たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

盛岡の旧町名(内丸)

2012-03-31 | ぶらり盛岡
盛岡のまちづくりは,慶長3年(1598)の盛岡城の築城にあわせ、お城を中心に城下町が開かれたことに始まり、慶安4年(1651)にはすでにが盛岡23町があった。文化9年(1812年)に23町から28丁に変更され、侍町は文化11年(1814年)に小路に統一されている。
城下町盛岡においては、その歴史を今に伝える上で旧町名はとても重要な役割を果たすことから、昭和54(1979)年に「城下盛岡町名由来記」を発行(編集:盛岡市)、それらの旧町名については、市内27カ所に各町名の由来を記した案内板を設置した。これまでにも町名由来の案内板を訪ねてきたが、今回は最後の27番目の案内板のある侍町内丸を訪ねてみた。内丸の地名は現在も使われており、岩手県庁の住所は盛岡市内丸になっている。



(23)内丸

現在は盛岡の中心街で、県庁、公会堂、市役所、岩手医大等が並んでいる。中津川の上の橋ー下の橋間の北側で、岩手公園を含め本町通り・映画館通りで囲む範囲を指す。




公会堂と案内板






江戸時代,盛岡城の内堀と中堀の間に囲まれた区域を内丸と称したことに由来。藩主の一家・一門など高知(たかち)という重臣の武家屋敷が置かれた地域であった。寛永13(1636)年,3代藩主南部重直は御新丸という別郭を造っている。中堀は堀と土塁が廻らされ,外の町と区切られていた。東に中ノ橋御門,北に大手先(おおてさき)御門,西に日影御門があり,番所の検問を受けなければ入れなかった。明治3(1870)年に門が撤去,堀も埋められて出入が自由となった。武家屋敷も払い下げられて取り壊された。
明治維新後は,盛岡県の県庁(明治5年以後は岩手県庁)が置かれ,官庁街として発展する。明治13(1880)年には岩手中学校が設立され,同32(1899)年に岩手県盛岡中学校(現県立盛岡第一高校の前身)と改称し,石川啄木や宮沢賢治などを輩出。明治22(1889)年に盛岡市制が施行され,盛岡市役所が置かれた。




岩手県庁




盛岡中学跡の岩手銀行と啄木歌碑


盛岡の中学校の露台(バルコン)の欄干(てすり)に最一度我を倚(よ)らしめ  啄木





盛岡中学図書庫跡の岩手医大循環器センターと啄木歌碑



学校の図書庫の裏の秋の草黄なる花咲きし今も名知らず  啄木




盛岡中学図書庫は岩手県宮古市に移され寄生木記念館(やどりぎきねんかん)として、利用されたが、現在は閉館されている。



寄生木記念館(盛岡中学当時の図書庫)




国指定天然記念物・石割桜のある盛岡地方裁判所の場所は、江戸時代に北家の武家屋敷だったところです。石割桜は4月末頃がみどころです




裁判所と石割桜(2011.4.23)





憩いの場岩手公園の啄木歌碑



不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心  啄木







石川一(啄木)の雅号・ペンネーム

2012-03-24 | 啄木歌碑
歌人石川一の雅号・ペンネームは「翠江」、「麦洋子」、「白蘋」、「啄木」となっていますが、これらの雅号はいつごろ使ったのでしょうか。投稿雑誌・新聞、石川啄木全集(筑摩書房)等をみると、次のようになっています。

翠江(明治34年9月~明治35年1月1日) 

翠江(すいこう)は啄木の盛岡中学時代の雅号で、盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表している。その後、翠江の署名で岩手日報などで発表している。

 
    「爾伎多麻」      明治34年 9月       翠江
    岩手日報       明治34年12月3日    翠江
    岩手毎日新聞    明治34年12月21日   翠江 
    岩手日報       明治35年 1月 1日   翠江





啄木であい道の歌碑(盛岡)



        
花ひとつさけて流れてまたあひて白くなりたる夕ぐれの夢   石川翠江



この歌は、「爾伎多麻」の中の一首で、現存する啄木の作品中最も古い歌です。


 
麦洋子(明治34年12月31日~明治35年1月1日)

啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用したが、これは明治34年12月末から35年の正月にかけて書簡で用いただけのようです。


      書簡   野村長一宛     明治34年12月31日    麦洋子
      書簡  金田一京助宛   明治35年 1月 1日    麦洋子



争はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐   石川麦羊子
 

この歌は、野村胡堂宛ての書簡(明治34年12月31日)、金田一京助宛の書簡(明治35年1月1日)の歌の中の一首です。





白蘋(明治35年3月~明治36年12月) 

白蘋の署名では、明治35年に発行された「盛岡中学校校友会雑誌」に発表した歌が最初で、その後、雑誌「明星」に白蘋の署名で明治36年12月号まで投稿している。


    盛岡中学校校友会雑誌 明治35年  3月号    白蘋
    明星              明治35年10月号    白蘋
    明星             明治36年12月号    白蘋





啄木であい道の歌碑(盛岡)



血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋  石川白蘋(東京)



この歌は、啄木が盛岡中学を退学する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載され、自信を持って?文学で身を立てようと上京した。明星にはその後、白蘋(はくひん)の署名で多くの作品を発表している。


明星の作品には署名の後に出身地が記入されており、次のようになっている。

           明治35年10月号 石川白蘋(東京)
           明治35年11月号 石川白蘋(盛岡)
           明治35年12月号 石川白蘋(東京)
           明治36年 7月号 石川白蘋(盛岡)
           明治36年11月号 石川白蘋(陸中)
           明治37年 3月号 石川啄木(岩手) 
 

啄木が明星に初めて投稿した明治35年10月号の前述の歌は、出身地が東京になっている。啄木が盛岡中学を退学したのは、明治35年10月ですが、同じ月の明星の10月号にこの歌が掲載されている。明星の発行日は1日なので、この歌は、盛岡中学時代の盛岡からの投稿と思われますが、心はすでに盛岡を離れ東京にあり、出身地も東京になっている。
また、啄木は、明治36年2月に体調を崩し明治37年10月まで渋民に帰って来ておりますが、この間に明星に投稿した歌には出身地を、盛岡、陸中、岩手などを用いております。出身地の「渋民」を用いるのは嫌だったのでしょうかね。




啄木(明治36年12月~明治44年9月 )

啄木での署名は、「明星」明治36年12月号の長詩「愁調」があるが、短歌では岩手日報の明治37年1月10日が最初で、雑誌では、明星の37年3月号が最初のようです。


 
    明星           明治36年12月号      啄木(長詩「愁調」)
    岩手日報       明治37年 1月10日    啄木
    明星          明治37年 3月号     啄木
    明星          明治41年11月号     啄木
    詩歌          明治44年9月号      啄木
     血潮          明治44年9月号      啄木



啄木には妻せつ子との共著の歌があり、「明星」明治38年7月号に10首発表しており、その中の一首が次の歌です。



啄木であい道の歌碑(盛岡)



中津川や月に河鹿の啼く夜なり涼風追ひぬ夢見る人と  啄木・せつ子



啄木が数多くの短歌を発表した文芸雑誌「明星」は、明治34年4月に創刊され、100号目の明治41年11月号が終刊号になる。



明星 第1号


明星 終刊号





啄木はこの終刊号に短歌52首を投稿しており、その中の1首に次の歌がある。







港町とろろと鳴きて輪をゑがく鳶を圧せる潮曇りかな  啄木



この歌碑は、宮城県石巻市萩浜「羽山媛神社」境内にあり、2年前の2010年11月に石巻に行った時に撮影したものです。


啄木は新聞・雑誌に多くの短歌を発表してきたが、雑誌「詩歌」(明治44年9月号)に発表した17首、「血潮」(明治44年9月号)に発表した3首、が啄木の最後の公表作品になる。その中の1首が次の歌です。



ただ一人の
をとこの子なる我はかく育てり。
父母も悲しからむ。

石川啄木 (「 詩歌」明治44年9月号)




晴れし日のかなしみのひとつー
病院の窓にもたれて
煙草を味ふ

石川啄木(「血潮」明治44年9月号)













盛岡の旧町名(日影門外小路)

2012-03-20 | ぶらり盛岡
(22)日影門外小路
内丸の西門にあたる日影御門は、現在の北日本銀行本店の前付近にあった。この日影御門の外,四ツ家町に至る一画を日影門外小路と称し、中下級の武士が住んでいた。現在の盛岡中央郵便局の前の通りにあたる。盛岡城下の草創期には、三戸から移って来た人々が住み三戸町と呼ばれていた時代もあった。








日影門緑地


日影門外小路(現在の中央郵便局前の通り)




日影門外小路の入口右角には、御稽古場(藩校)があり、明義堂(めいぎどう)を経て、慶応2(1866)年に作人館(さくじんかん)と改称され、文・武・医を教授、幕末から明治にかけて多くの人材を生む温床となった。作人館跡は明治5(1872)年の学制公布により仁王小学校となり、同9(1876)年の明治天皇巡幸のとき行幸があった。現在その一部が明治天皇の聖跡記念公園(日影門緑地)となっている。以前、仁王小学校は四ツ家にあるのになぜ仁王小学校というのかなと思ったこともありましたが、仁王から移転されたのですね。日影門外小路から大通りまでの道は当時はなかったが、昭和に入ってから菜園開発がおこなわれ映画館通りとして繁華街になったようです。
日影御門を出て西に向うと仁王惣門があり、この辺りで赤川堰を堀とする土塁が廻らされた外堀の西門に当たっていた。
外堀の土手の上には、鐘楼が立ち、「三戸町の時鐘」と呼ばれていた。現在は桜山神社前の鶴ケ池の側に移転し、市の文化財に指定されている。




三戸町の時鐘





日影門外小路の西の裏の濠ぞいには日影門裏小路ができ、現在も盛岡中央郵便局裏にはこの小路があり利用されている。




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啄木の盛岡中学時代の歌

  乱れちる落葉の中の秋の水、流れゆくへの野は濃むらさき。
 
岩手毎日新聞 明治34年12月21日  柿の落葉集 石川翠江 名で 10首(その5)


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卒業制作展

2012-03-11 | ぶらり盛岡
大学生の締めくくりは卒業論文ですね。芸術系学部では卒業制作がこれに当たるのでしょうか。岩手大学の卒業制作展が岩手県民会館で行われております。以前は特設美術科と言っておりましたが、現在は芸術文化課程に変更になっているようです。
岩手大学は農学部、工学部、教育学部、人文社会科学部の4学部からなり、宮澤賢治も農学部の出身です。構内には啄木の歌碑なども建立されています。大学までは盛岡駅から歩いて25分ほどの所にあり、4学部が上田のキャンパスひとつにまとまっており、とても便利です。春には構内桜ロードの満開の桜はとてもきれいです。ぜひ一度訪れてみてください。






窯芸研究室 澤谷由子



金属工芸研究室 宮田るり



彫塑研究室 佐々木りえ



染織研究室 斎藤 愛



絵画研究室 小野寺 愛



この他に、版画研究室、映像メデイア研究室、インダストリアルデザイン研究室があり、総勢23名の作品展でした。

卒業制作といえば、ちょうど100年前、岩手県出身、萬鉄五郎の東京美術学校(現東京芸大)の卒業制作「裸体美人」は卒業時にはあまり評価されなかったようですが、後に重要文化財に指定されています。芸術作品の評価は難しいですね。

100年といえば、今年は啄木没後100年になります。岩手大学構内には、啄木の公表された最後の歌(「詩歌」明治44年9月号)の碑が建立されていす。






岩手大学構内の歌碑



ある日、不図(ふと)、やまひを忘れ、
牛の啼く真似をしてみぬー
妻子の留守に。

石川啄木





ひなまつり

2012-03-05 | ぶらり旅
岩手県紫波町の「ひなまつり」が3月2日~4日まで行われた。「紫波町のひなまつり」といっても町内の平井邸内でのひな飾りです。平井邸は豪商平井六右衛門が大正7年に内閣総理大臣に就任した原敬を接待するために新築された屋敷で大正に7年に着工し3年をかけて大正10年に完成した岩手県では数少ない邸宅です。完成した大正10年に原敬を迎え新築披露の宴を催すが、その年に原敬は東京駅で暗殺されている。ひな飾りは二階の33畳の大広間で行われた。天井板は3間長さの幅2尺の楠の2枚板であり、一階の廊下の板なども13mの長さの板を用いている。




平井邸でのひなまつり



1枚13m長さの板からなる廊下














享保雛(きょうほびな)
江戸時代の享保年間(1716~1736)に流行した雛人形。初期は高さも13cm~18cmと寛永雛とあまり大きさも変わらない小型なものでしたが、 後には45cm~60cmくらいの大型の雛人形となっていった。

男雛は両袖を張ったデザインで、 女雛は五衣(いつつぎぬ)、唐衣(からころも)姿で、袴は綿を入れて膨らませ、ボリュ-ムのある雛人形です。






古今雛(こきんびな)
「古今集」などの王朝への憧れから名づけたとされ、現代の雛人形もこの系統を継いでいるようです。







花巻人形(岩手県花巻市)

花巻人形、仙台の堤人形、米沢の相良人形は「東北の三大土人形」と称されている。展示されている人形は明治初期から大正時代に製作されたもののようです。







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啄木の盛岡中学時代の歌


  まづとりて涙あへなき妻琴や、細きうの音に慰めもつ子。
 
岩手毎日新聞 明治34年12月21日  柿の落葉集 石川翠江 名で 10首(その4)


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