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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

百万遍で送られた人形

2019-04-28 23:46:52 | 民俗学

 「送られた人形」で、かつて訪れた旧明科町清水の百万遍について触れた。会田川のすぐ上流、旧四賀村倉掛のヒャクマンベーや、法音寺の百万遍も含め、このあたりに「百万遍」と言われる行事が春分の日に行われていることをうかがい知ることができるが、記録上でも旧明科町ではほかの地域でも行われていたとあるし、似通った行事が周辺地域にあることはなんとなくであるが予想していたこと。さらに北側地域ては旧大岡村を中心に同じ春分の日にデードーボーなどといった行事が伝承されていて、松本から長野にかけたの山間部には、同じような行事がこの季節に集中していることはわかってきた。とはいえ、会田川流域と旧大岡地域の間についての情報がなかったため、いわゆる筑北地域ではどうなのか、といった疑問は以前から抱いていた。

 大宮熱田神社の獅子舞調査が夜からだったということもあって、その前の時間を使ってそのあたりの事前調査を含めて、筑北地域の図書館を訪れてみた。いわゆる地域資料といえば、具体的資料といえば市町村史誌くらいしか浮かばない。そういう意味で市町村史誌の内容は、わたしたちにとってみれば必須の確認事項となる。ようは市町村史誌とは、それだけ大事な資料と言えるわけで、発行されていなかったり、内容に値しないような資料があると残念なものとなる。筑北地域の村誌を調べてみると、さすがに伊那谷エリアの図書館では蔵書が少ない(かろうじていくつかのものが飯島町図書館にあったが、網羅することはできない)。そこで該当エリアに足を運んでみるのが早い、そう思って足を運んだわけだ。

 麻績村の図書館は閉館していたが、筑北村の図書館は開館されていた。訪れてみると来館者は一人もいなかった。資料の問い合わせをしながら司書の方に思わず聞いてしまったのは、「いつもこんな感じなのですか」である。日によって異なるようだが、この日は特別なように答えられたが、印象としては利用者が少ないようだ。この日1時間半ほどいたが、もちろん誰も来館者はいなかった。地元の資料として開架されていたものはごくわずかであったが、問い合わせてみると閉架している図書に郷土資料はたくさんあった。とはいえ、この地域の資料はそれほど多くはない。あえて地域図書館に足を運ぶ意図に、その図書館にしか置かれていない公民館報に目を通すことがある。目次や索引などないから、そこから目的の資料を見つけ出すのは容易ではないし、逐一調べるほど、わたしは気長ではない。そんな館報の縮刷版をぱらぱらとめくっていて、目的のものを見つけた。旧本城村館報の中に「百万遍」を見つけたのだ。とはいえ『本城村誌』において、それらしい行事があることは確認していたので、もう少し具体的に記述された資料はないかと探していたもの。

 昭和58年3月31日発行の「館報ほんじょう」の114号にその記事はあった。全文は次のようなもの。

 

立川の「百万遍」

ひゃくまんべん(百万遍)

 ①一〇〇万回また数限りなく繰り返すこと。

 ②弥陀の名号を七日間に一〇〇万回唱えること……略……

 ③京都の知恩寺で修する仏事。一〇人の僧が一〇八〇粒の大数珠を繰り回しながら念仏を一〇〇回(あわせて百万遍)唱えて極楽往生願うもの。国語大辞典(小学館)

 春の彼岸の中日に、立川で絶えることなくうけ継がれてきた伝統行事「百万遍」をご紹介することにします。  午後一時、三三五五集まった区民の手で、先ず男女一対の藁人形が作られる。男はさむらい姿でちょんまげに結いあげる。腰には大根のつばをつけた竹光を佩かせる女人形には武家の女房風のまげを結い、くしやこうがいまでつけられる。そのあと念仏を唱えながら長さ十五米に及ぶ大数珠回しが始まる。音頭の太鼓は或いは弛く、ときには急速。緩急のテンポの急激な変化による、数珠回しに対応できぬしぐさの乱れが、観衆の大爆笑を誘ったりする。  数珠回しのあと、子供達の手で藁人形は東条川に流され百万遍行事は終了となる。ごほうびとして子供達にむかしは菓子など呉れたが、最近は一人当たり二百円程度の現金が与えられる。  子供達の帰ったあと慰労会開宴となる。酒間の話題は古老達による百万遍昔話。これがたのしみだという若い嫁さんも多いという。  本来、後生菩提を願って始められただろうこの行事が、人形に一切の悪疫を背負わせたり、不作の年には藁が短かく人形のまげが満足に結えない―よい髪が結える藁がとれるよう―豊作祈願にまで付加変形してきていることは、民俗学的にみても極めて興味深いことであろう。

 

 短文であるが、記事には2枚の写真が掲載されている。ひとつは作られた人形、もうひとつは参集者が数珠回しをしているもの。人形をみるとひとつの人形は「百万遍」の幟旗、もうひとつの人形には「南無阿弥陀仏」と思われる幟旗が背負わされている。数珠回しをされている参集者は17人くらいだろうか。不作だと藁が短く人形のまげが満足に結えないため、これをもって豊作祈願に結びつけたというあたりは、記事にもあるが地域がどう行事から学び、意味づけしていくかという姿がうかがわれる。

 

川へ送られた人形

 

 

女房

 

 旧本城村においては八木集落でも百万遍はあったという記述もある。このあと、立川集落に立ち寄ってみた。この日はやはり集落の祭礼のようで幟旗が立っていたが、公民館近くで聞いてみると、現在も百万遍は行われていると言う。期日は春の彼岸の中日の午後。送るのは集落境の東条川だと聞き、館報の記述とほぼ同様に現在も行われていることを知る。帰路、捨てられた人形はないかと、集落境と思われる場所を探して下っていくと、上岩戸との境の沢合流地点に捨てられた人形を見つけた。

 人形は竹2本を井桁状に組んで神輿風である。どちらが侍で、どちらが女房かは、顔でわかる。侍には髭があり、女房はいかにも女性的だ。女房の顔がよく見えなかったので、少し起こさせてもらった。ちょっと「厄がついて来ないか」と思ったが、もう1ヶ月も前に送られたものだから大丈夫たろう、そう言い聞かせた。以前同様に女房には「百万遍」、侍には「南無阿弥陀仏」の幟旗が背負わされている。侍には確かにまげが結われていて、もちろん脇には刀が挿されている。聞いた際に聞いたことだが、「厄を追わせて送る」のが意図だという。

 来年訪問してみたいとは思ったが、考えてみれば彼岸の中日は行事が多く、約束通りにいくかどうか…。


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