TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

プロジェクトとしての『ボヘミアン・ラプソディー』

2018年11月24日 | 映画とか

※2018年11月24日の投稿です。

今日11月24日はフレディ・マーキュリーの命日。映画『ボヘミアン・ラプソディー』については既に多くの方がコメントされているけれど、少し自分なりに書いておきたい。ちなみに家人の血中クイーン濃度はかなり高めです。

フレディを軸とする前半部分はいたって普通というか、正直ちょっと退屈した。ま、もちろん映像としての展開や描写はしっかりしていて、きちんとしたチェーン店の料理のような印象でもあった。ただ、これは後半部分だけど、ライブ・エイド直前にフレディと厳格な父親が抱擁しあう場面は、うるっときた。彼が本名のファルーク・バルサラに戻った一瞬だったのだろうか。

といいつつ、これは見るべき価値のある一本だった。なんならもう1、2回くらい劇場に足を運んでもいい。それは彼らの楽曲自体が主役(というか「主演」と呼びたい)としての活躍を見せてくれているからだ。音楽シーンを舞台とした映画には素晴らしい作品も多いけれど、そこで流れる楽曲は、純粋なドキュメンタリーを除くと、往々にして脇役的な存在に感じられる※。でも『ボヘミアン・ラプソディー』のなかのメロディーやリズムたちは、その文脈で流れることに強い意味があった。ま、「この時期にこの曲は出てなかったのでは?」みたいなのはあったけど。

そういう意味ではライブ・エイドは物語のクライマックス。下のリンクは実際の映像だけど、あらためて映画の後で見ると感慨が深まる。

構想から8年を要した製作の過程では、キャストやスタッフの選定がかなりゴタゴタして、しまいには監督のブライアン・シンガーが撮影終了の2週間前に解雇、とこれはこれで話題に事欠かないようだ。そういう点ではひとりの作家の思いに貫かれたといった作品ではなく、ある意味でクイーンという「集合知」としての映像だと感じる。

要は「クイーン」という超ユニークなコンテンツを、どう料理するかということなのだと思う。切り方によっては冷徹なドキュメンタリーであったり(それはそれで見たい)、各自が歌っちゃうミュージカルみたいだったり(今度のエルトン・ジョンの映画はそんな感じらしいです)、といろいろあるだろうけれど、ボップであることに重きを置けば、この調理法は正解だといえるだろう。ちなみに渋谷陽一氏もよく言うけれど、ロックにとってポップミュージックであることはとても重要だと思ってます。

ちなみに今日の日比谷の「"胸アツ"応援上映(歌詞の字幕付き。拍手、手拍子、発声全部OK)」の回は売り切れ。きっと凄いことになっているんだろうなぁ……。

※などと言いつつ、なんせ寡聞なもので、良い音楽映画があったらご教示ください。個人的には『Almost Famous(邦題:あの頃ペニーレインと)/2000年』や『ラブ&マーシー/2015年』など好きでした。



Queen - Live at LIVE AID 1985/07/13 [Best Version]



『ポルト』〜永遠の一夜の物語

2018年11月17日 | 映画とか
WOWOWで録画鑑賞。ジャームッシュ特集的な一連のシリーズのひとつだった。とはいえこの映画では「制作総指揮」、エグゼクティブ・プロデューサーで監督として変わっている訳ではなく、ちょっとこういうのには気をつけている。特に有名どころの(ま、ジャームッシュはいつまでたってもインディーズな立ち位置を崩さないけど)「肩書き参加」は要注意だなと、正直なところ少し思っていた。でもその予想は正しくはなかった。

ストーリーは、単純にいってしまえば、お互いの異国で出会った男と女の一夜の逢瀬。でもその一夜は時の流れから外れて、二人のなかに漂っている。たとえば川のなかの水草や藻の絡まり具合のせいで生じた渦につかまり、いつまでも流れていかない落ち葉のような記憶。そこでぐるぐると回り続けているその落ち葉は哀れなのか、あるいは幸せなのか、そんなことを考えつつ、つい目が離せない。そんな感覚が残った。

ところで異国という設定はありふれてはいるが、この映画の街(ポルトガルの第2の都市ポルト)は、登場人物たちのなかに深く根を張っている、ちょっとやっかいな異国でもある。

男(外交官だった父の都合で子どもの頃からポルトガルに住んでいるアメリカ人のジェイク・クリーマン。演じるのは昨年27歳の若さでこの世を去ったアントン・イェルチン)にとっては、住み慣れてはいるが、決して心を通わせられる街ではない。女(考古学を学ぶフランス人で、ポルトガル人の教授にプロポーズされてここに来た)にとって、ポルトは自分で選んだ街ではなく他者——かつては婚約者であり後には別れた夫、それから一夜を過ごしたアメリカ人——との接点としての場所でしかない。

この「異国」では、時間の流れがねじれて、あるいは凝縮されてしまうのだろうか。極めてシンプルな男と女の話が、この磁場のせいか一風変わった余韻を放っている。

いってみれば、ナイーブなお話なのだろう。でもそのナイーブさを構造的に昇華している——ときたま日本の映画で見かけるような雰囲気頼みの仕上げ方ではなく——ところには拍手したい。もしかしたら、この辺がジャームッシュの手腕だったのだろうか。あくまで推測だけど。

そしてもうひとつ、映像は美しい。「映像は」と書いたのは、どこか技法的な巧みさ——関連記事によると機材は8㎜、16㎜、35㎜のものを使い分けているそうだ——が目について、そこでお茶を濁しているような気もしたからだ。きれいな万華鏡を通して向こうを見ているような、そしてその向こうにある風景は意外に普通だったりする、そんなイメージもなくはない。ただ、これを『ストレンジャー・ザン・パラダイス』よろしくモノクロで撮ったら、ちょっとヒリヒリする作品になっていた気がする。

そんなこんなを、いろいろ考えさせてくれる一本。そしてそれは、割と楽しい行為でもありました。どこかで機会があれば、どうぞ。公式サイトはこちらです。


「ダブルスタンダード」という思考停止

2018年11月12日 | 気になるコトバたち
SNSなどでのやりとりで「それはダブルスタンダードだ」という向きの批判や非難(場合によっては言いがかり)を目にすることがある。Twitter上では「ダブスタだろ!」っていう言い方も見かけますね。

確かに「二重規範」は、公正な世の中の発展を妨げる。特定の属性の人々を侮辱しつつ「国をひとつに」などと述べる某指導者に対しては、特大サイズのフォントを使って投稿したい。誰もが納得する基準なんてないけど、どこかできちんと握っていこう、そしてそのうえで最大限のハッピーをつかもう、というのが大人なやり方だと思う。

ただ、なんか誰かに絡みたいだけの「ダブスタ発言」を見ていると、それは違うんじゃないかと思う。具体例は出さないけど、人なら当然の迷いや、物事の前提条件を無視した発言は、その概念の悪用でしかない。飲食店でさんざん迷惑なふるまいをしておいて「客にはサービスするもんだろう」って暴れる連中と、根っこの部分では同じだ。

ちなみに俺自身の基準でいうと、「公に関わる客観的な事柄は厳密に。個人の心情的な部分には、それを理解する姿勢を」という感じ。もちろん個人の心情であっても、それが間違っていると考えるのであれば批判もまた当然の行為だと思う。

ところで例の消費税(食品の持ち帰りは8%でイートインなどは10%)、あれはどうなるんでしょうね。もしかしたらテーブルや椅子を備えたスペースが「有料休息所。ただし○○で商品ご購入の方は無料」みたいな感じでオープンしたりして。なんだかパチンコの景品交換システムみたいだけど。



『華氏119』〜現代アメリカの不穏と希望

2018年11月10日 | 映画とか

マイケル・ムーア監督の最新作『華氏119』を。映画としての出来映えには気になるところもあったけれど、描かれている題材はリアルで深刻。単なるトランプ批判ではない、と私は感じました。監督の真意は、多くの人が泡沫候補だと見ていたドナルド・トランプの当選をある種のメタファーとして、「最大の悲劇は気づかないうちに忍び寄ってくる」ことを訴えることだったのでは。

印象に残ったのは、エマ・ゴンザレス(フロリダ州の高校で起きた銃乱射事件の体験者で、銃規制を訴えた)や、アレクサンドリア・オカシオ=コルテス(中間選挙で下院議員に立候補して当選)などの活き活きとした描き方。『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも感じたのだけど、ムーア監督はそういった若い声と力への愛情と信頼を強く持っているのだと思います。ただ、その思いと、監督自身の主張がもうひとつ上手くブレンドされていないような読後感も。いいバンドのリズムセクションのような、いつもは後ろで鳴っているユーモアが少し控えめだったなぁ、という感じです(今回のテーマはかなり深刻なものではありますが)。

ところでタイトルのもととなった日付の11月9日(トランプが大統領選の勝利宣言を行った日)だったのは偶然ですが、1938年のこの日はドイツでの「水晶の夜」(反ユダヤ主義の暴動)が、そして1989年はベルリンの壁が崩壊した日でもあるのですね。

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