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「生命科学ノート」のノート/その6

2018年06月03日 | 読書とか
地球物理学者の竹内均氏(1920〜2004)との対談から抜粋した中村氏の発言。味わい深い。

ワトソンの『二重らせん』という本が出ましたでしょ。DNAの発見の時のポーリングとの壮烈な競争がある。科学の世界は競争の世界だと思われてますよね。アメリカででたあの本の批評の中で、今でも覚えているのは、「強烈な競争をしている。それはピカソだったら、彼の絵を彼が今日描かなくても、明日誰かが描いてしまうということはないけれど、科学の世界は今日自分がやらないと明日誰かがやってしまうかもしれない。だからだ」というのがあったんです。その時は、ああそうかな、科学は個性のないものかなって思ったのですが、今考えてみますと、あれが誰にでもできたかというと、やはりワトソンでなくてはできなかったと思えるんです。科学ってそんなに個性のないものではないんじゃないかという気がします。(p.216)

絵を描く人はそれである種の共感を呼んで、他の人に影響を与えるわけですね。科学も、個性的なものなんだけれど、その結果が他の人たちに共感を呼びおこすとこすまでいけば、それが本当の科学じゃないかという気がしています。私が科学と社会との間の問題に興味を持ちますのは、そういうことがちょっと今足りないような気がするからです。科学の論文も、すばらしい論文は感動を呼びますね。非常に無個性な、ただ数字が並んでいるものではなく、小説を読んだり、絵を見たりする時と同じような共感を呼ぶ論文でなくてはいけないんじゃないかと思うんです」(p.217)

いま僕は、コミュニケーション論系の「論文」なるものを書こうとして四苦八苦しているのだが、レベルはエベレストと町内の公園の小山くらい違うが、そういう論文を書きたいと思っている。先達の方々の論文や身近な諸先輩(そのほとんどは僕より若い)の学術誌での発表などに接すると、どうすればそんな風に書けるのか絶望的な心持ちになる。でも敢えて、あるいは勇気を振り絞っていえば(小心者なので……)、「ワクワクしない」と感じることが多い。でも学術論文がそういうものだとは思わない。過去の文献にワクワクさせられたことは何度もある。でも価値観は人それぞれ。なので、自分は論文として完成していることは当然として、人の心に訴えかけるものを書きたい。身の程知らずかもしれないが、少なくとも挑戦はしていこう。

生命科学者ノート (岩波現代文庫―社会)
中村桂子
岩波書店