日本画というものを意識したのは、いったいいつのことになるだろう。ごく小さいときから絵画に親しんできたわりには、日本画との出会いはかなり遅かったような気がする。いや、出会ってはいたのだが、それが日本画というものだと知ったのがずっと遅かったというべきか。
小学生のころまでは、ぼくにとって画家とはピカソのことであり、ミロのことであった。この2人の展覧会を幼いころに観る機会があったためか、“絵画”のスタンダードなスタイルはこういうものだと、勝手に思い込んでしまっていたふしがある。でもこれは、考えてみればそれほど不自然なことでもない。ピカソやミロの絵と、児童画とは、かなり近い距離にあるといえるからだ。
どの地域にもあるだろうが、地元の自治体が主催する公募展がぼくの郷里の福井県にもあり、やがて毎年それに出かけるようになった。絵画は洋画部門と日本画部門とに分けられていたが(洋画と立体造形がひとつにまとめられていたような気もする)、ぼくは両者のちがいをよく知らないまま、なぜか洋画のほうにより親近感をいだいていたように思う。
何も、洋画のなかにピカソの直系の子孫を求めていたわけではない。むしろ日本画のほうに、何となくなじめないものを感じていたようである。あるときなど、小学校の同級生だった女性が日本画部門に入選しているのに出くわしたことがあった。だが、鉄道の踏切を描いたその絵を観たぼくは、彼女の快挙をたたえるより前に、いったいどこが日本画なのだろうと首をひねったものだ。洋画と日本画とでは、使っている絵の具がちがうということを知ったのは、ずっとのちのことである(もちろん、ちがうのはそれだけではない)。
今では、ぼくは京都に住んでいるせいか、洋画よりも日本画を観る機会のほうが多くなってきた。いやむしろ、日本画を愛好するようになったことが、ぼくを京都に引き寄せた一因といってもいいほどだ(決して洋画への興味が薄れたわけではないけれども)。特に、毎年秋の「院展」を観ることは、ぼくにとって欠かせない恒例行事になった。何年前から観つづけているのか、今となってはよく思い出せないが、8年ぐらいは経つかもしれない。
しかしまだ幼いころに、ぼくは福井に巡回してきた「院展」を一度だけ観たことがあったようである。それが分かったのはつい最近で、滋賀県立近代美術館で常設展示されている小倉遊亀の絵を観ていたときのことだ。緑色に塗られた色面に、鮮やかな赤ピーマンを散りばめた一枚の絵が、ぼくにはどうしても、はじめて観る気がしなかった。しばらく見つめていると、遥か昔にこれの絵はがきを買った(正確にいうと親に買ってもらった)記憶がよみがえってきたのである。
調べてみると、その絵は昭和55年の「再興第65回 院展」に出品された『厨のもの』という連作のうちの一点であることが分かった。ぼくは9歳のときにその絵と出会っていたことになる。その当時、ぼくは日本画のなんたるかをまるで理解していなかったにちがいないし、出品作家の名前もまったく知らなかったはずだ(というより、読むことすらできなかったかもしれない)。しかし、おそらく100点ほどはあったと思われる日本画の中で、そのとき85歳を迎えていた小倉遊亀の絵がいちばん気に入ったということらしい。
それからかなりの年月が経って、ぼくが日本画好きを自覚するようになり、「院展」に通いだしてからも、小倉遊亀は現役の画家として出品していた。しかし彼女はもう100歳を超えていたのである。作品についてどうこういう前に、ぼくはその生き方にうたれた。うまいも下手もなく、描いたものがすなわち、その人自身であった。彼女は5年前に105歳で亡くなるまで、描きつづけた。
「院展」は毎年9月1日に東京で幕を開け、翌年にかけて全国を巡回するが、京都ではいつも9月の下旬から10月にかけて開かれる。街で「院展」のポスターを見かけるようになると、いよいよ秋だな、と感じる。今年もその季節が巡ってきた。何人かの同人作家は、ぼくにはすでになじみの深い存在だ。彼らは今年はどんな絵を出品しているだろう、と思いながら、これも毎年同じ場所の、京都市美術館の2階の会場へと出かけていった。
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小学生のころまでは、ぼくにとって画家とはピカソのことであり、ミロのことであった。この2人の展覧会を幼いころに観る機会があったためか、“絵画”のスタンダードなスタイルはこういうものだと、勝手に思い込んでしまっていたふしがある。でもこれは、考えてみればそれほど不自然なことでもない。ピカソやミロの絵と、児童画とは、かなり近い距離にあるといえるからだ。
どの地域にもあるだろうが、地元の自治体が主催する公募展がぼくの郷里の福井県にもあり、やがて毎年それに出かけるようになった。絵画は洋画部門と日本画部門とに分けられていたが(洋画と立体造形がひとつにまとめられていたような気もする)、ぼくは両者のちがいをよく知らないまま、なぜか洋画のほうにより親近感をいだいていたように思う。
何も、洋画のなかにピカソの直系の子孫を求めていたわけではない。むしろ日本画のほうに、何となくなじめないものを感じていたようである。あるときなど、小学校の同級生だった女性が日本画部門に入選しているのに出くわしたことがあった。だが、鉄道の踏切を描いたその絵を観たぼくは、彼女の快挙をたたえるより前に、いったいどこが日本画なのだろうと首をひねったものだ。洋画と日本画とでは、使っている絵の具がちがうということを知ったのは、ずっとのちのことである(もちろん、ちがうのはそれだけではない)。
今では、ぼくは京都に住んでいるせいか、洋画よりも日本画を観る機会のほうが多くなってきた。いやむしろ、日本画を愛好するようになったことが、ぼくを京都に引き寄せた一因といってもいいほどだ(決して洋画への興味が薄れたわけではないけれども)。特に、毎年秋の「院展」を観ることは、ぼくにとって欠かせない恒例行事になった。何年前から観つづけているのか、今となってはよく思い出せないが、8年ぐらいは経つかもしれない。
しかしまだ幼いころに、ぼくは福井に巡回してきた「院展」を一度だけ観たことがあったようである。それが分かったのはつい最近で、滋賀県立近代美術館で常設展示されている小倉遊亀の絵を観ていたときのことだ。緑色に塗られた色面に、鮮やかな赤ピーマンを散りばめた一枚の絵が、ぼくにはどうしても、はじめて観る気がしなかった。しばらく見つめていると、遥か昔にこれの絵はがきを買った(正確にいうと親に買ってもらった)記憶がよみがえってきたのである。
調べてみると、その絵は昭和55年の「再興第65回 院展」に出品された『厨のもの』という連作のうちの一点であることが分かった。ぼくは9歳のときにその絵と出会っていたことになる。その当時、ぼくは日本画のなんたるかをまるで理解していなかったにちがいないし、出品作家の名前もまったく知らなかったはずだ(というより、読むことすらできなかったかもしれない)。しかし、おそらく100点ほどはあったと思われる日本画の中で、そのとき85歳を迎えていた小倉遊亀の絵がいちばん気に入ったということらしい。
それからかなりの年月が経って、ぼくが日本画好きを自覚するようになり、「院展」に通いだしてからも、小倉遊亀は現役の画家として出品していた。しかし彼女はもう100歳を超えていたのである。作品についてどうこういう前に、ぼくはその生き方にうたれた。うまいも下手もなく、描いたものがすなわち、その人自身であった。彼女は5年前に105歳で亡くなるまで、描きつづけた。
「院展」は毎年9月1日に東京で幕を開け、翌年にかけて全国を巡回するが、京都ではいつも9月の下旬から10月にかけて開かれる。街で「院展」のポスターを見かけるようになると、いよいよ秋だな、と感じる。今年もその季節が巡ってきた。何人かの同人作家は、ぼくにはすでになじみの深い存在だ。彼らは今年はどんな絵を出品しているだろう、と思いながら、これも毎年同じ場所の、京都市美術館の2階の会場へと出かけていった。
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画廊きよみずのササイです。
gooのブログ検索で日本画と入力してこちらを知りました。
私も小倉遊亀先生が好きで来週から高島屋で展覧会があるので楽しみにしています。それに院展の訪れが秋の訪れと感じることが私も同じなのでとっても共感しました。これからもお邪魔しますのでよろしくお願いします。
画廊の方に訪問していただけるとは、夢にも思っていませんでした。どうもありがとうございます。
茶わん坂にお店があるのですか。今度、ぜひ立ち寄らせていただきます。
ぼくのブログは、展覧会を観てから記事を書くまで時間がかかるので、「院展」京都展はもう終わってしまいましたね。
小倉遊亀の展覧会は久しぶりなので、本当に楽しみです。このこともいずれ当ブログで取り上げるつもりですので、よろしくお願いします。
画廊きよみずさんのブログにも、お邪魔させていただきますね。
夫婦で、親の出身地が福井ですので、さらに嬉しかったです。
同じ院展でも、全く注目されていらっしゃる絵が違うようで、興味深く思いました。
日本画の良さは日本人にしか判らないのでしょうか・・・と、寂しいですね。ま近で、顔料がのっているさま、墨がにじんでいるのを、ジジッとできる、ガラスがない、院展、楽しいです。
上野の院展は、そのあと毎年日程が同じになる、芸大の文化祭へ行くことができるのも、本当に楽しいです。
有難うございました。
今度の展覧会で注目した絵はほかにもたくさんありましたが、全部について書くことはできないので、やむなく数点に絞りました。ぽらりさんが注目されたのは、どんな絵だったのでしょう。
「水上勉が遺したもの」にも、福井のことを書いていますので、そちらもお読みいただけたら幸いです。