Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

橋供養塔・中編

2012-09-08 23:44:51 | 民俗学

橋供養塔・前編より

 平出一治氏は「八ヶ岳山麓の橋供養塔」(『あしなか』296)において、北村弘氏が『小淵沢町の変わった石造文化財』で述べている「道祖神と同じように集落を結ぶ橋が悪霊の侵入を防ぐ場所として建立された」という論を取り上げている。確かに橋がないのならともかくとして、橋があるとそこが川向こうとを連絡する通路となる。悪霊とは何かということにもなるが、架空のものでなくとも現実的に橋を介して流行り病はもちろんのこと、悪者が侵入してくる可能性は高くなるだろう。他所の地域と交流が限定されていた時代には、よりいっそうそうした場所を意識したとも言える。
 岡山県にただ二つだけの村のうちのひとつ、西粟倉村谷口の影石谷川と吉野川に合流する手前の川岸に粗末な石碑があるという。昔六部がこの地を訪れたとき、影石谷川の橋がよく流されるのを見て、ここに石の永代橋を架けようと志し、広く托鉢してその費用を集めたという。無事石材も確保し、いよいよ工事が始まったところで、不運にもその石材が折れてしまい、架橋を断念せざるをえなくなったという。落胆した僧は、余った費用を影石谷川橋の安全供養料として残して村を去ったといい、のちに粗末な石碑だけが残されてきた。石橋供養がもともとの橋供養の意図だったというようなところから察して、石橋の場合この例のように割れて折れてしまうということかよくあったのかもしれない。そのためより石橋には霊力のようなものが宿っていると捉えられたのかもしれない。この西粟倉村の橋供養を伝える場所のすぐ近くには賽の神が祀られているという。平出氏が引用したように、やはり賽の神(道祖神)が祀られるような場所=橋供養塔の建てられる場所、という図式が成り立ちそうだ。

 ところでウェブ上に驚くような橋供養のデータをアップされている方がいる。「埼玉県の橋供養碑 ~ 分布一覧と考察」というもので、埼玉県における橋供養碑を悉皆的に調査されている。それによると埼玉県には橋供養碑が300基以上あるのではないかという。前述したようにそれらは「石橋」を対象としたもので、橋供養碑以上にいかに石橋が多かったかがうかがえる。なぜ石橋だったのか、という単純な疑問も湧くが江戸中期の享保年間から約150年のの間に建立されたという。埼玉県の例では馬頭観音に併記した形の橋供養塔がいくつかあるようだ。また石橋供養塔の製作は石工が行ったようだが、石工名の刻まれたものは少ないという。別のHPに群馬県高崎市板鼻にある橋供養塔の銘文が掲載されている。それによるとこの橋供養塔には石工名が刻まれていて、「信州伊那郡福嶋村 石工 三澤染衛門吉徳」とある。享和2年(1802)に建てられたもののようで、伊那石工の橋供養塔が存在する。伊那の石工が旅稼ぎで橋供養塔を造ったという実績であるが、地元伊那では橋供養塔は聞いたことはない。

 続く


コメント    この記事についてブログを書く
« 橋供養塔・前編 | トップ | 暫定の挟間 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事