸橋を渡ったことは一度もなかった。ようは近くにあったバス停で乗っても、行く先は飯島だったわけで、まったく大草に縁はなかったのである。もちろん今ではそのバス路線はないが、日陰道に代わるバイパスができてしばらくのころからバス廃止までの間、生家の前にそのバス停が移されていたが、一度も利用することはなかった。今までの人生がそれほど長かったとは思わないが、気がつかないうちにいろいろ変化してきたんだと教えられる。

  続く


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