てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

15年目の西宮にて(1)

2010年01月28日 | その他の随想

西宮北口駅と兵庫県立芸術文化センターを結ぶ連絡橋

 去る1月24日のことである。雲ひとつない晴天の午後、所用があって阪急の西宮北口駅に降り立った。この日は、阪神・淡路大震災から15年を迎えた日からちょうど1週間後だった。

 ぼくも当時は大阪の豊中市に住んでいて木造アパートがかなり揺れ、最初のうちは停電したり断水したり、やがては改装のために部屋を移らなければならなかったりと不便を強いられたが、幸いなことに知人で死んだり怪我をしたりした人はひとりもなかった。毎年1月17日になると、ろうそくを灯しながら涙を流す人の姿がテレビで流れるが、ぼくにはそこまでして震災を悲しむ権利はないように思われた。亡くなった6000人余りの命に哀悼を表しつつも、ぼくのなかであの日のことは急速に過去のものとなりつつあった。

 ただ、毎年どうしても脳裏に鮮やかによみがえってくるのが、震災後何日目かに歩いた西宮の惨状と、抽象画家である津高和一の全壊した家だった(このことについては以前「瓦礫の下から」という記事に書いたのでもう繰り返さない)。ほとんど唯一残っていた高層マンションで生活されていたK先生も2年前に亡くなり、もはや西宮に知人はなく、痛々しい記憶だけがあとに残った。

 再開発の進んだ西宮を訪れることがあっても、駅の南側にある芸術文化センターに行ったり新しくできた百貨店を覗いたりするばかりで、すっかり生まれ変わった街並みをうろつくこともなかった。かつて「津高和一ふたたび(3)」の記事のなかで、津高の墓は駅から近い法心寺にあり、次に西宮に立ち寄る際には訪問したいなどと書いておきながら、ぼくはそれを長いこと忘れていた。この日、ぼくは駅の雑踏のなかを歩きながら、不意に法心寺に立ち寄ってみたい衝動に駆られたのだ。

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 ときどき思うのだが、「阪神・淡路大震災」という名称は誰がつけたのだろう。

 気象庁は「兵庫県南部地震」と命名し、地震直後のNHKではこの呼び名を使っていたような気がするが、民放の報道では「阪神大震災」とか「関西大震災」とかいったりしていたように思う(後者は「関東大震災」にならったものにちがいない)。「淡路」も付けて呼ばれるようになったのはしばらくあとのことだったはずだ。たしかに震源となった野島断層は淡路にあるし、淡路地域の被害が大きかったのももちろんだが、これでは西宮や芦屋、阪急の駅舎が全壊した伊丹、海峡をまたぐ橋の基盤がずれた明石などがすっぽり抜け落ちているような印象を受ける。

 もちろん「阪神」といういい方は大阪と神戸の間に位置する諸地域を含むのだろうが、われわれ関西人は東急の東横線が通る道筋をよく知らないように、「阪神」という言葉に包括されるイメージがどこまで普遍性をもっているかは疑問の余地があるのではないか。

 ともあれ、ぼくは震災直後の神戸に入ったことはない。凄惨としかいいようのない現場を生で体感したのは、西宮においてであった。そして、ぼくにとって1月17日は、津高和一が夫人とともに非業の死を遂げた日であった。そんな彼の墓があるという寺は、かつて地図で場所をたしかめたことがあった。その記憶をもとに、駅から方々にのびている連絡橋を伝い、あちこちにいるビラ配りの手をすり抜けて歩いていった。

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