TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

U2 VERTIGO TOUR

2006年11月29日 | ♪&アート、とか
さいたまスーパーアリーナでのライブは初めて。スタンド指定Sのシートはステージから見て(見てないけど)左側、会場真ん中当たりの最前列でなかなかのロケーション。しばらく待って後、ドラムの音が鳴り響き場内の歓声が高まると、アリーナ前方の中ほどに作られた出島のようなスペースに突然ボノが登場。しかも手にしているのは日の丸の旗。一気に会場をつかんだ勢いでライブは続くかと思いきや、途中で「共生」をテーマとする政治的なメッセージのパートが続く。

ボノのそういった活動には敬意を表するし、実際に行動の伴うその姿勢(しかしいろんなとこ行くね、この人)は口先だけではないと信じている。でも俺は、まず気持のいいロックンロールがあることがライブの基本だと思う。演奏やパフォーマンスは素晴らしかった。会場もバンドも同じ熱を共有できたはずだ。だからこそ気になったわけなのだが。

会場で活動をしていた「ほっとけない」にもちょっと首をかしげる。(参考にこちらなど)ボノの善意を利用しようとする人間もいたりするのだろう。

もう1回言っとくと、ライブは素晴らしかった。ボノのアンコールのときの衣装(警官みたいな帽子と近衛兵風のジャケット)は、どうしちゃったの?という感じだったけれど。客席まで吹き寄せた、アイルランド男子の真っ直ぐな熱さ。やっぱり目が離せない連中ではあるんだよね。

雪 / オルハン・パムク

2006年11月28日 | 読書とか
Kar by Orhan Pamuk (和久井路子訳、藤原書店)

今年のノーベル文学賞受賞作家、オルハン・パムクが2002年に発表した作品。911後のイスラム過激派を巡る状況を見事に予言したとしてベストセラーになっているらしい。

その「予言」はともかく、トルコという、根底はイスラムの国でありながらヨーロッパ文化の影響を強く感じさせる場所でのこの葛藤、闘争の物語は幻想的でありながら現実の世界の思わせる不思議な読後感が残った。登場人物の言葉は遠い国の御伽噺のように響くのだけど、どこかでハッとする鋭さを持っている。

こういう作品の場合、俺は政治的な目線をいったんおいて接するべきだと思っている。雪で分断された数日間の小さな街という状況、舞台として多少定石的ではあるが巧みな設定(どこかラース・フォン・トリアー監督の映画「ドッグヴィル」を思いだした)だ。ストーリーに自然に入り込み、ふと現実の世の中に思いを馳せるさせる力を持つ豊かな物語だと思う。

ただ残念なのは、訳文の質。最初はそのぎごちなさが原文のトーンや日本語とは異なる言語の持ち味なのかと思っていたが、どうも読み進んでいくと味とは別の稚拙さを感じる部分に出くわしたりする。例えば、

「トゥルグット氏とカディフェを<アジア>ホテルの秘密集会に連れて行く馬車に、最後の瞬間にザーヒデが持ってきた、イペッキを待っているKa(注:主人公の通称)が窓から見ていたが暗くて何であるかがわからなかったものは、毛糸の手袋だった」(p.352)

この一文、ぱっと読んでわかりますか?固有名詞の表記に<>を使うかどうかみたいな点はおいておくとして、読みやすい日本語にする努力がもう少し必要なのだはないだろうか。俺だったらせめて、

「アジア・ホテルの秘密集会にトゥルグット氏とカディフェを運ぶ馬車の中に、ザーヒデが最後の瞬間に持ってきたもの―イペッキを待ちながら窓から見ていたKaには暗さのため何だかわからなかったのだが―は、毛糸の手袋だった」

くらいにしておくかな。文章を分けてもいいのだが原文の長さのニュアンスを生かしたいのだったらハイフン使うとか、手があると思う。実は小説の本文中だけでなく、訳者のあとがき(つまり和久井氏が自分の文章として書いている)もこんな感じで読みにくくて、これは原文の質というより翻訳者の問題だなと確信させられたのだけど。まあトルコ語の研究者(和久井氏は現在アンカラの中東工科大学の現代諸語学科に勤務とのこと)であることと文章の書き手であることの両立は大変なのだろうが、であれば出版社としてもリライトを試みてはどうなのだろう。同じ言葉の表記が異なっていたり、校正のちょっと甘いところも見受けられるし。

でも本題に戻ると、読む価値のある一冊です。代表作的に扱われている「わたしの名は紅(あか)」にも興味がでてきた。(訳者が同じなんだけど)

麦の穂をゆらす風

2006年11月25日 | 映画とか
The Wind That Shakes the Barley
(Dir:Ken Loach / DP:Barry Ackroyd / Writer:Paul Laverty)

2006年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞。「父親たちの星条旗」に続いてちょっと重めの映画になった。どちらに対しても感じたのは、何のために彼らは戦っていたのかという無常感だ。国や民族間の闘争のコストは、結局個人の悲劇によって支払われる―無邪気な平和主義を唱えるつもりはないけれど、戦争という選択肢はあってはならないと改めて思う。映画としては、重いテーマをきりっと描いた達者な仕上がりの一本だ。そういえばケン・ローチも監督として参加していた911を巡る20のオムニバスのひとつ、ちょっと見たくなった。

父親たちの星条旗

2006年11月24日 | 映画とか
Flags of Our Fathers
(Dir: Clint Eastwood / DP: Tom Stern /
Screenplay / William Broyles Jr., Paul Haggis)

イーストウッドの映画を見ると、いつも力作だなぁと唸らされる。その力作加減は素直に素晴らしいと思うが、なんて言うかサッと風が吹き抜けるような感覚や、あっそうか!というひらめき、気づきみたいな点ではちょっと物足りなくもあるのだが。しかし今回、相変わらずの力作っぷりではあるが映画としての仕上がりはすこぶる良いのではないだろうか。

映画は硫黄島の「英雄」3人の内ひとりの息子が当時の父の戦友の話を聞くという場面を含め、時間軸を前後して展開する。(その息子の存在が全体の展開ともうひとつしっくりきてない感じもあったのだが)通常は話をドラマチックにして緊張感を保つ「語り」のための手法だか、この作品では観客を絶えず考えさせるように働いているようだ。ひとつの戦争の物語の中に身をゆだねて座っているのではてく、「いったいこれは、どういうことなんだ」と自らに問うことを求められるように思えた。

単に規模の大きいヒューマンドラマでも、またジャーナリスティックに走った歴史ものでもない、見ごたえのある一本だ。さて次の「硫黄島からの手紙」(Letters from Iwo Jima)はどうかな。ちょっと期待と不安が半々、という感じだ。

大竹伸朗 全景/東京都現代美術館

2006年11月19日 | ♪&アート、とか
順路に沿って展示を見終えると、出口の前の机にノートが3冊置いてあった。展示への感想を書くためのものだったのだが、なんだか昔の喫茶店やペンションの落書き帳(いまでもあるのだろうか?)のような風情がおかしかった。

で、その中身は結構熱くて、卒業制作の最中の美大生の「あたしも頑張ります!」みたいなものや「今朝大阪から来ました」みたいな遠征組、そして「私は小6だけどコラージュもやります。大竹さんの小学校のときの作品を見て負けたと思いました。でも今度はこし(超し?)ます」というやる気充分のコメントなど書き込みもエネルギーに満ちていた。

そうなのだ。俺は大竹作品をきちんと見たことはなかった(つーか雑誌などでのつまみ食いに近い)のだが、そのときどきでばらばらの作風が全体となって醸し出す圧力には恐れ入りました。「全景」というか「全開」という感じの展示だった。学芸員も大変だったのでは。(でも楽しくもあったかも)

しかし多作だ。そしてその多作は勤勉さによるものというより、「出さないと仕方ない」という十代の兄ちゃんみたいな(失礼…)現象のなす業に感じられる。「才能とは過剰であること」なのだと思う。

もちろんこの人、あるインタビューでは「日の目を見なくてもやるのかどうかってことですよ」と答えているように、ただ天真爛漫に作っていたわけではないのだろう。モノを作る人間としてのひたむきさと、ちゃんと現実を見ているタフさには「太い人だな」と思わせられる。

すっかり見入って約2時間。企画展のチケットで常設展も見られるのだが、とてもそんな体力は残ってなかった。(何回か見てるから、というのもあるのだけど)えーっと、開催中(来月24日まで)また行こうかなと思ってます。なんか1回ではまとめきれない気もするので、また書くかも。ところで会場で山田太一(脚本家の方ですよ)の姿を見かけたのだが、どんな感想を抱いたのだろう。ノートには何も書いていないようだったけど。

ちなみにこの展示には専用のサイトが設けられているのだ。