新井満(左)とエリック・サティ(右)
子供のころ、NHKの「みんなのうた」で流れた歌のなかに、ぼくがとても気に入っていた曲があった。『展覧会で逢った女の子』というのである。それは次のような歌詞だった。
雨 月曜日の昼さがり
シャガールの展覧会へ行きました
黄色いリボンの女の子
青いサーカスの絵の前で
どうしてあんなに泣いてたの
僕もかなしくなっちゃった
展覧会で逢った
黄色いリボンの女の子
歌は3番まであって、ピカソ、ルノワールとつづく。放送されたのは1980年というから、ぼくが9歳のころだ(このときシャガールはまだ生きていた)。ベッドに入って寝つくまでの間に、よく口ずさんだりしていたものである。
この歌を作詞し、歌ってもいたのが、あの新井満(まん)だということを知ったのはつい最近のことだ。新井といえば1988年、『尋ね人の時間』で芥川賞を受け、作家としてたちまち有名になる。そして今では、異例のロングヒットをつづけている『千の風になって』の訳詞者・作曲者として、その名をひんぱんに眼にするようになった(新井本人が歌ったCDも出ている由である)。
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『千の風になって』がこれほど売れつづけると、さぞや“億のカネになって”新井満のふところに飛び込んでくることだろう、などと下卑た冗談もいいたくなるが、それにしても作家であり、作詞作曲家でもあり、シンガーでもあるこの人はいったい何者なのか。その芥川賞受賞作も、実は読んだことがなく、ヒゲもじゃの顔だけは何となく知っているが、ぼくにとって彼は謎めいた存在であった。
新井満の著書をようやく手に取ったのは、つい先日のことである。図書館で本を物色していたら、『ヴェクサシオン』というタイトルの小説が眼に入った。ヴェクサシオンというのはフランス語で「いやがらせ」とか「いらだち」といった意味だが、エリック・サティのピアノ曲のタイトルとして、ぼくはこの言葉を記憶していたのだ。本をぱらぱらめくってみると、やはりサティの音楽にまつわる話のようだったので、読んでみることにしたのである。
サティというとかなりマニアックな曲をたくさん残しているが、一方で非常によく知られている作品もあり、メジャーなのかマイナーなのかよくわからない。ぼくの持っている携帯電話(かなり古い機種だが)には、着メロとして『ジムノペディ』と『ジュトゥヴ』の2曲が内蔵されている。こういうときは同じ作曲家が重複しないようにするのではないかと思うが、要するにサティの知名度を曲のポピュラーさが上回ったということだろう。
しかし『ヴェクサシオン』という曲は、名曲というよりも、折り紙つきのキワモノ音楽である。楽譜はごく短く、普通に演奏すれば1分ほどにすぎないが、何とそれを840回繰り返して弾くべしと書かれているのだ。そのとおりに演奏すると、曲が終わるまでにかかる時間は16時間とも18時間ともいわれる。「世界一長い曲」としてギネスブックにも認定された、筋金入りの珍曲なのである(かつてテレビの雑学番組でも取り上げられたことがある)。
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こんな曲は文字どおりサティの“いやがらせ”にすぎないのではないか、とぼくなどは思うのだが、ミニマルミュージックの先駆などと評価され、実際に演奏されたことも何度かあるようだ。ひとりではもちろん弾き切れないので、数人のピアニストがバトンタッチしながら弾くのだという。しかしそれを延々と聴かされるほうは、途中で誰かに替わってもらうわけにもゆかず、同じ旋律が840回繰り返されるのをじっと待たねばならない。
ぼくみたいにいつも「時間がない」と呪文みたいにとなえている人間は、ひとつの曲を聴くのに18時間も費やすのはまっぴらごめんだが、それを聴きおおせたときには何かこれまでとちがった世界が広がっているかもしれない、という気はする。
そこで思い出すのは、比叡山で今でもおこなわれている好相行(こうそうぎょう)だ。五体投地という、全身を地面に伏せる礼拝を、毎日3000回不眠不臥でつづけるという、ものすごい修行である。何日もの間、途切れることなく五体投地を繰り返していると、肘や膝は破れて肉がはみ出し、意識は混濁し、気を失うこともあるそうだ(黒田正子「京都の不思議」ランダムハウス講談社)。
しかしそうやっているうちに、仏の存在が観得されるのだという。つまり、仏が見えるのである。肉体と精神を極限まで追い詰めたところに出現する、神秘的な体験・・・。
サティの『ヴェクサシオン』を聴き終えたときにも、日常を超えた神秘な世界が、その扉を開いてくれるのであろうか。それは、実際に聴いてみないとわからないことだけれど。
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さて新井満の小説『ヴェクサシオン』は、実をいうとぼくにはやや物足りなかった。主人公の雨宮三郎は、どうやら新井自身の姿が投影された存在のようだが、物語が作り込まれすぎていて現実感に乏しいという気がした。耳の聞こえない女性との交流という設定は野心的だが、最後にはありがちな恋愛物語に収束していき、特異なテーマを生かし切れているとは思えなかった。
だがこれはこれで、芥川賞の最終候補にまで残り、受賞作と最後まで争ったという話だから、すぐれた作品なのであろう。ぼくの文学の好みとは、少しそぐわなかったということだ。
ただ、印象に深く残ったシーンもある。三郎が、カリフォルニアの丘の上にある墓地を訪ねる場面である。
《墓石に刻まれたアルファベットの文字と数字を眺めながら芝生の中の小道をゆっくり歩く。頭の中で素早く計算しながら歩く。百歳で死んだ男の墓石を見れば、〈ああ、長い人生だったんだ〉と思う。しかしそれが何と比べて長いというのか実のところ良くわからない。三歳で死んだ少女の墓石を見れば、〈ああ、こんなに短い人生を〉と可哀相に思う。しかしそれが何と比べて短いというのか、やはり良くわからない。はっきり言えることは唯一つ。墓石の下に眠る死者たちの生涯が、長短の差はあるにせよ、数字と数字との間に引かれた一本の線で表わされているということだった。単純明快な一本の線。生きるとは、その線上を走ること。》(新井満『ヴェクサシオン』新風舎文庫)
ここで述べられている主人公の死生観は、意外なほどクールである。人生を終えた後でも光になって畑にふりそそぎ、ダイヤのようにきらめく雪になるという、『千の風になって』の歌詞とはまるで別世界だ。
もちろん『千の風になって』は新井満のオリジナルの詩ではなく、作者不明とされる英語の詩からの訳である。でも、そこに歌われている一種の神秘的な、人の魂をかぎりなく解き放つような世界は、サティの『ヴェクサシオン』を聴いた後のように、われわれの日常とはちがった世界を垣間見せてくれるのであろう。
(了)
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