てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ふだん着でない温泉(1)

2009年10月29日 | その他の随想


 5月に結婚してから、生活のサイクルがすっかり変わってしまった。独りのころは何をさしおいても“美術”、そしてブログに熱中できたのだが、いざ家庭をもったとなるとそうもいかない。食事をカップ麺ですまし、後片付けもそうそうにパソコンに向かうということはできない。遠方まで展覧会を観に出かけても、夕食どきを気にせず暗くなるまでぶらぶらしているわけにもいかなくなった。美術鑑賞を職業にしているのでもない以上、ほかに優先することは山ほどあるのである。

 書きかけのまま中断している記事が何本もあることは承知しているが、白状すると、腰を据えて長めのものを書き継ぐことが困難になった。プロの作家が切羽詰まるとホテルにカンヅメになったりする理由が痛いほどわかる。“物を書く”ということはぼくのたったひとつの表現手段であり、ぼくがぼくであることを証明する媒体であって、生きているかぎりつづけていきたいとは思っているけれど(それはプロになるということとは別の話だが)、毎日の暮らしのどのへんに位置づけるべきかが慎重に再検討すべき課題となって浮上してきている。かなり深刻な状態だ。

 しかしあんまり更新しないのも考えものだし、何より読者の方々に申しわけが立たないので、今回はごくプライベートなことを肩の力を抜いて書いてみることにした。そもそもブログとはプライベートなことを書くものではないか、というもっともな意見も聞こえてきそうだが、不特定多数の眼に触れる場所へ公開している以上、おのずとオフィシャルな性格も帯びてくるはずで(つまりは有名人のブログの記事がニュースのネタになったり、とある事件の容疑者や被害者が書いたブログが報道で盛んに取り上げられたりするのも、この両面の境界線の危うさを象徴している)、いい加減なことは書きたくない。

 そこで随想というスタイルを保ちつつ、今回はごくごく個人的なことを書いてみたいと思うのだ。考えてみれば随想や随筆を書くということは、はるか平安の昔からインターネットが登場する現代に至るまで、私的な思いを公的な場所に向けて表現し得る大切な方法だったのである。

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 貧乏なまま所帯をもったので、結婚式はおろか結納も、新婚旅行も、およそカネのかかるものはすべて割愛してきた。まさに紙切れ一枚で夫婦になったのである。しかしこのままではあまりに物足りないというか、まるで同棲しているのと変わりがないので、ほんのちょっとだけ贅沢をしてみることにして三重県の青山高原にある温泉施設に一泊しようと思い立った。「そのうち温泉に行きたいね」というのは、ことあるごとにぼくたち夫婦の間で交わされる呪文のようなものだった。これまで何度か一緒に旅行をしてきたが、泊まるのはいつも安手のビジネスホテルと決まっていたからだ。

 10月10日からの3連休のうち2日を利用して、とあるリゾートホテルに滞在することになった。予約をすませ、あとは体を運ぶだけだから体調に気をつけるように二人で申し合わせて暮らしていたが、思いがけないことに出かける2日前になって大型の台風が久方ぶりに日本に上陸し、列島をなめるように縦断していった。家のほうは何ともなかったが、翌日ホテルから電話が入り、送迎バスのルートが土砂崩れのため経路を変更せざるを得ないという。近鉄の駅からホテルまで35分の予定だったのが、およそ倍もかかるという話であった。

 ホテルは山の上に広大な敷地を構えていて、道路の傾斜も多く、別館との間をバスで行き来しなければならないほどである。温泉に浸かる以外これといって目的はなかったが、移動に時間がかかることを見越して、チェックインからアウトまでの時間をフルに使ってスケジュールを立てていた。それが、まだ出かけもしない先から頓挫したかっこうだ。けれど台風の当日にぶつからなかっただけでも幸運だったと思い、巨大な雲の渦が山上の空気を掻き混ぜて過ぎたばかりの高原に向けて出発した。

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 送迎バスが発着する駅は、たまに特急も停まるが驚くほど簡素な駅で、改札を出てもコンビニひとつない。ただ、伊賀鉄道というローカル線の始発駅が隣接していて、送迎バスを待って暇をもてあましているぼくたちの眼の前を、眼光鋭い忍者の顔が正面にプリントされた車両が呑気な音を立てて発車していった。あとから調べたらこれは松本零士のデザインだそうで、あの壮大な銀河鉄道と比べるとスケールははるかに小さいが、都会とは微妙にズレた地方のテンションの高さが何となく伝わってくるようでおもしろい。車体の側面には愛らしい猫の顔のイラストが書かれていて、あの「たま駅長」の人気に便乗したのかとも思ったが、路線も全然ちがうし関係ないようだ。

 やがてバスが到着し、3人ほどの中年婦人のグループとともに乗り込んだ。バスの後方に席を取ろうとすると、「もっと前に来られたほうがいいですよ、山道は後ろのほうが跳ねますので」と運転手がいう。1時間もの長い間、バスにガタガタ揺られることを考えると憂鬱にもなり、前の座席の背に膝を幾度も打ちつけねばならないことを覚悟するしかなかったが、ともかく台風一過の青空の下をバスはすべり出した。

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