TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

「粋」という圧力

2018年07月14日 | 気になるコトバたち
ときどきSNSで、「こんな振る舞いは粋じゃない」といった投稿を目にすることがある。公共の場や飲食店など、そのシチュエーションは様々だ。フォロワーの多い人なら、「まったくです」「最近の何々は……」「東京(あるいは京都、wherever)生まれの私には信じられません」といった賛同コメントが続き、場合によっては「こんな人は○○も(仕事、恋愛、whatever)も上手くいかないに決まってます」みたいなダメ出しがくだされることもある。

基本的な着眼点には、僕も賛成だ。たとえば電車で2人組が乗ってきたとき、自分がずれて席が空くのであれば、努めてそうしている。特に年配のご夫婦などが乗ってきたときにボーっと座ってる兄ちゃんがいたりしたら、「気の利かんガキやな、こいつ」と思う(下品なオヤジでごめんあそばせ)。

ただし、その基準はあくまでも「ちょっとした好意」であるはずで、そこで「粋」といった純度の高い価値観を過剰に適応することには違和感を覚える。純度の高い価値観は、使い方によっては思わぬ方向に走りだす。それに世代、性別、国籍、職種などなど、生来の、または変更する機会の少ない属性が絡まると、その論理はがぜん濁り始めていく。またそういった投稿の流れは、往々にしてよってたかっての叩き合いになりがちなのだが、その行い自体はどれほど「粋」なのだろうか。

言葉を見つけたい、と思う。「ちょっとした好意」をまっすぐ発信できる言葉をつかまえることが、僕にとっての「粋」なやり方だ。昔、ドイツの居酒屋で店員さんに相席を求められた際に"You can have a party here(パーティできるかもね)"と言われたことを思い出した。(実際、どちらともなく話しかけてしこたまビールを飲みましたとさ)