このところ体調がわるい。記事の更新も長いこと滞ってしまった。
といっても、何か病気をしたというのではない。仕事を休んでもいないし、花粉症に参っているのでもない。その意味では、すこぶる健康体である。しかし、底深い疲れのようなものが抜けない気がするのだ。京都と大阪を往復するだけの毎日に、いいようのない閉塞感を覚える。
そんな鬱憤をバネにしてプライベートな時間を充実させればいいのだし、生き方上手な人はそれを実践し得ているのだろうが、ことはなかなか簡単ではない。ぼくはそういう切り換えが、全般的に不得手なのだろう。会社を一歩出た途端に仕事のことを忘れ、多くのサラリーマンがそうしているように電車のなかで漫画を読んだり、音楽を聴いて好きな世界に浸ったりできればいいのだが、テレビのチャンネルを変えるみたいにTPOに応じて自分をくるくると変化させることは、とてもできそうもないという気がする。
というわけで、休みの日には溜まりに溜まったアクや汚れを全力で落としにかからねばならない。週末というのはぼくにとって体を休める日ではないし、家の用事を片づけるための方便でもない。見失いかけた自分を再生するときなのだ。家にいる間も惜しんで展覧会に出かけたりするのも、そういった行為の一環である。美術は趣味などではなく、魚が水面に上がってきて口をパクパクさせるようなもので、生きるために欠かすことのできない生理的な欲求ではないかとすら思う。
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土曜日の昼前、大阪の「日展」に出かけた(京都に巡回したときも観たのだが、ここ最近は大阪展にもかようようになっている)。その日は朝から大降りの雨だったが、午後からは降水確率が急速に下がるという予報が出ていた。しばらく待てばやむだろうと家で待機していたが、なかなかそんな気配もない。仕方なく雨のなかを駅まで歩いて梅田行きの特急に乗った。
車内で揺られているうちに空はみるみる晴れ上がってきて、美術館のある天王寺公園に着いたときには、大気がくまなく洗い清められたように澄んでいた。シャワーを浴びてさっぱりした人間のように、木々の緑もみずみずしく潤っていた。雨が出足を鈍らせているのか、散策する人の姿もまばらだった。展覧会を観る前に辺りをぐるっとひとまわりすれば、煤で汚れた精神を浄化することができそうに思われた。ぼくはぬかるみも気にせず、美術館の裏手に面した慶沢園と呼ばれる庭園に足を踏み入れることにした。
〔天王寺公園内の温室と映像館は安藤忠雄の設計(ただし映像館は使用されていないようだ)〕
〔美術館脇の桜の芽は今にも破裂しそうにふくらんでいた〕
〔ベルベットのような苔に木の影が落ちる〕
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以前は青空カラオケの大音響が周囲にこだましていたが、行政によって撤去されたことは全国的に報道されたのでよく知られているだろう。もともと無料で出入りできた公園も、ホームレスが寝泊まりできないように柵を設け入園料を徴収するようにした経緯があった。カラオケがおこなわれていたのは、近代的に整備された公園と美術館との間に位置する、いわば有料エリアの隙間のような細い道路の上である。青空カラオケは単なる労働者や路上生活者の娯楽としてではなく、ねぐらを締め出された彼らのせめてもの抵抗の意味もあったにちがいない。
2000年には、この美術館でフェルメールを中心とした展覧会が開かれ、かの有名な『真珠の耳飾りの少女』も陳列された。会場は大混雑で、全国から観客が天王寺に殺到した。今のフェルメールブームの走りとなったイベントだった。入りきれない人たちは美術館のまわりに列をなして連なり、慶沢園の敷地へも入り込んでいた。そのときはちょうど6月で、蒸し暑い炎天下に並んでいた初老の人が耐え切れずに倒れたりするのをぼくも目撃した。
館内に入ったら今度はラッシュアワーを上回る人ごみに揉まれ、絵の真ん前に食らいついているだけでも必死だった。あんなに過酷な展覧会にはその後お眼にかかったことがないが、もちろんこれには仕掛け人がいたに相違なく、同時期に名古屋で開催された展覧会にもフェルメールがあったのだが、そっちは閑散としていたものである(ぼくは休みを取って2日連続で両方とも観た)。
今では公園の一画の小さな通路に「フェルメールの小径」という名前がつけられている。もちろん、フェルメールの名画が天王寺公園を訪れた記念としてだ。いかにも行政の考えそうなことだが、あのとき命がけで何時間も並んだ経験をもつ者としては、何とも複雑な心境にならざるを得ないネーミングだろう。
〔大きな池をめぐる庭園は「植治」こと小川治兵衛の作。もとは財閥の邸の庭だった〕
〔池には小さな滝が清水を注いでいる〕
〔水面は鏡のように穏やかだった〕
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