法心寺
駅前は高層ビルの建ち並ぶ都会へと見事な変貌を遂げている。とはいっても、震災前の西宮の街並みをはっきり覚えているわけではない。以前の記憶を語り継ぐのは、当然ながらその時代にその土地で長く過ごした人によってなされるべきで、ただの通りすがりにはその資格はないだろう。ぼくの脳裏に強烈に焼きついているのは、民家という民家が崩れ去って荒野のようになった街の姿だけである。廃墟はまだしも建物の原形をとどめているものかもしれないが、それすらも徹底的に破壊し尽くされた空しい残骸を見て、ぼくは呆然とするしかなかったのだ。
車がひっきりなしに往来する大通りを渡ると、閑静な住宅街に入る。すべての家はここ15年以内のうちに建て直されているはずで、まだ新しい。車道と家の間には幅広い歩道が整備されている。京都は大都市のわりに歩道が狭く、たびたび観光客の渋滞を引き起こしていることを考えると、理想的ともいいたくなるような街づくりをしている。
ただ、法心寺へたどり着くには少し迷った。この寺はいわゆる摂津国八十八箇所の第七十七番にあたり、歴史も古く信仰の篤い名刹らしいのだが、道路が新しく区画がきれいに整理されているので、どの道を行けば何があるのかまったく予想できない。たとえば寺院の前には店が集まって門前通りをなすように、ある程度の歳月を経た街並みには特定の場所からにじみ出す匂いのようなものが周辺にただよったりするのだが、この土地は住宅というパーツをてんでにはめ込んだパズルのように、相互の家々が何の連関もなく存在しているかに思われる。震災は、眼には見えぬ地域の紐帯すらも一瞬のうちに瓦解させてしまったようだ。
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とまどいながらも歩道を進んでいくと、寺のありかを示す矢印が道端にぽつんとあった。それに従って左に折れると、まだ新しい山門が見えた。当然ながら、法心寺も地震の被害を免れなかったのだろう。あとから調べてみると、工事を担当した工務店のホームページに詳細が書かれていた。区画整理の結果、敷地面積が以前より1割減らされ、建物の向きも旧地より40度ずれているそうである。およそ2年10か月もの工期を経て、7年前にようやく完成をみたものらしい。門の脇には赤い頭巾をかぶったお地蔵さんが立ち、誰も行き交う人のない道路をじっと見据えていた。
法心寺も1週間前には、墓参をする人で賑わったかもしれない。この一帯は西宮でも特に大きな被害をこうむったあたりだそうで、そのとき亡くなった人の墓がいくつかありそうな気がしたからだ。もちろん、津高和一もそのひとりである。しかしこの日は人影もなく、時間が午後4時をとっくに過ぎていたせいもあってか門扉は閉じられ、脇の小さな通用口が開いているだけである。さすがに、こういうところへずかずかと入っていく勇気はない。塀の外から静かに瞑目し、また日を改めてうかがうことにして、そこを離れることにした。
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梅田から阪急で西宮北口や神戸方面に行くとき、西宮車庫が右手に見えますが、そのちょっと先ですよね。西宮車庫は、阪急の新型車両の試乗会で2回ほど行きましたが、もっと早く知っていれば津高さんのお墓にも行けたな、と思い、読みました。