たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

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「啄木ふる里の道」の歌碑

2011-08-30 | 啄木歌碑
渋民公園から啄木記念館までの道路を「啄木ふる里の道」と称し、路上に歌を刻んだ石を埋め込んでいる。




左側は渋民小学校
































右側が渋民小学校



路上から見た岩手山







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盛岡の旧町名(葺手町)

2011-08-26 | ぶらり盛岡
(14)葺手町(ふきでちょう)

ふきでちょう、またはふくでちょうと呼ばれる。この町名は,屋根葺職人が住む町であったことに由来。初め屋根葺町と呼ばれたが,明暦元年(1655)年に葺手町と改められた。その後,葛(くず)右衛門町や吹手町とも呼ばれた。葛右衛門とは藩の屋根葺棟梁で,盛岡では茅葺き屋根を葛屋根と呼んだ。なお,藩が町家に初めて瓦葺を許可したのは,寛保元(1741)年であった。葺手町の東裏は外堀が通り,堀の向かいには藩庁の走り使いをする小者の住む小人町(こびとちょう)があった。

葺手町と紺屋町との間に斗米山(とっこべやま)という大石があり,古くはこの辺りを斗米といった。紺屋町から当町へ出る横町を愛染(あいぜん)横町と称した。町人や牛馬曳きは現岩手銀行中ノ橋支店前にあった高札場「札(ふだ)の辻(つじ)」を敬遠してここを通ったという。

葺手町から紺屋町に出る横道を愛染横町といい,地内に愛染明王像を有する宝林山愛染院に由来する名前で,明王像は後に愛染院が廃寺となってから斗米山(とまいさん)長福院に移された。古謡に「斗米寅子(とっこべとらこ)に,馬場松子(ばばまつこ),石間亀子(いしあいかめこ)に騙されな」と詠われ,宮沢賢治作品『とっこべとら子』の舞台になっている。



葺手町の旧町名由来の案内板






葺手町通り




長福院(葺手町の不動明王)





長福院の右側にある「斗米稲荷」




盛岡信用金庫とその脇の愛染(あいぜん)横町




愛染(あいぜん)横町





長福院の斜め向かいにある葺手町の三明院





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啄木の盛岡中学時代の歌

  鞍壺(くらつぼ)に桜かつ散る森の下道塔(あららぎ)高く月出でにけり 
 
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年3月≫ 「白蘋」名で7首 (その4)

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渋民公園の啄木歌碑

2011-08-23 | 啄木歌碑

石川啄木の思い出の山、岩手山。その美しく雄大な山を間近に仰ぎみる北上川沿いに渋民公園があります。ここにある啄木の歌碑は全国で一番最初に建立された歌碑で、大正11年(1922) 4月13日、啄木没後10年目の啄木の命日でした。碑陰には「無名青年の徒之を建つ」とあります。渋民公園は啄木記念館から歩いて5分ほどの所にあります。









やわらかに柳あをめる
北上の岸邊目に見ゆ
泣けどごとくに

啄木



この歌は、一握の砂「煙二」に掲載されている。


鵜飼橋 啄木公園の西側を北上川が流れており、「橋はわがふる里・・・」の詞書ではじまる啄木の長詩「鵜飼橋に立ちて」にうたわれているこの橋の歴史は古く、安政4年(1857年)の文書の中に「鵜飼橋流落候節云々」とある。この場所は、北上川の流れが激しく、たえず流失をくり返し、明治以降は渡し舟による通行もしばらく続いた。下田部落の竹田竹松氏が日清戦争に応召した際仙台近くでみた吊橋にヒントを得、兵役を終えるや橋の架設に奔走し、明治30年(1897年)3月、幅5尺(155cm)、針金を数本よじり川幅いっぱいに渡した吊橋・鵜飼橋が完成し、北上川の両岸の交通が確保された。この後いく度架け替えられ、使われてきましたが、老朽化したため、昭和59年、当時のイメージを活かし現代的な吊り橋として架け替えられた。啄木がこの地にいた頃は渋民駅はなく好摩駅が交通の主要拠点だった。渋民村住んでいた啄木は、東京や函館に行く際には現在の鵜飼橋の下流に架かっていた元の鵜飼橋を渡り、このあたりから鉄道沿いに好摩駅に歩いていたと言われている。(案内板)






鵜飼橋と姫神山










なお、渋民公園は渋民小学校に隣接している。






渋民小学校の校庭と姫神山



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盛岡の旧町名(八幡丁)

2011-08-20 | ぶらり盛岡
(13)八幡町(はちまんちょう)・片原(かたはら)

八幡町の町名は,八幡宮の社殿造営に伴い,宝暦8年(1758)年に社前の水田を埋め立て参道が造られ,鳥居町(門前町)として町割されたことに由来する。

片原は,八幡町に直交する片側だけの町並を片原町といったことに由来。同町は下厨川村の夕顔瀬片原と区別するため八幡片原町ともいった。

延宝7(1679)年8月に八幡宮の最初の御輿渡御が行われ,三日三夜の祭典があった。翌8年から流鏑馬(やぶさめ)を奉納するようになった。八幡宮例祭に城下23町から山車など練り物が出るようになったのは,宝永6(1709)年からである。8月1日から16日の祭礼中は隔日で市が立ち,他の町の市を禁じた。

八幡町は宝永の頃から茶屋など飲食店を中心とする歓楽街として発展。明治以後は,花柳界(かりゅうかい)として繁盛した。幡街(ばんがい)と呼ばれ,幡街芸者は芸事の修練でも本町の本街(ほんがい)芸者と互いに競い合った。










八幡宮



八幡町通り





八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)



八幡宮例祭(山車)




八幡町までは駅から大通りを通り「中の橋」を渡り、バスセンター前の交差点を右折すると、すぐです。歩くと駅から30分ほどかかります。駅から出ているバス「でんでんむし号」の左回り、右まわりのどちらでも同じ時間ですので、バスセンターで下車ください。



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啄木の盛岡中学時代の歌

  羊よぶ調みだれぬ野の中の古江のあたり桃の花散る 
 
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年3月≫ 「白蘋」名で7首 (その3)

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渋民「愛宕の森」の啄木歌碑

2011-08-18 | 啄木歌碑
啄木の母校であり、代用教員として教鞭をとった、渋民尋常小学校の裏の森には、愛宕神社が祀られている。総本社京都の愛宕神社支社として、およそ3百年前に建立された。防火の守護神として村人に信仰され、毎年旧暦の6月と8月の24日に例祭が催される。啄木は、ここを「命の森」と呼び、好んで散策しては詩想を練った。






愛宕神社裏に、昭和62年3月に緑地公園をつくり展望台が設置され、その展望台に啄木自筆を集字拡大した歌が刻まれた。


 
展望台



展望台上の啄木の歌



ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

啄木



この歌は、明治43年啄木歌ノート(8月28日)にあり、一握の砂「煙二」に掲載された。



この森には平成10年10月に建立された、次の啄木歌碑もある。







新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれどー

啄木



この歌は、啄木歌ノート「一握の砂以後」(明治43年11月末日より)にある歌で、「悲しき玩具」に掲載されている。
















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