中川静子は昼間、東京大学の赤門に近い本郷の調剤薬局で薬剤師として勤務していた。
錦糸町のナイトクラブには、ウクライナ人や中国人や韓国人のホステスも居て、静子と同席することもあった。
私はその日、バンド演奏に合わせて中国人のホステス露露(ろうろう)と踊った。
「わたし、日本語じょうずに、なりたいです。せんせい、日本語教えてください」身を寄せながら露露が意外なことを言うのだ。
露露と翌日、小岩駅で会って、私は中山競馬場へ向かっていた。
有馬記念の日だったのだ。
船橋駅から競馬場へ向かう満員のバスの中で露露は私に身を寄せていた。
露露は身動きとれないような満員の競馬場スタンドに「すごい人です」と驚いていた
そして、1万円札数枚で馬券を買う私に「せんせい、どうして、そんなに、お金を・・・」と目を丸くしていた。
大村先生はいつもの食堂で日本酒を飲んでいた。
「今日は、ご婦人と同伴ですか?」大村先生は目を丸くする。
その日は、第35回有馬記念であであり、1990年12月23日に中山競馬場で施行された競馬競走である。
人気馬のオグリキャップがラストランで優勝を果たした。
競馬場のスタンドを埋め尽くした競馬ファンの間から、「オグリー」コールが手を振りながら怒涛のように起こる。
露露は私に身を寄せ、私の右手を握り驚いていたのだ。
私は帰り際に10万円を露露に手渡した。
参考
地方笠松から中央に移籍し、ハイセイコー以来の競馬ブーム(第二次競馬ブーム)の立役者となったオグリキャップは、同年春の安田記念はレコードタイムで優勝し、宝塚記念ではオサイチジョージの2着に入ったものの、秋のシーズンは天皇賞(秋)を6着、ジャパンカップを11着と惨敗。
限界説も囁かれ、「もう負けるオグリは見たくない」とまで言われた。
ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり、馬主の近藤俊典に対し出走を取りやめなければ近藤の自宅および競馬場に爆弾を仕掛けるという脅迫状が日本中央競馬会に届く事態にまで発展した[。
それでも、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定し、ファンもオグリキャップをファン投票1位で送り出した。
他馬の動向としては、オグリキャップと共に名勝負を繰り広げたスーパークリークやイナリワンといった馬がこの年それぞれ引退し、世代交代の時期であった。
中央競馬時代はスーパークリーク、イナリワンの二頭とともに「平成三強」と総称され、自身と騎手である武豊の活躍を中心として起こった第二次競馬ブーム期において、第一次競馬ブームの立役者とされるハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。