40代女性向けの化粧品新ブランドのCMに、対象と同年代であるかつての80年台アイドルを起用したとのこと。
私が最も熱心にアイドルを鑑賞していた時期に一致する、ど真ん中のストライクゾーンだ。
4人とも間違いなくA級アイドルだった。
トップではなかったが、一時期トップクラスにいたことは事実だ。
しかし、最近テレビではほとんど見かけなかったという共通点がある。
大変書きにくいことではあるが、久し振りにテレビで見た4人とも、「昔と変わらずすごく可愛い」とか、「むしろ昔より綺麗になった」ということは、なかった。妻に言わせると、「そのあたりにいる普通の40代の女性と変わらない」。
キャッチコピー「よみがえれ私」に合わせて、そういう人を選んだのだろう。
加齢による衰えから「よみがえる」ための商品です、と訴求するため。
年をとれば「容色衰える」のは、残酷だが自然なことだ。
石川秀美などは、5人の子供を産んで育てているのだ。夫が芸能人だと言っても、自分自身が芸能活動をしていなければ、普通の母親、主婦の容姿になっていくのは当たり前だ。
それに比べ、菊池桃子や原田知世や(逮捕前の)酒井法子などは、例外的に、全く「容色衰えない」化け物のような存在だ。
もちろんそのための壮絶な努力をしているのだろうが、常にテレビに出続けていることが大きいだろう。
資生堂CMの狙いは、4人にとっては複雑な心境なのだろうが、楽しそうに記者発表にも臨んでいたのはさすがだ。これをチャンスに本格的な芸能活動に復帰しようとしているのかどうかはそれぞれだと思うが、久し振りに姿を見られて嬉しかった。
伊藤つかさ。
81年デビュー。「金八先生(第2期)」に出演し人気爆発。急遽『少女人形』でレコードデビューした。声量がなく、ささやくような歌唱だが、耳に心地よく、独特の世界観を持っていた。ニューミュージックの作家による作品を中心に作られたアルバム群は、聴き応えがあった。
幼いころから劇団いろはに所属しており、演技力はある。後年はミュージカルでも活躍。数年前には、何を思ったか突然ヘアヌード写真集も出した。
『春風にのせて』はB面曲だが、大貫妙子のいい仕事。つかさの声の魅力を存分に味わえる。『もう一度遭えますか』は、同一系統の歌唱法の菊池桃子『もう遭えないかもしれない』が本歌取り。
石川秀美。
82年デビュー。「花の82年組」のキラ星たちの中で、しっかりとポジションを確保していた。スポーツ少女で、運動会では大活躍。健康的な太ももがチャームポイント(?)だった。歌声は透明、硬質で、やや一本調子。2曲目の『ゆ・れ・て湘南』は、後世に残したいスタンダードナンバー。『涙のペーパームーン』は、絶好調時の代表曲。歌うのが楽しくてしょうがない感じが伝わってくる。
「同期入社」のシブがき隊の薬丸と「職場結婚」。
荻野目洋子。
84年デビュー。『ダンシング・ヒーロー』でブレイク後はポップシンガーとして大活躍。ラジオを通したような厚くて硬質な声、歌唱力もあるので、難しい曲も歌いこなしていた。しかし、デビュー後の約2年間、ブレイク前にもいい曲が多い。デビュー曲『未来航海』は、まだ線が細く、その分透明感のある声が印象的。冒頭の長い1フレーズを息継ぎなしで歌いきっていた。同じく切ない『ディッセンバーメモリー』、『恋してカリビアン』は西武球場で応援マーチとして長く使われている。
河合その子。
85年デビュー。おニャン子クラブの中で最初にソロデビュー。『落ち葉のクレシェンド』のスローな歌い出しは、か細い声で、お人形さんのようなルックスと相俟って、ハートを鷲掴み。そしてベタなイントラから、王道のアイドルポップの世界へ引き込むのはプロの手腕。非の打ちようのない名曲だ。
その後も、どこか現実と遊離したような曲調で、他のメンバーたちの曲とは一線を画していた。『蒼いスタシオン』は名曲の誉れ高い。これもどこかヨーロッパの駅をイメージさせる。後年のおニャン子再結成時にも参加せず、テレビで見たのは本当に久し振りだった。
4人4様。当時アイドル好きだった人は、誰か1人は「推し(当時そんな言葉はなかったが)」と言える子がいたのではないか。
因みに私は、断然伊藤つかさ。
私が最も熱心にアイドルを鑑賞していた時期に一致する、ど真ん中のストライクゾーンだ。
4人とも間違いなくA級アイドルだった。
トップではなかったが、一時期トップクラスにいたことは事実だ。
しかし、最近テレビではほとんど見かけなかったという共通点がある。
大変書きにくいことではあるが、久し振りにテレビで見た4人とも、「昔と変わらずすごく可愛い」とか、「むしろ昔より綺麗になった」ということは、なかった。妻に言わせると、「そのあたりにいる普通の40代の女性と変わらない」。
キャッチコピー「よみがえれ私」に合わせて、そういう人を選んだのだろう。
加齢による衰えから「よみがえる」ための商品です、と訴求するため。
年をとれば「容色衰える」のは、残酷だが自然なことだ。
石川秀美などは、5人の子供を産んで育てているのだ。夫が芸能人だと言っても、自分自身が芸能活動をしていなければ、普通の母親、主婦の容姿になっていくのは当たり前だ。
それに比べ、菊池桃子や原田知世や(逮捕前の)酒井法子などは、例外的に、全く「容色衰えない」化け物のような存在だ。
もちろんそのための壮絶な努力をしているのだろうが、常にテレビに出続けていることが大きいだろう。
資生堂CMの狙いは、4人にとっては複雑な心境なのだろうが、楽しそうに記者発表にも臨んでいたのはさすがだ。これをチャンスに本格的な芸能活動に復帰しようとしているのかどうかはそれぞれだと思うが、久し振りに姿を見られて嬉しかった。
伊藤つかさ。
81年デビュー。「金八先生(第2期)」に出演し人気爆発。急遽『少女人形』でレコードデビューした。声量がなく、ささやくような歌唱だが、耳に心地よく、独特の世界観を持っていた。ニューミュージックの作家による作品を中心に作られたアルバム群は、聴き応えがあった。
幼いころから劇団いろはに所属しており、演技力はある。後年はミュージカルでも活躍。数年前には、何を思ったか突然ヘアヌード写真集も出した。
『春風にのせて』はB面曲だが、大貫妙子のいい仕事。つかさの声の魅力を存分に味わえる。『もう一度遭えますか』は、同一系統の歌唱法の菊池桃子『もう遭えないかもしれない』が本歌取り。
石川秀美。
82年デビュー。「花の82年組」のキラ星たちの中で、しっかりとポジションを確保していた。スポーツ少女で、運動会では大活躍。健康的な太ももがチャームポイント(?)だった。歌声は透明、硬質で、やや一本調子。2曲目の『ゆ・れ・て湘南』は、後世に残したいスタンダードナンバー。『涙のペーパームーン』は、絶好調時の代表曲。歌うのが楽しくてしょうがない感じが伝わってくる。
「同期入社」のシブがき隊の薬丸と「職場結婚」。
荻野目洋子。
84年デビュー。『ダンシング・ヒーロー』でブレイク後はポップシンガーとして大活躍。ラジオを通したような厚くて硬質な声、歌唱力もあるので、難しい曲も歌いこなしていた。しかし、デビュー後の約2年間、ブレイク前にもいい曲が多い。デビュー曲『未来航海』は、まだ線が細く、その分透明感のある声が印象的。冒頭の長い1フレーズを息継ぎなしで歌いきっていた。同じく切ない『ディッセンバーメモリー』、『恋してカリビアン』は西武球場で応援マーチとして長く使われている。
河合その子。
85年デビュー。おニャン子クラブの中で最初にソロデビュー。『落ち葉のクレシェンド』のスローな歌い出しは、か細い声で、お人形さんのようなルックスと相俟って、ハートを鷲掴み。そしてベタなイントラから、王道のアイドルポップの世界へ引き込むのはプロの手腕。非の打ちようのない名曲だ。
その後も、どこか現実と遊離したような曲調で、他のメンバーたちの曲とは一線を画していた。『蒼いスタシオン』は名曲の誉れ高い。これもどこかヨーロッパの駅をイメージさせる。後年のおニャン子再結成時にも参加せず、テレビで見たのは本当に久し振りだった。
4人4様。当時アイドル好きだった人は、誰か1人は「推し(当時そんな言葉はなかったが)」と言える子がいたのではないか。
因みに私は、断然伊藤つかさ。