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因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

僕らのラジオデイズ2(いはを)

2008-09-19 20:20:00 | アート・文化

しつこくラジオデイズ。

AMラジオを聴かうとしたのは、やはり、北陸の片隅にある町でも上手くいけば「東京」のラジオが聴けるといふ点にあつたのは昨日も書いた通り。例へば、ニッポン放送の1242キロヘルツといふ周波数にすら何かしらの魔力を感じてゐた

つまり、田舎者であつたわけだ。

ニッポン放送から流れてくるラジオCMは東京の業者が主であるが、例へば秋葉原オノデンのCM等は、今思へば雑然としたものだが、その頃は夢の「東京」幻想をかきたてた。ザワザワした感じがまさに「都会」だつたのだ。わが住まひから遠くにあつて、その当時はあまり行つたことが無い場所だつたからこそ、想像力がかき立てられたわけだ。

ナイターすらも、わざわざ東京のラジオ局で聴いた。テレビでも放送してゐるし、勿論ローカルのラジオでもやつゐる。でも敢へて東京のラジオで聴く。よく考へれば、雑音は混じるし、聴けなくなることもあるわけだから、甚だ非合理的である。しかし、その障害こそが想像力に火を付けるわけで、普通のナイターよりも何倍も楽しめた覚えがある。

そもそも、ラジオといふ媒体自体想像力をかき立てるものである。

例へば、女性パーソナリティーの声を聞いてその人が一体どういふ顔をして、どういふ恰好をして・・・等をおそらく多くの人が自然と想像してゐる。まあ、別に女性ぢやなくてもいいが。ともかく、自分の想像を膨らませ過ぎて、実際はとんでもないなどといふことは、まあよくある話で、だからと言つて幻滅する必要はなく、自分の想像こそがリアリティを持つてゐるものだ。

クリント・イーストウッドの映画で「恐怖のメロディ」といふ作品があるが、これはラジオDJ役のイーストウッドに女性ストーカーが執拗に付きまとふサスペンスである。これを見ると怖くて女の人と簡単に付き合ひたくなくなるが、それは置いておいて、ラジオ(しかも深夜)といふ媒体の持つ想像力をかき立てる効果がよく表現されてゐると言へなくもない。また、その想像力は送り手と聴き手との間に親密な空間を作り出す。

自分はハガキ職人ではなかつたが、彼らの気持は分かる。おそらく好きだけれどもまだ仲良くなりきれてゐない友人に面白い話をして気を引かせたいのだ。DJやパーソナリティもリスナーとの距離感が心地いいので、ハガキを送るやうしむける。緊張感のある馬鹿話なのだ。従つて無駄と言へば無駄。だからこそ得難いのだ。

あ、さうFM編の話をしなければならない。

まあ、長くなりさうなので、途中でまでとしますが、我がラジオ遍歴の原点には我が実家の民放ラジオにて夕方から放送されてゐたリクエスト番組がある。地方のラジオなので、まあ緩いないようではあるが、「今日の統一テストでこんな問題が出た(たまにさういふテストにドラえもん等アニメなどのキャラクターが出てくることがあつた)」とか「最近街中で怪しげな映画のポスターが貼られてゐる(「ザザンボ」とかいふ、社会派?映画のポスターが貼られてゐた時期があつたな)」といつたやうな、身の回りの話が話題に上るので、割に気に留めながら聴いてゐた。

それから、現在の自分に連なるものとしては最も重要な「山下達郎のサタデ―ソングブック」(現在の「サンデーソングブック」)がある。自慢では無いが、「サタデ―ソングブック」の第1回放送をリアルタイムで聴いた。まだ小学校4年か5年だつたはずだ。

そのころは達郎先生のマニアック(先生はこれしきまだ中級と仰いますが)な選曲は幼いころの自分には理解できなかつたが、今でも一社提供で頑張つてゐるジャックスカードのCMが面白かつた。いまだにジャックスのラジオCMはふざけてゐるが、この頃もヒーロー物のパロディ「ジャックスマン」だとか、子供にも分かる面白いCMを流してゐた。

自分の小学生時代はまだ曾祖母が健在だつたが、足を怪我して介護が必要となつてをり、土日は親の車でさういふ施設へ連れられたものだつたが、それはそれなりにしんどいものだつた。しかし、ラジオがそれを救つてくれたのだ。

かう書くと、何だか暗い少年時代ですが、まあそんなに暗くないですよ。

では、また次回。


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