笛吹き朗人のブログ

器楽は苦手でしたがサラリーマンを終えた65歳から篠笛を習っています。篠笛を中心に日々のリタイア生活を紹介します。

子守(こまもり)神社にお願いして来ました。

2016-10-17 19:39:17 | 日記
今日は、朝から、会社のOB会の「歩こう会」に参加して、そぼ降る雨の中を約2時間に渡って、幕張地区を歩きました。


私は、大学2年生の春から卒業するまでの3年間、幕張4丁目に下宿していましたが、今回歩いた1丁目~3丁目は行ったことが無く、全く新しい発見の多い散策でした。


幕張と言うと、今や、幕張メッセを中心とした高層ビル群のあるエリアが有名ですが、それは、1970年代に海を埋め立てて作られた地域で、私の学生時代には遠浅の海でした。


今日歩いたのは、昔からの幕張の街中です。


千葉氏の草創期である1100年代末頃に、当主の常胤から、4男の胤信に今の幕張町(大須賀郷)が領地として与えられた(昆陽だより平成28年7月号より)と言う由緒ある地域です。


まず、午前10時に京成幕張駅に集合しました。
家を出る時にかなりの降りだったので、果たして実行するのかな?と思いつつ行ったところ、皆さん、勢ぞろいでした。
中には、東京の西部地区にお住まいの先輩の姿もありました。

ボランティアのガイドさんの案内付です。


最初は、駅前の昆陽神社と甘藷試作地跡の碑です。

八代将軍吉宗の時代、享保の大飢饉(1733~4)の翌年、大岡越前守の支援を受けて青木昆陽がこの地(当時の地形では、海岸に近い砂地)でサツマイモの試作を行って成功して関東各地に栽培を普及させたので、その後の凶作の時、関東地区の食糧確保が多いに助かったと言うものです。

試作地の向かいには、秋葉神社と並んで、青木昆陽を祀る昆陽神社があります。


次は、静かな住宅地に囲まれた、幕張3丁目公園です。

今は、児童公園ですが、江戸時代は、天領であった幕張地区を管轄していた北町奉行所の代官屋敷があったと言うことです。


この説明を聞いて、私はハタと思いました。

最初の青木昆陽のサツマイモの試作地のところで、誰かが「何故、この地だったのだろう?」と質問しましたが、ガイドさんからは明確な回答はありませんでした。


大岡越前守と言えば、吉宗時代の北町奉行です。

そうです。大岡越前守が、青木昆陽の試作地に、北町奉行所支配地の幕張の砂地を提供したのではないか?
と推察しました。


また、著名な作曲家・山田耕作が、10歳の春の3か月間、父親の転地療養のため幕張に住んで、今の幕張小学校に通ったそうです。
(その頃、この場所にカラタチの垣根があったのが、「カラタチの花」と言う曲が生まれたことにつながったとかーーー)


江戸時代の旧街道沿いの古い町並みは、幕張地区の豊さを感じさせる門構えの家が多い、落ち着いた住宅街です。


その先に、子守神社がありました。

1194年に、胤信により幕張城内に建てられ、1508年に現在地に移されたそうです。


私は、今月末の篠笛教室の発表会で、「五木村の子守唄」を吹かせてもらうことにしています。
そこで、発表会でしっかりと吹けるように、神殿にお賽銭を上げて、2礼・2拍・1礼でお願いしました。


生憎の雨なので、安全性を考えて、首塚に登るのは止めて、昔の海浜地区を抜けて埋め立て地区に入りました。

これまで歩いた町並みとは、全く違った規模とデザインの高層ビルが立ち並んでいます。
不思議な気分になります。


お腹がすいていて、食事が美味しかったです。

海浜幕張駅の前で解散となりました。

雨も上がりました。

約8000歩の町歩きでした。

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私は、若手落語家・柳家吉緑さん(千葉県東金市出身)を応援しています。
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