たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

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盛岡三十三観音(第二十八番 正傳寺)

2012-12-28 | ぶらり盛岡
平成24年もクリスマスも過ぎ御用納めの日を迎えました。盛岡は数日寒い日が続きました。一昨日でしたか日中の最高気温が氷点下4度となりましたが、今日28日の御用納めの日は寒さも和らぎ車道の雪はだいぶ融け、どんよりとした一日でした。盛岡の北側にある四十四田ダムには氷が張っていましたが、橋の下の氷を割り釣りをしている人もおりました。
東京の最低気温が盛岡の最高気温と思ってください。













氷の釣り穴





第二十八番 正傳寺  魚藍観世音  盛岡市愛宕町22番22号
正傳寺は27番の報恩寺に並んであり、北山交番前の通りを進んで行くと正傳寺の大きな看板が立っていますので直ぐにわかります。

















二十八番の魚藍観音は本堂に安置されています。 魚藍観音については次のような伝説があります。中国唐の時代、魚を売り歩く一人の美しい乙女がおり、御仏を信仰する者、お経を読む者を探し、めでたく結婚したがまもなく没してしまった。この女性は、お経を広めるために現れた観音とされ、そのお姿を写したのは魚籃観音のみ仏だといわれ、信仰されるようになったという。この観音を念ずれば、海上安全、大魚祈願、家内安全、病気平癒にあらたかであるといわれる。







魚藍観音





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啄木の盛岡中学時代の歌

  古山に影ひく秋の雲のごとおもひ移りて行くや我興

 明星  明治36年11月号に12首(その1)  石川白蘋 

啄木は明治35年10月に盛岡中学を退学しましたが、明治36年12月まで、ペンネーム「白蘋」で投稿しています


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浅草「等光寺」の啄木歌碑

2012-12-24 | 啄木歌碑
浅草等光寺の啄木歌碑
 啄木は明治41年(1908年)、文学者として身を立てるため上京して創作活動に入り、明治42年から朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、浅草の賑わっている様子を歌に残している。啄木は苦しい生活の中で肺結核を患い明治45年(1912年)に27歳で死去した。葬儀は啄木の親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった等光寺で行われ、啄木一周忌追悼会も等光寺でおこなわれた。なお、啄木の遺骨は間もなく妻節子の強い希望で函館に移されている。また、啄木葬儀の一月前には、母カツの葬儀も行なわれている。
啄木の葬儀が行なわれたこの浅草等光寺には、啄木の顔のレリーフを彫り込んだ啄木歌碑があります。







啄木の歌碑は啄木生誕70周年の1955年(昭和30)、金田一京助氏らが集まって歌碑除幕式が行われた。この歌碑は門を入ってすぐ右手にあり、黒みかげ石の歌碑で、一握の砂にある「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」の一首が刻まれ、左上に胸像が刻まれている。歌碑の右には台東区教育委員会による案内板がある。








石川啄木歌碑                                 
台東区西浅草一丁目六番一号 等光寺 

石川啄木は明治十九年(1886)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。 明治四十一年(1908)、文学者として身を立てるため上京して創作生活に入り、明治四十二年からは東京朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、明治四十三年十二月には処女歌集「一握の砂」を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。 しかし苦しい生活の中で肺結核を患い明治四十五年(1912年)四月十三日に小石川区久堅町の借家で死去した(27才)。親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市の立待岬にある。                         
この歌碑は、啄木生誕七十年にあたる昭和三十年に建てられた。「一握の砂」から次の句が記される。 
           
浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心  
           
平成十五年三月                              
台東区教育委員会











浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心 
啄木



この歌は、東京朝日新聞(明治43年3月18日)に発表、「一握の砂」に掲載。








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仙台 「光のページェント」

2012-12-19 | ぶらり旅


昭和61年に市民ボランティアによって始まったといわれる、仙台の冬の風物詩です。定禅寺通のケヤキ並木には、今年は27回目を迎え、数万球の電球を取り付け点灯しております。夕方5時半にいっせいに点灯する様子は息をのむほどの美しさです。昨日は比較的暖かだったので、ゆっくりと定禅寺通を歩きました。
12月31日までの開催で、毎日夕方5時30分に点灯します、その瞬間がまた素晴らしいです。5時半に間に合わない方は、1日3回(18時、19時、20時)行われる「スターライト・ウインク」(約1分間の消灯の後、一斉に再点灯)があるようなので、この時間に合わせるとよいでしょう。




















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啄木の盛岡中学時代の歌


  ほゝけては藪かげめぐる啄木鳥のみにくきがごと我は痩せにき


 明星  明治36年7月号に4首(その4)  石川白蘋 


啄木は明治35年10月に盛岡中学を退学しましたが、明治36年12月まで、ペンネーム「白蘋」で投稿しています


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盛岡三十三観音(第二十七番 報恩寺)

2012-12-16 | ぶらり盛岡

第二十七番  報恩寺  松坂観音  名須川町31-5

報恩寺は北山交番前の交差点を過ぎるとすぐです。この寺は、慶長6年(1601)に三戸から現在地に移転されました。本堂は昭和35年の類焼により全焼、昭和39年に再建されています。



報恩寺



山門



本堂




報恩寺は「松坂観音」といわれる盛岡三十三観音の霊場でありましたが、昭和35年本堂全焼のとき、この第二十七番松阪観音は焼失してしまいました。
現在は焼失を免れた十一面観音を二十七番観音として安置しているということです。「新・盛岡三十三観音」?になるのでしょうか。


五百羅漢
報恩寺の盛岡市指定有形文化財である羅漢堂は享保20年(1735)に建造、嘉永4年(1851)に改築されている。ここには、中央に大仏盧舎那(るしゃな)仏坐像、その両側に釈尊の十大弟子像と十六羅漢像、周辺壇上に五百羅漢像が並ぶ。享保年中に駒野丹下ほか9名の仏師により、京都で造られ、搬送されたと言われている。羅漢とは、インド名アラハト(阿羅漢)の略称で、応供、人の供養を受けるにふさわしい聖者という意味のようです。








羅漢堂



五百羅漢





報恩寺の梵鐘
この鐘は戦時中の金属回収の時にも、由緒ある名鐘として、内丸にある時鐘と共に回収を免れて、残された貴重な文化財であり、昭和55年に盛岡市指定文化財になった。








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啄木の盛岡中学時代の歌


  このおきな筆を立てゝは虎のごと髯は少女のとめ針のごと


 明星  明治36年7月号に4首(その3)  石川白蘋 


啄木は明治35年10月に盛岡中学を退学しましたが、明治36年12月まで、ペンネーム「白蘋」で投稿しています


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盛岡三十三観音(第二十六番 大泉寺)

2012-12-08 | ぶらり盛岡
盛岡の今朝(2012.12.8)は雪です。昨日は夕方5時過ぎ大きな地震がありました。海岸の方は津波の心配があり避難された地区もあったようです。盛岡は地盤が強く地震の影響はいつも少ないです。




今朝の盛岡



岩手山(12月2日)





第二十六番 大泉寺  十一面観音   盛岡市本町通

大泉寺は旧油町にあります。盛岡中央郵便局から歩いて5分ほどです。十一面観音は山門を入った右側の観音堂に安置されています。この観音様はもと八幡町にあった帰命寺に安置されていましたが、廃寺になった際に大泉寺に移されたようです。
観音堂のすぐ傍には盛岡城築城工事にまつわる悲話で有名な貞婦おかんの墓があります。




山門



本堂



観音堂








十一面観音





おかんの墓
福岡城主九戸政実が南部信直に亡ぼされ、家臣畠山重勝の息女であった“おかん”は家来の三平と夫婦になって盛岡へ来た。三平は盛岡城築城の人夫となって働いていたが、工事中重症を負い働けなくなった。組頭である高瀬軍太はかねてから気品の高い“おかん”に思いをよせていたが、三平の災難をきっかけにますます露骨になり、夫の運命にも危機が及ぶと感じたおかんは、夫を殺すならば身を任せると言って欺き、自ら夫になりすまして高瀬の手に掛かって貞死した。己の非を悟った高瀬は自ら仏門に入り、おかんの菩提を大泉寺で弔ったという。




おかんの墓




この貞女おかんの墓は、石でたたくと不思議な音の鳴る墓石です。カンカンと鳴る甲高い音は、おかんの泣き声であるとか、夫の三平の唱える念仏であるとか、あるいはこの不幸な夫婦二人の声が合わさっているとも言われている。
 墓石には墓石を叩くための石が置かれており、この石が置かれている部分は、叩かれたために、自然にくぼみができています。300年以上、数知れぬほど多くの人々がこの墓石を叩いてきた証なのだが、この行為がおかんに対する賞賛や供養を意味するのでしょう。




墓石を叩くための石






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啄木の盛岡中学時代の歌


  この無興(ぶきやう)いはば雪ふる破(や)れびさし暮るゝ光の淡きに似たり


 明星  明治36年7月号に4首(その2)  石川白蘋 


啄木は明治35年10月に盛岡中学を退学しましたが、明治36年12月まで、ペンネーム「白蘋」で投稿しています


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